平成27年3月三木市教育委員会「史跡三木城跡及び付城跡・土塁保存管理計画書」(市教委資料)を主に参考にしながらムックしてみます。とは言うものの186ページもある大部なものなので、拾い読みした程度のものであるは先にお断りしておきます。
秀吉が三木城攻略のために兵糧攻め戦術を取ったのは有名で、兵糧輸送ルートを遮断するために多くの付城を築いたのも有名です。ただ恥ずかしながら全体の付城配置が具体的にどうなっていたかは良く知りませんでした。つうか比較的最近になって判明した部分も多いはずです。三木市教委の資料はありがたいことに付城の配置図をあげておられます。三木城の包囲網もいきなり完成したわけでなく、おおよそ3期に分けて増えていったと分類されています。まずは天正6年7月頃となっているもので、
この時の主将は信忠で別所氏の支城である神吉・志方城を落とした後に三木城攻略のために作ったとなっています。それと付城の丸の大きさはその規模に比例していると考えて良さそうです。こうやって見ると美嚢川・志染川の北岸を中心に付城群を展開しています。この時点では城兵も健在なのはもちろんですが、本城を支援する支城群もまだまだ元気だったと思われますから、美嚢川・志染川を外堀に見立てて城から距離を取っての布陣と見ます。次が天正7年4月頃となっていますが、
三木城の南側に付城群が構築されているのがわかります。そうなったのは別所側の城外防衛線のうち、兵庫道・明石道などの防衛ラインが破られ回り込まれたためとなっています。南側に付城群が築かれた頃には三木城の兵糧補給ルートはかなり遮断されてしまったと見て良いと思います。最後が天正7年10月頃のもので、
秀吉の三木城攻略は城の南側からが中心となっており、最終段階で作られた付城は兵糧斜断だけでなく城攻略拠点のための色合いが濃くなっていると見ています。この状態から宮の上の砦、鷹尾城、新城と飢えで苦しむ三木城の曲輪を落としていくことになります。三木城については前にムックしましたが、基本構造として三木山から美嚢川方面に伸びる台地の上に作られており、北側の守りは固いですが、南側に弱点を持つとしてよいかと思っています。三木城の防衛は主郭の防衛だけではなく、南側に回り込まれないようにするのもポイントとして良さそうで、当時の街道の資料もあり、
当時の街道は三木城周辺を取り巻くように走っており、三木城が元気であれば敵兵はこの道を容易に利用できないというか、利用できないように城は作られていると思います。それこそ敵軍が通ろうものなら城兵が討って出て襲い掛かるぐらいでしょうか。それと城の南側に回り込んで付城を築くというのは、単に兵を送り込んで作るだけでなく、平井山本陣との連絡・補給が密接に行える必要があります。これが出来ないと孤軍となって城兵に殲滅されかねませんし、補給が不十分なだけでも逆に兵糧攻め状態に追い込まれます。ここまで可能になったのは三木城の戦力が低下し、主郭を守るのに精一杯となったためぐらいと考えます。
平井山本陣は故郷であり、また校区でもあるのですがあんまり行ったことがありません。たしか平井山のブドウ園が出来た頃に「ついで」に連れて行ったもらったぐらいで記憶も怪しいというか、はっきり言って覚えていません。まあ子どもの時から歴史は好きでしたが、さすがに子ども時代は建物がない史跡に興味の持ちようもなかったってところです。ですから是非再訪したいところですが、仕方がないので地図と資料で確認していきます。平井山本陣の位置は最近訂正されています。従来の伝承地よりやや南側の付城の方が現在では本当の本陣跡とされています。では具体的にどれだけ違うかを特定するのに難儀させられました。やっぱり現地に一度行くべきですねぇ。それでもなんとか地図上で確認できました。
本陣はなんのために作られたかになりますが、もちろん攻城のための戦略拠点です。本陣自体が城兵の攻撃に耐えられる要害をもつこと、また本陣に相応しい兵力の展開・収容が可能なこと、さらに敵城をよく観察できることぐらいが条件として考えられます。従来の比定地のネックとしてまず考えられるのは三木城を観察するのに、現在の比定地がある山が少々邪魔な点が挙げられます。それに比べて現在の比定地からは良く見えるとされます。後は現在確認出来ている陣地の規模と要害ですが、
現在の比定地は市教委の調査により確認されています。かなり大規模な陣地であるのがわかります。従来の比定地はささやかな規模のものとして良さそうです。ここで従来の比定地は調査すれば「もっと大規模のはずだ」の推論も成立しますが、そうであれば少なくとも現在の比定地と同等、いやそれ以上の規模が必要になります。それだけ大規模な陣地を隣接して作る必然性は乏しいので、私は現在の比定地を支持します。まずですが現在の地形図と諸国古城之図を較べてみます。
諸国古城之図 | 地理院地図地形図 |
- 平井村中村間ノ山付城・・・『播磨鑑』に「平井村中村間ノ山」との記載あり
- 平井山ノ上付城・・・『播磨鑑』に「平井山ノ上」との記載あり
諸国古城之図 | 平井山本陣地形図 |
従来の比定地と現在の比定地の距離はかなり近いとして良いと思います。そうやって近接した付城は三木合戦でも他に例がたくさんあるので、平井山本陣だけの特異例ではないにしろかなり近い感じがします。で、近いから一体のものかというとそうではなく、文献資料には別の付城として扱われています。地理的に漠然と思ったのは
- 従来の比定地・・・主として東条道方面の抑え
- 現在の比定地・・・主として三木本城攻略のための拠点
まずなんですが平井山本陣はいきなり完成形のものが出現した訳ではないと思います。かなりの規模なので、三木合戦中に必要に応じて順次拡張されたと考えるのが妥当です。そう考えて地形を見るとなんとなくですが、一つの仮説が浮かんできます。本陣付近の基本的な地形はV字型の谷間のようになっています。ヒョットしたら当初の構想では、この谷間全体を本陣とする予定であった気がなんとなくします。谷間が本陣で、南北の尾根に防御拠点を構築するぐらいでしょうか。そういう構想である程度まで工事が進んだ段階で現在の比定地の山上にスペースが確保できることが確認され、本陣は現在の比定地に変更されたぐらいです。従来の比定地は当初構想の本陣建設が進んでいたので、そのまま工事をある程度続けて付城として使われたぐらいです。
ここで気になるのは平井山本陣が作られた時の主将は信忠なんですが、本陣選定や付城群の配置に秀吉がどれぐらい発言権があったのだろうかです。考え方は2つあって、
- 信忠は名目上の御大将であったが、実務は方面司令官である秀吉であった。
- 信忠が主導権をもって行った
当時も織田家は強大でしたが、多方面作戦を強いられており、秀吉が使えた兵力は必ずしも十分でなかったといえます。当時の信長の基本戦略は、各方面軍がもてる戦力である程度の局面まで進ませ、ここぞという時に信長が各方面から兵力を引き抜いてでも強力な決戦兵力を形成して決着を付けるみたいなスタイルだと理解しています。秀吉も十分でない兵力で三木城包囲網を作ろうとすれば、本陣兵力の弱体化は避けられません。そりゃ付城を一つ作るたびに持てる戦力を分散せざるを得ないからです。当初の谷間構想の本陣を守るための兵力確保が難しくなれば、少ない兵力でも守りやすい要害の地が本陣として相応しくなります。
仮定を何段階も置いた仮説に過ぎませんが、従来の比定地もある程度の期間は本陣だった可能性はあると思っています。最終段階では現在の比定地になったのは間違いないと思いますが、従来の比定地が本陣であった期間も確実にあり、その期間も案外長かったのかもしれません。だから地元の伝承として残ったぐらいは考えられるところです。
諸国古城之図は、作成されたのが落城から200年ぐらい経ってからです。もし浅野家の家臣が実地調査に訪れたとしても、地元の住民は従来の比定地を本陣と教えると思います。しかしそうでななく、現在の比定地を本陣として描写しているとして良さそうです。しかし指し示しているのは現在の比定地です。そうなると考えられることは、
- 諸国古城之図が作成された頃は現在の比定地を本陣とする地元伝承であった
- 地元伝承とは関係ないルートで現在の比定地の情報を持っていた
wikipediaでも行政手腕に秀でていたとなっていますから、武勇だけの武将ではなかったぐらいに考えても良さそうです。だからこそ秀吉に買われたのだと思いますが、三木合戦の時にも普請系の工事の担当もやっていた可能性はあります。そういう行政職として関わっていたのなら平井山本陣の縄張り図にも接触する機会があっても不思議ありません。本陣移動説の仮説は置いといても、平井山本陣は規模から考えても籠城戦中に順次拡張されたと考える方が自然だからです。そういう拡張工事のためには図面も必要だろうぐらいの考え方です。
当時も城の縄張り図は絶対の秘密だったでしょうが、平井山本陣は付城とはいえ野戦陣地であり、落城後は放棄されますから、縄張り図を長政が保持していた可能性はゼロとはいえませんし、それが芸州浅野家に伝えられていたぐらいは想像してもエエんじゃないでしょうか。そうじゃなかったら、落城から200年もしてすっかり里山に戻っている現在の比定地をいくら歩いたところで、あんな図面は描けない気が私にはしています。いずれにしろ現地には1回行かないとあきませんね。