江戸時代も金毘羅参りのためには瀬戸内海を渡らないといけないはずだけど、その船って西宮から出てたの。
「あれは西宮からも出ていたが正しいやろ。西国巡礼のオプションとしての金毘羅参りも始まりは多さからやったはずやねん。そやから中山寺から西宮に寄り道したんもおったぐらいがより正しいと思うで」
十返舎一九の作品には金毘羅参詣続膝栗毛まであったのか。この作品では木津川から丸亀に三日半で着いたとなってるどうだけど、エラい時間がかかってるな。
「そういうけど、この三日半は小説やからかなり理想的に行ってのものやってなっとるぐらいや」
当時の航路は大坂からまず室津に向かったのか。室津から小豆島の東側を南下して四国の沿岸に向かい、さらに沿岸沿いに西に進んで丸亀を目指したそう。だけどこの航路は日数もかかるけど天候の影響も大きかったそうなんだ。
「かなり大きかったそうや。当時の航海技術からしたら室津に行くだけでも一苦労みたいやったみたいやねん」
とくに明石海峡は難所だったのか。今でもそうだと言うものね。だから明石海峡を通過できる日和を待つのが嫌で参詣者は船を乗る場所を西へ、西へとシフトしたらいしいんだ。
「江戸時代のこっちゃから、予約なんかしてへんから、大坂の船が出そうにないと聞いたら、大坂で待つのやのうて西に歩いていったみたいやねん」
これこそ当時の旅人の感覚だ。この西に歩くと言っても半端じゃないみたいで、西宮辺りもあったとは思うけど、高砂もあったり、
「室津までどころか、牛窓ぐらいから、さらには下津井まで行くようになったらしいねん」
下津井って、
「宇高連絡船の航路やな」
当時の感覚として海路はとにかく不安定だし、航海中だって船が揺れるから船酔いにも苦しんだとか。料金だって距離が延びるほど高くなるだろうから、それだったら歩いてしまえになったのか。
金毘羅参りの航路は室津からも小豆島に西側を通るルートに変わって行ったそうだけど、最短距離でまだしも確実性の高い下津井からの航路がだんだんとメインになっていったそう。
「海路がいかに大変やったんかわかるんと、それだけ参拝客が分散しても金毘羅船があちこちの港から出るぐらい多かったんがわかるな」
だから西宮からも出る船もあったってことか。
「この辺の海は、冬は北西の季節風が強くなるやんか。そうなったら明石海峡の東側からは行けんようになるぐらいで良いと思うで。だからその季節に金毘羅参りをしようと思えば西へ西へシフトしたんやと思うねん」
日程的には大坂から順調に行って三泊四日だけど、下津井まで来たら一泊二日で着いたらしい。さらに下津井まで来れば船賃も五分の一ぐらいになり、運航もかなり確実性が高くなったとか。
「下津井の方かって商売やから喩伽大権現との両参りもアピールしたとなっとるわ」
それってどこだ。
「廃仏毀釈の時に蓮台寺と由加神社に分かれたんやけど、江戸時代は栄えたそうや」
コータローが言うには江戸時代も下るほど観光客の奪い合いが盛んになり、今でいう旅行代理店みたいな機能を宿屋とかが持つようになったと見て良いそうなんだ。
「宿屋と渡船業者が手を組むとかや。それだけやない、神社仏閣かって参拝客が多い方が儲かるやんか。金毘羅参りも江戸初期の頃は新興観光地やったから、宮島とセットで売り出していた形跡も残ってるそうや」
それってもしかして、大井川の川止めみたいな側面もあったとか。
「あったと思うで。天気予報が無いような時代やんか。船を出す出さへんは船頭の腹一つやけど、なんだかんだで客を待たせた方が客も増えるし、宿屋かって儲かるやん」
それぐらい海路が危険で不確実なのはもちろんあったとは思うけど、客の方にしたら旅費がうなぎ上りに増えて行くから、
「それやったら歩いて近づくようになったのはあると思うで。ちなみに下津井の方は確実性を売りにしとったらしいねん」
旅程的にも順調に行けば大坂から船が早いだろうけど、とにかく遅れたら一日単位で伸びて行くから下津井まで回ってもかえって早いとかあったかも。それにしても、そこまで苦労して金毘羅参りをしたかったんだよね。今はどうなの、
「今でも香川で一番の観光地や。今でも年間で三百万人ぐらいおるねん」
ちなみに伊勢神宮の半分弱ぐらいなのか。
「もっとわかりやすく言うたら、阪神の年間観客動員数ぐらいが参拝してるねん」
ふへぇ、そんなにいるのか。まさに魂消た。それぐらい人気があったから、海路の困難を乗り越えても金毘羅参りに行ったんだよね。千草だって一度ぐらいは行って見たいと思うものね。
金毘羅参りが江戸時代に盛んだった名残として、金毘羅五街道もあるんだって。なんかすべての道は金毘羅さんに通じるみたいな話だけど、
・丸亀街道
・多度津街道
・高松街道
・阿波街道
・伊予・土佐街道
丸亀街道は大坂とか東側の人が丸亀を目指し、多度津街道は九州とか中国の西側の人が目指したとか。ちなみに千草たちは高松街道だな。これは高松藩主も金毘羅参りに使ったからお成り道とも呼ばれたそう。
「旧街道と近いルートで行くで」
それ良いね。お殿様気分だ。
「金毘羅参りやったらお姫様も行ったんちゃうか」
高松から三十キロぐらいだから可能性あるよね。あれかな二泊三日ぐらいだったとか。
「せっかくやから一週間ぐらいおったんちゃうか」
それもあるあるだ。さすがにそうは旅行なんか出来ないだろうから、それこそのついでだ。
「そろそろ着くみたいやで」
やっとか。