礼について考える

礼と言う言葉は現在もごく普通に使われています。お礼をするとか、失礼であるとか、日常用語として溶け込んでいます。礼儀作法なんて言葉もあり、ある程度公式の場ではこれに習熟していないと困るときもありますし、最近ではもう少し違う表現でマナーとかエチケットに置き換えられて使われる時もあるようです。

もともと礼とは人間関係をスムーズにするためにあるものです。人間が集団で暮らすと秩序が必要です。集団の構成員が全員好き勝手をすれば集団を保持できません。また人間はある程度の集団を作って暮らす必要があります。たとえ二人の人間の関係でもそこにはルールが必要であり、礼が欠かせないことになります。

孔子が集大成した中国の礼ですが、礼の概念を述べる時、これを全宇宙にまで広げる考え方が孔子以前にも成立しています。礼とは人と人との関係、集団と集団の関係が表面上の基準で、その上下を位置づけるの一面はありますが、この秩序関係は地上世界のみで考えるのではなく、大地も天も含めての宇宙と言う概念で自らの位置づけを考え行うべきものであると言う考えです。

宇宙とは現在の宇宙とは違います。古代中国の宇宙とは自らが踏みしめる大地、大地の下の地下世界、頭上を覆う天空のすべてを指します。さらにそれだけでなく宇宙意思と言うべき天命があり、そのすべてを総合して判断した上で自らの存在価値を知り、他人の位置を知り、その上で行うのが礼であると言うものです。すなわち礼を知り、正しく礼を行う事が人間が正しく暮らして行く上の必須事項であると言う考えです。

礼に反する事は宇宙の進行に反する事になり、反する事で宇宙の流れに乱れが生じ、その報いは必ず来るとでも表現すればよいのでしょうか。この辺は私如き生齧りでは中途半端な理解になる事が残念ですし、もう少しうまい表現に出来ないのが悔やまれるところです。礼の本質は人間が社会の中で守るべき規範であり、これを正しく理解して実行する事こそが世の秩序を守り、平和な社会を作る原動力とでも言えばよいでしょうか。

現代社会の礼はどうでしょうか。礼も時代とともに変化するはずです。変化しても礼の本質は変わらないと思っています。礼の本質に反する行為は社会の秩序を乱すだけではなく、混乱を招くと思っています。今の現代社会でも必要な礼は多々あると思います。もちろんネット世界に於てもです。

ネット世界においては各人が自分の判断に基づいた情報発信が出来ます。しかし発信した意見が常に万人に受け入れられるわけではありません。意見を同じくする人もあれば、そうでない人もいます。また学校の試験ではないので、正解が必ずしもあるものではありません。また正解も一つであるわけではありません。ここで意見交換が必要になると考えます。ネットではそれも可能です。

交換された意見には耳の痛いものがあるかもしれませんし、自らの思い込みによる間違いもあるかもしれません。あってもそれが正統な意見であれば、それを取り入れられる嬉しさがあります。ただし反対意見であってもそれが必ずしもすべて正しいわけではありません。どんな人間であってもすべての情報に精通し、それを公平無私に判断できるわけではありません。ある程度の偏りのある考えに基づいてしまうのは避けられないことです。

意見は常にすべて正しいわけではありません。反対意見も常に正しい意見ではありません。議論とは種々の意見や反対意見の中から、出来るだけの努力で「正しそうな意見」を摸索するものだと思っています。そのための甲論乙駁は必要ですが、甲論乙駁中に欠いてはならないものがあると考えています。それが礼です。

匿名世界の利点で大胆な意見を表明する事ができます。大胆な意見ほど反論は集まります。これは望ましい事です。ただしその意見にいくら反感があろうとも、悪感情を込めるのは礼に反すると思います。人は悪感情には極めて鋭敏です。それは倍加して返ってくると考えます。冷静な指摘であれば、自省するキッカケになりますが、悪感情が込められた意見であれば残るのは憎悪だけと考えます。

人はネットと言う意見を自由に発表し、交換できる道具を手に入れました。今後もこの重要性や存在意味は重くなっていくと考えています。しかしそこに礼が無ければ、寒々しい極論が横行する世界になってしまうと思います。本来目指すべき世界は自分の意見を押し売りして回るものではなく、立場を超えて衆知を集める場になるべきじゃないかと考えています。

自らへの訓戒として礼を忘れない意見交換を心がけようと誓います。