亡父のクルマ

 クルマに初めて乗る経験として記憶に残っているのは亡父のクルマ。バスとかタクシーもあったはずですが、記憶に残っているのはやはり亡父のクルマになります。この亡父のクルマ遍歴なのですが、当時としても早い方の気がしますから、クルマは好きだったの間違いないはずです。

 記憶に残る最初のクルマは日野コンテッサ。今でもジョヴァンニ・ミケロッティの流麗なデザインでマニアがいるほどですが、記憶に残る我が家のコンテッサとは違うのです。はてと思ってググってみると、名車とされるのはコンテッサ1300で、亡父のはコンテッサ900で良さそうです。あの丸目とテイル・デザインは見覚えはあります。wikipediaより、


コンテッサ900 コンテッサ1300
 色は白と言うよりアイボリーだった記憶があります。子ども心(幼稚園年長組ぐらい)には大きなクルマと感じていましたが、サイズ的には現在の軽自動車より気持ち大きい程度です。これもあくまでもちなみにですが、隣の友だちの家のクルマがハコスカでして、随分大きなクルマだと感じたのは白状しておきます。

 亡父のクルマ遍歴はコンテッサ900が始まりではありません。おそらく2台目で、1台目はルノーと聞いたのは覚えています。これも長い間、

    へぇ、外車、それもフランス車
 こう思い込んでいたのですが、コンテッサ900の購入と合わせて違うのにやっとこさ気づきました。当時の自動車メーカーはまだまだ黎明期で、海外メーカーとの技術提携が盛んで日野もルノーと組みwikipediaより、

1953年(昭和28年)からルノー公団との契約のもとノックダウン生産を開始した。順次国産部品の調達率を高め、1958年(昭和33年)3月ついに完全国産化を達成、フランス本国での生産が終了した後も1963年(昭和38年)まで生産された。

 これはさすがに記憶にもアルバムの写真にも残っていませんが、これまたwikipediaより、


ルノー4CV
 なかなか時代を感じさせるデザインです。こんなクルマに亡父は乗っていたんだと初めて知った次第です。この4CVですが亡父の卒業年次を勘案すると、日野がノックダウン生産から完全国産化に移行してから購入したと見て良さそうです。もっとも、この辺は微妙な点もあり、新車でなく中古車であった可能性も残ります。

 これは亡父の当時の経済事情で、無給の院生で結婚したので、4CVは買っていたのは間違いないにしろ、新車を買えたののだろうかの点ぐらいです。つうか、亡父の卒業年次からすると卒業してすぐとか、下手すると学生時代からになってしまいそうなのですが、これも知る者は鬼籍に入り確認する術は無くなっています。

 とにもかくにも最初のクルマが日野だったので、次が日野の新型車であったコンテッサ900にしたのだろうぐらいはわかります。ただコンテッサ900の発売期間は1961~1965となっています。だからどうしたって話ですけど、たぶん亡父が結婚したのは1961年ぐらいになるはずですから、結婚を契機に新車に買い換えたのかなぁってところです。
 
 このコンテッサ900ですが、亡父は1969年ぐらいに3台目を買っています。ですがコンテッサ900は叔母に譲られたと言うか、貸している状態になっていました。叔母が免許を取ったので練習用ぐらいだったはずですが、叔母も運転は上手い方ではなく、たしかクラッチ板を痛めたとかなんとかで廃車になったはずです。


 それはともかく3台目ですがカローラ・スプリンターです。これはレビン・トレノじゃわからないか、いわゆる86の元祖のクルマになります。コンセプトとして大衆車であったカローラをファストバックにしてスポーティさを打ち出したモデルぐらいとすれば良いでしょうか。またまたwikipediaからですが、


カローラ・スプリンター
 ここまで来ると現代風の香りがしてきます。子ども心にも格好が良いと思った記憶が残っています。ただし乗り心地については余り良い記憶がありません。とにかくクルマ酔いが酷かった。コンテッサにも余裕でクルマ酔いを起こしていたのですが、カローラ・スプリンターは輪をかけて状態だったのを妙に覚えています。

 なぜそうなったかですが、簡単には亡父も若かったぐらいがFAになりそうです。カタログデータですが、


* コンテッサ900 カローラ・スプリンター
エンジン 直列4気筒OHV 直列4気筒OHV
排気量 893cc 1077cc
最高出力 35ps/5000rpm 60ps/6000rpm
ホイールベース 2150mm 2285mm
全長 3800mm 3845mm
全幅 1480mm 1485mm
全高 1420mm 1345mm
車両重量 750kg 705kg

 エンジンがOHVなのは時代ですし、カローラ・スプリンターの足回なんて前輪こそマクファーソンストラトですが、後輪がリジッドなのも、まだまだそういう時代です。それでもスペック的にはサイズこそ大差はありませんが、カローラ・スプリンターの方が排気量が大きいだけあって馬力で約2倍弱あったのはわかります。

 とりあえず馬力がこれだけ違えば走りはかなり変わったはずです。つうかカローラ・スプリンターを選んだ時点で「走ってやる」の気構えマンマンで、とくにカーブに結構な速度で突っ込んでいたと思っています。その辺はコンテッサ900時代の走りへの憤懣もあったのかもしれませが、とにかくタイヤが良く鳴っていました。

 まだ若かったですから、走るクルマを選び、ブイブイ走っていたぐらいでしょうか。そりゃ、そうでしょうね。今だってそうだと思いたいですが、クルマに求めるのは若いほど走りであり、それを求めてカローラ・スプリンターを選んだはずです。


 亡父がクルマ好きだったのは間違いありませんし、開業してからは経済的にも余裕は十分あったはずです。ならベンツとかポルシェ路線に走っても良さそうなものですが、そうならなかったのが今から思えば不思議です。

 ちなみに次がブルーバード510で、その次がローレルC130。とはいえ両方とも中古車で、ローレルは長かったかな。その後になると私も家から出ていましたが、ビスタ、そして最後はクラウンです。まだ私も若かったですから、なんちゅうクソつまらんファミリーセダンだと思ってました。


 それなりに歳も取れば嗜好が変ったぐらいで説明もつきますが、どうもそうでなかったのだけは知っています。私も医師になり、背伸びして初代のロードスターを購入しています。

 この時は、あれこれあって、実家で納車してから私に引き渡す手順になったのです。そうなると、納車されてから私の手に渡るまで亡父が乗れる時間が出来ます。実際に乗ってたようで、

    これ、おもろい!
 こう言われたのを今でも覚えています。コンテッサ900からカローラではなく、カローラ・スプリンターを選んだ嗜好は続いていたはずなのです。ならばどうしてポルシェに進まなかったのかは今でも謎です。

 無理やり理由を付ければ、亡父はカローラ・スプリンターの後に、自分のクルマへの嗜好を抑え込んでしまったぐらいにしか言いようがありません。この辺は家族旅行が好きな人でしたから、そちらを優先させたのかもしれません。お蔭でポルシェに乗るチャンスを失ってしまったのだけは間違いありません。

 あれから幾星霜、私も亡父の事を言えなくなっています。あれだけ好きだったクルマから縁が切れてしまっています。生きているとあれこれあるものです。