天守閣雑談

他の調べものをしていてのオマケみたいなものです。知識的にはwikipedia程度ですから雑談とさせて頂きます。


三木城天守閣存在の可能性

故郷は歴史的には三木合戦が有名(つうかそれぐらいしかない)なのですが、舞台となった三木城の天守閣の絵が本丸跡にある稲荷社に奉納されています。撮りにいく時間がないので大河ドラマ「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて様から引用させて頂きますが、

私の怪しい記憶によれば物心ついた時にはあったはずですから、50年以上前のもののはずです。描かれた年代はともかく、子ども心に「三木城にも天守閣があったんだ!」という思いと、姫路城とくらべると「小さいなぁ」ってぐらいに思っていました。三木城の天守閣については「なかった」が定説ですし、私も基本的には賛成です。だからこの絵は復元図ではなく想像図、ぶっちゃけ願望図ってことになります。では三木城に天守閣があった可能性はゼロかといえば、ゼロでないぐらいには思っています。

三木落城は1580年ですが、落城前から秀吉は三木城を播磨の策源地にする構想を持っていたとされます。この構想は黒田官兵衛の姫路案献策により幻となりましたが、秀吉は戦略地点として三木をそれなりに重視したはずです。たいした話ではないのですが、根拠地にはしないものの今後も使える城としての改修を行ったはずです。ここでなんですが、当時の織田系の武将には天守閣建設ブームがあった気がしています。まず1572年に光秀が坂本城を作りますが、坂本城には美麗な天守閣があったと記録されています。

秀吉も1575年に長浜城を作ります。秀吉時代の長浜城の記録は乏しいようですが、光秀が天守閣を作ったのなら秀吉も作っていない方が不思議です。さらにいえば秀吉は姫路城には天守閣を作っています。秀吉が三木城を策源地にする構想を抱いていた時には三木城にも天守閣を作るプランはあったはずです。天守閣は城の最後の防御拠点の意味もありますが、領民に威権を示す意味もあります。平たく言えばパフォーマンスです。新しい三木城の根拠地としての改修計画は幻に終わりましたが、縮小された改修計画でも天守閣建造は残った可能性があるかもしれないぐらいです。まあ、22か月もの長期戦を行ったわけですから、新たな領主として天守閣というシンボル建築をやっていた可能性です。

とにかく殆ど記録が残っていないのでゼロではない願望程度ですが、怪しげな傍証はあります。諸国古城之図播磨三木城てなものがあり、wikipediaの解説には、

軍学に精通していた安芸広島藩第7代藩主、浅野重晟の命によって作成したと思われている。諸国古城之図の一部の絵図は現地を踏査していなものもあり、原本の粗図を写したものある。

浅野重晟が家督を継いだのが宝暦13年(1762年)となっていますから、三木落城から200年、廃城になったのが1615年ですからそこから150年後ぐらいになります。ですから信憑性もその程度ってところですが、実際の図をwikipediaより、

そこに

こう書かれています。六間四方とはささやかですが、天守台があった可能性ぐらいはあるってぐらいです。もっとも浅野重晟の時代には城には天守閣があるのが常識みたいな考えから書き加えられた可能性も多分に残りますし、六間四方という小ささから、天守台を築き始めたものの計画変更で天守台建設自体が途中で終った可能性もあります。ただ存在する方に無理やり考えれば、ささやかであってもそこに天守閣があった可能性も否定できないぐらいです。六間四方なんて小さな天守台に天守閣が作れるかですが、丸岡城を見てもらいます。

この丸岡城の1階部分は7間×6間となっており、このクラスの天守閣なら六間四方の天守台であっても建設は可能ぐらいは言えます。だから力業ですが可能性はゼロではないぐらいです。これは法界寺の絵解きの絵を写した上の丸公園の案内板の絵にある天守閣(グー爺さんのカメラ日記様から引用)ですが、

丸岡城クラスの天守閣なら案外これぐらいの形や規模の可能性は残ります。大きめの隅櫓ってところですが、三木城が解体され明石城に使われたときにどこかの櫓に転用された可能性があるぐらいの夢をもっておきます。


三木の稲荷神社にある復元図ですが、どこかで見たことがあると思ってました。まあ復元図を描くといってもモデルがあって不思議ないのですが、つらつら調べてみると犬山城で良さそうです。犬山城は現存する最古の天守閣で国宝です。かなり昔(小学生ぐらいだっかな)に行ったことがあるはずなのですが、アハハハすっかり忘れてしまいました。簡便にwikipediaより、、

こんな天守閣です。三木城復元図では律儀に向かって右側にある付櫓の破風まで真似ているのがわかります。ほいでもって犬山城天守閣は丸岡城より一回り大きくて、1階部分はおおよそ8.5間四方ぐらいになります。正確にはもう少し広いのですが、国宝犬山城の南側からの断面図より、

とくに1階と2階の構造を見て欲しいのですが、1階から2階に通された柱が4本あります。このうち3本は1から2階まで1本で通されていますが、一番右側の柱だけ異なっています。この部分は増築部分と見れそうで、室内面積が広くなっています、外から見ると付櫓の部分に該当するところです。そのために1階平面図で見ると

平面図は四角ではなく、右側の付櫓を設けるために斜めになっている部分があることが確認できます。犬山城天守閣の歴史を確認するとwikipediaより

  1. 1537年(天文6年) 織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭(乾山の砦)を造営して移った。現存する天守の2階まではこのころ造られたと考えられている。
  2. 1617年(元和3年) 親吉没後6年間親吉甥の吉範が城主を務めたのち、尾張藩付家老の成瀬正成が城主になり、天守に唐破風出窓が増築される。以後江戸時代を通じて成瀬家9代の居城となった。

wikipediaでも歯切れが悪いのですが、国宝犬山城HPには、

江戸時代に入り、元和3年(1617)尾張徳川家重臣成瀬正成(なるせまさなり)が拝領。このとき改良が加えられ、現在の天守の姿ができたといわれています。

犬山城は城主も頻繁に入れ替わり、なおかつ何度も攻防戦が展開されている城なので、途中で何度も増改築が繰り返され、唐破風を作ったのが成瀬正成の時代であるのはわかっても、他がどうなっているのか記録に残されていないぐらいで良いと思います。城の構造なんて軍事機密なので仕方がないのですが、織田信康(信秀の弟)が作った2階建ての屋敷がダイレクトに上に伸びたのではないと考えています。まず平地に屋敷を作り、それから石垣の土台の上に移築されたぐらいの経緯はきっとあると思っています。


犬山城天守閣の経緯は想像がたんまり入りますが、原型はただの領主屋敷だったと考えています。1階が会議室とか、事務関係が働く部分で、2階が領主家族の居住部分ぐらいでしょうか。とにかく普通の屋敷というか御殿てな見方です。でもってその屋根に物見台が設けられたのが始まりだった気がします。最初は仮設で梯子を使って外から登るみたいなスタイルです。世は戦国ですから仮設が常設になったとしても不自然ではありませんし、常設になった時に「外から登るより中から登る方が便利だ!」の発想が領主の誰かに浮かんだとしても突飛な発想と言えないと思います。結果として屋根の一部を切り取って内部から直接物見台に上がれるように改造したぐらいの想像です。

同時に物見台の拡張と雨風対策が行われたと考えたいところです。いざ合戦となれば、物見役が上がるというより、領主や重臣がそこに上がるだけでなく、その場で状況を見ながら作戦会議を開く方が機能的です。物見櫓は他にもあったとするのが自然ですが、領主の御殿の物見台は領主が登って物見するところぐらいの位置づけぐらいってところです。

さて現在でも12ヶ所の天守閣が現存していますし、たぶんその殆どに行ったことはあるはずですが、実際に登ると内部は結構愛想のない構造になっています。ごく簡単には日常生活の場としては無理がアリアリってところです。軍事施設ですから生活感がないのは理解できますが、天守閣にはもう一つのイメージがあります。天守閣自体が華麗な御殿になっているイメージです。

華麗な御殿のイメージはおそらく信長の安土城とか、秀吉の大坂城の影響が大きいと思っています。古い形式の天守閣を望楼型、これに対してとくに元和・寛永期から作られたものを層塔型とするようですが、天守閣の原型はやはり城主の館の屋根の上に設けられた物見台だったんだろうと今さらながら思っています。この思想は信長も素直に受け継ぎ、秀吉もまたそうだったぐらいです。そりゃ天守閣と別に御殿を作ればそれだけの費用と敷地が必要になるからです。

そんな天守閣がただの軍事施設になったのは、天守閣の巨大化と防御拠点化が同時進行で行われたためと考えています。高層化の問題は、日本の古い建築物の階段は梯子並みに急です。まあ階段を急にするほど面積を取らずに部屋を広く使えるかもしれませんが、当時の人間、とくに女性はかなり難儀したんじゃないでしょうか。これも2階ぐらいならまだしも、5階・6階となると厠に行くだけで登り下りが一騒動みたいな感じです。そういえば姫路城の天守は地下に厠があったっけ。

それと高層化するほど下層階の面積が広くなりますが、広くなれば照明にも困ることになります。原初の天守閣はタダの御殿の上に望楼を載せたものですから、御殿は生活スペースとしての設計が行われているはずです。濡れ縁があったり、明り取りの障子や窓がごく普通に設置されていたぐらいです。これが防御機能重視となれば分厚い壁が必要になり、窓も敵の安易な侵入を許さない小さなものになります。つまりは昼でも薄暗い部屋ってことになるわけです。そんなところを生活スペースにするのは無理になり、やがて単なる巨大な物置になっていったぐらいです。

ひょっとしたら安土城大坂城が「天守閣とは御殿である」の思想の最後のスタイルであったかもしれません。以後は住居の思想は切り捨てられ、純防御施設として発達していったのが天守閣の歴史の様な気がしています。


それなら別所氏時代の三木城天守閣はあったかも

三木城の本丸御殿は現在の上の丸保育所あたりであったとされています。上の丸保育所の前が上の丸公園なんですが、三木城の大手がどこにあったかを考えると興味が出てきます。上の丸公園は突き出した崖の上に立地しており、滑原方面からの攻撃はあんまり予想する必要はありません。一方で本丸御殿があった上の丸保育所からは大手方向を望むことが可能です。戦いは一般に大手門の攻防が一つの焦点になりますから、本丸から大手方向を観察するのに本丸御殿の上に望楼があった可能性はあると思っています。

これを天守閣としたのなら、別所時代にも天守閣はあった可能性が出てきます。形としては御殿の屋根に望楼を設け、そこに屋敷内から直接階段で上がれるぐらいの形式で、犬山城に類似していた可能性は否定できません。まあもうちょっと下層階部分が大きかったぐらいは想像できますから、御殿の上にポコッと望楼が乗っかっている程度のスタイルです。もっともそんな構造物を天守閣と呼んでよいのかどうかは私の知見ではなんとも言えないところですが、それでも、そこまで踏まえて三木城天守の復元図のモデルに犬山城を選んだのであれば、復元図の作者はかなり研究の末に描いた可能性はある気がしています。