医者と患者の距離4

このシリーズも4回目、正直くたびれました。書いているほうが鬱になりそうで、そろそろキリをつけてもっと軽い時事の話題、たとえばWBCの事なんかも書きたいのですが、ここまで書いちゃったので自分なりのゴールを目指したいと思います。

昨日の3回目で荒れる学校に原因を求めましたが、荒れる学校が原因と言ったのではなく、学校を荒れさせた社会状況が真の原因と考えています。子供社会の変化は世相を映す鏡であり、なおかつこれを先取りし先鋭化して映し出すと私は考えるからです。

当時の時代背景は記憶に頼るので完全に教育現場の現状とシンクロしていないかもしれませんが、高度成長が終焉に向かっていた時代であったと思います。高度成長期の本当の世相は私には実感としてわかりません。わかりませんが、聞き読みした範囲で推測すれば、「勤勉は報われる」であったと考えています。本当に報われたかどうかは別にして、真面目に頑張ればそれだけの報いはあると信じ、サボればそれだけの報いがまたあると感じていた時代であると考えます。

今から思うとあの当時は貧しかった。貧しかったが故にみんなで頑張って、頑張った分だけみんな一緒に豊かになろうと言う、共通意識がどこかに合ったような気がしています。共通意識は無理があるかもしれませんが、共同体意識と言い換えても良いと考えています。また将来に輝かしい未来があるような気がしていた時代であったような気もしています。その夢の実現手段は難しいものではなく、まじめに働く事が唯一の手段であり、それだけがすべてであり真実であった時代と考えます。

そういう世相が揺らぎ始めたのはオイルショックでなかったかと思います。正確な経済統計まで調べていませんが、実感として真面目に働いても必ずしも報われない感触が拡がったと思います。高度成長期に誰もが持った輝かしい将来は急速に色あせ、真面目に頑張っても夢が実現できるかどうかは不透明となり、社会に閉塞感が広がり始めたと考えます。夢が無い社会は将来のために頑張る、今は苦しいけど先には良いことが待っている「先憂後楽」的な考えより、とりあえず今を楽しもう、先の事など考えても分からないものは考えない、刹那的な考えが広がる素地となります。こういう社会背景が教育現場で現れたのが荒れる学校ではないかと私は考えます。

その次に訪れたのはバブル期です。バブルの時代は実感として手触りのある方は多いかと思います。この時代の取り方は様々でしょうが、真面目にコツコツ働くよりも、人を出し抜く事で一攫千金を奪う事が正義であると覚えた時代と私は見ます。出し抜かれないようにするには、人間はむやみに人を信じる事が必ずしも良い事ばかりでないにつながります。出し抜いた者が勝者であり、勝者になるためには手段を選ぶ必要は無く、また高度成長期とは違い勝者は少数です。

バブル崩壊後もこの考えはゆっくり浸透していっていると考えます。つまり社会は共同体としてみんなで頑張って、みんなで豊かになろうの考えは急速に縮小し、頼れるものは自分のみ、自分が生き残るには競争を勝ち抜かなければならないし、勝ち抜くためには手段の是非を考える事も無く、他人とは信用するものではなく、利用するものであると言う考えです。つまりは個人主義の台頭です。個人主義は一概に悪いものではありません。反対語として集団主義がありますが、これが一概に良いものであるとも思いません。ただし何事も行き過ぎると弊害が出ます。

個人主義を端的に表したものに拝金主義があります。拝金主義では物事の価値観をすべて金銭に置き換えて考えます。つまりこれこれの行為はナンボであると。逆にナンボか払ったからにはそれに見合う行為を要求します。敬意もまた金銭に換算され、それ以上でもそれ以下の価値観は考えません。考えるのは支払った対価以上の価値があったか、無かったかが関心の中心になります。

それですむ業種もあるでしょうが、それでもすべてそういう価値観で運用されると非常に寒々しいものを感じます。仕事にも対価以上の誠意が込められているものはいくらでもあります。誠意さえ金銭に置き換えられる世界は空恐ろしいものを感じてしまいます。あそこで笑顔を見せたのも、お世辞を言ったのも、すべて○○円の世界です。

医療界にこの流れが滔々と流れ込んだ結果が、医者と患者の不必要なほどの距離の原因であると考えます。医療と言う仕事はたしかに診療報酬という公定価格のある商売です。診療報酬と言う対価を支払ったからにはそれに見合う仕事は当然してもらう、いやそれ以上の仕事をしてもらうというのが当然と言う事になります。皮相的には間違っていませんし、理屈は通っています。

しかし医療はそんな商売ではありません。医療は科学ですが、間違っても完成した分野ではありません。まだまだ解明されきれていない人体と疾病に対し、わかっている知識だけで立ち向かう仕事なんです。言ってみれば数が全然そろっていないジクソーパズルのパーツを見ながら、完成図を予想しているような商売です。ジクソーパズルのパーツは世界中の研究者が長年の努力によって一つづつ解明はしていますが、それでもそれがいつ完成するのか、はたして完成する日があるのかさえわからない代物です。

そういう不確定要素を多分に含んだ医療に対し、○○円の価値に完全に置き換えて、すべての結果を要求するのが医者と患者の距離につながっていると考えます。医療はいくらお金を積まれても、それに対して常に満足の行く結果を出せるものではありません。医療には限界があり、医者は限界をよく知っています。限界があるものに、常に一定の成果を求められてもそれに応える事が出来ないできないのです。

ところが現在の医療ではそういう事が求められています。もちろん患者さん全員がそうではありませんが、そういう事を求める人間が鰻上りに増えています。医療は言い切ってしまえばやってみないとわかりません。たとえば薬一つでも服用してみない事には効果は分かりません。副作用もまたそうです。手術もそうです。どんな不測の事態が起こるかなんて、やってみないとわかりません。そういう不測の事態に対する検査や、対処法は日々研究されていますが、完璧なんてものはこの世の中に存在しません。

病人は治癒という結果を求めて病院を受診します。治癒という結果のために対価を払います。しかし現在の医療では間違い無く求める結果を出す事は不可能であるという事です。しかし満足の行く結果を得られなかった病人の不満は、年を追うごとに大きく肥大しているということです。この差こそが現在の医者と患者の距離といえるのではないかと考えます。

そういう視点で見ると現在の医者の患者の距離がかなり説明できます。医者は最善を尽くすことが医療と信じています。私もそうですし、多くの医者もそうのはずです。ところが患者にとっての医療への考えは、結果のみがすべてです。どんなに医者が最善を尽くそうとも結果が出なかったときは、患者は大きな不満を抱きます。この不満の大きさが医者の患者の距離そのものと言い換えても良いと思います。

4日もかけて論じたわりにはごく平凡な結論になってしまいました。一介の町医者ではこの程度が限界です。私如きの手には大きすぎて扱いきれないと、今さらながら痛感しています。また「だからどうるんだ」とも言われれば、呆然と立ち尽くすほかには私にはで来ません。さらにこれが真相かといえば確信はまったくありません。たんに「私はそう考えている」以上の証拠はどこにありません。

まあこんな見方もあるんだとぐらいに考えていただければ幸いに存じます。それと重過ぎるのでしばらくは他の話題にするつもりです。何事も身の丈にあった事をするのが肝要な様なようで・・・。