ツーリング日和10(第9話)観光三昧

 朝は四時起き。ホテルから知床五湖フィールドハウスに。あの人みたい。へぇ、わたしたちだけじゃなく十人ぐらい居るじゃない。みんな早起きだねぇ。そこからこれから歩くコースのレクチャーと言うより、クマと遭遇したときのレクチャーを聞いて出発。

 知床五湖の散策は誰でもいつでも行ける高架木道と地上遊歩道がある。この地上遊歩道は五月十日から七月三十一日までクマが出る頻度が高くなるからガイドに従うのがルール。それでもって地上遊歩道は大ループと小ループに分かれるんだよね。

 そうそう知床五湖だけど二十世紀の終りに整備されたもので、それぞれの湖の名前は愛想ないけど一湖から五湖になってる。小ループは二湖を見て高架木道に入り一湖を見るコースでレクチャー込みで一時間ぐらい、大ループは五湖から順番に見て行って高架木道に行くコースで三時間ぐらいかな。

 朝の五時から見に行こうって連中だから当然だけど大ループ。遊歩道は良く整備されていて、要所要所には木道や階段も出来てるのよね。ガイドさんから植物や鳥の説明を聞きながらまず五湖に。

 それぞれの湖には特徴があって、五湖は魚が棲んでいなくてトンボの楽園になってるんだって。すぐに四湖にも到着。知床連山が背景になっての絶景。北海道ツーリングが始まってから絶景ばっかり言ってるけど、

「語彙が乏しいで」

 ほっといてよ。五湖と四湖は他の湖より涼しいのだって。夏の暑い時期には鹿が涼みに来るんじゃないかとガイドさんが言ってたよ。

「クマが泳いどる時もあるんやて」

 木に大きな穴がところどころ空いてるのはクマゲラの仕業だって。しばらく歩いて次に見えて来たのが三湖。ここは真ん中に小島があるのが神秘的かな。三湖に引き続いて二湖で、これが知床五湖で一番大きいそう。単に大きいだけでなく一望できるから眺めとしても優れてるとか。ここも知床連山が湖面に映り込んで綺麗だねぇ。

 二湖が終わると高架木道に。ここからは一湖が見えるのだけど、湿原のなかに湖がある感じだし、木道が高いからこれだけ見ても十分に価値があると思う。

「そやな。ほいでも、ここだけ見ただけやったら、他の四つの湖がどんなに素晴らしいんだろうって思うやろな」

 あははは、そんなもんだよね。小ループで二湖と一湖だけ見てもそうかもしれない。クマに会えなかったけど、

「あれエゾ鹿や」

 鹿は見れたから満足だよ。高架木道から帰って来たら朝食。コトリが宿と交渉してお弁当にしてもらってる。食べ終わったら、

「知床限定こけももソフトや」

 限定とされると弱いのよね。軽く汗もかいたから美味しかったな。さて、

「ウトロに行くで」

 遊覧船は十時発だから知床世界遺産センターにも寄って、いよいよ遊覧船がスタートだ。知床遊覧船の特徴は海からの知床半島が見れるのもあるけど、

「野生のクマも見れるんや」

 プユニ岬、乙女の涙、フレベの滝、男の涙、象の鼻、五湖断崖、エエイシレド岬、

「あれがカムイワッカの滝か」

 ここも溶岩運動の産物だねェ。見上げるような大絶壁とその上の鬱蒼とした森のコントラストが素晴らしい。カムイワッカとはカムイが神で、ワッカが水。合わせて神の水の意味になるだけど、

「意味深すぎへんか。この川は硫黄山から流れてるんやけど有毒で魚も棲めんそうや」

 でもさぁ、でもさぁ、一方で温泉でもあって、この滝の上にカムイワッカ湯の滝もあって入浴出来たって言うじゃないの。きっとアイヌの人は温泉の効果の方を取って神の水としたんだよ。

「ユッキーらしい見方やけど合うてる気がする。当時やったら温泉療法より効果のある治療法なんて数えるぐらいしかなかったはずやもんな」

 それにしても思ったのは、こんなとこまでアイヌの人は住んでたんだ。

「そんなとこ言うけど、それは弥生式の稲作文明の見方やで」

 知床には数千年前から先史文明の遺跡があるんだって。そうずっと人の住んでた土地で、狩猟や漁撈、植物採取で豊かな生活をしていたと見れるそうなんだ。それって、

「夏の間に食糧ため込んで、冬はそれで過ごせるぐらい豊かやってんやろ」

 なんか都会の人が憧れるスローライフみたいな生活だよね。そんな事を話してる間に、ルシャ湾に。このために双眼鏡を用意してたんだ。

「こりゃ、遠いな」

 クマは泳げるからね。でも母子連れのクマも見えるよ。あそこにも、ほらあれもそうだよ。クマは実際に遭遇すると怖いけど、その動きはユーモラスで愛嬌があるのよね。

「そのうえ食べることもできる」

 昨日食べたものね。知床の近世の開発は一八八〇年代から始まって、タラ漁とか、コンブ漁とか、サケマスの定置網漁がおこなわれ、知床半島の先端でも夏季に数百人が住み込んでコンブを取ってた時代もあったのよねぇ。

 遊覧船はルシャ湾から十九号番屋、滝の下番屋、カシュニの滝を越え、ついに知床半島の突端にある知床岬灯台に。

「向こうに見えるのは国後島やで」

 知床半島の先端まで征服したのは感激。ウトロに戻って腹減った。

「いきなりの感想がそれかよ」

 苦笑いしてるけどコトリもそうでしょうが。コトリに連れていかれたのは・・・ここって漁港の市場じゃない。そこの漁協のビルに取ってつけたような食堂だよ。これはなかなかのお店だね。でもこういう店の味は保証付きのはず。

「ウニ丼と塩ラーメン」
「イクラ丼と味噌ラーメン」

 どれだけ食べるんだの視線は慣れっこだよ。さすがに美味い。しっかり堪能したら知床ツーリングに欠かせない知床峠に。ウトロから二十分ぐらいだよ。知床峠から見る羅臼岳が一番近くて迫力あるとされてるの。

 知床峠を下りたら羅臼だ。知床半島は北側が斜里町で南側が羅臼町。ウトロも斜里町の一部になるんだよ。羅臼まで来ると国後島が目の前って感じになる。

「こうやって見ると奪われたって感じがするな」

 だよねぇ。樺太になるとオホーツク海の向こうだから「あっ、そう」って感じだけど、国後は目の前だもの。北方領土問題は未だに残ってはいるけど、

「沖縄返還みたいには行かんやろ」

 国後や択捉に住んでた日本人は追い出され、住んでるのは当たり前だけどロシア人。ロシア人だって代を重ねたら自分たちの土地だと思い込んでいくものね。

「国境紛争ってそんなもんや。最後は武力になりやすいけど、やればガチの血の雨が降る争奪戦になり遺恨が無限に積み重なる」

 二人が休んでいるのは道の駅知床らうす。ここは国後島に一番近い道の駅となってる。コトリがまた地図を睨みながらウンコ悩んでるよ。

「なんでウンコやねん」

 じゃあ、オシッコ?

「なんでそんなもんで悩まなあかんねん。トイレ行ったらエエだけや」

 羅臼からは相泊まで北上は出来るそうだけど、そこで行き止まりだから往復になる。わざわざ寄っていくかどうかって事か。根室までは、

「ナビで百三十七キロや」

 二時間ちょっとか。でもさぁ、

「野付半島と風蓮湖やろ。やっぱりパスやな」

 相談がまとまったからコトリはウンコのためにトイレに、

「誰がウンコや。ションベンに決まっとる」

 羅臼から左手に国後を眺めながら南下。一時間程で野付半島に。これは巨大な砂嘴、

「二十八キロあって日本一や」

 それだけ巨大な砂嘴だけでも一見の価値があるけど、砂嘴の内側にさらに砂嘴も伸びているような不思議な地形。この砂嘴にもかつては林が生い茂っていたみたいで、その名残が枯れかけているのがトドワラ、ナラハラと呼ばれる枯れ木地帯。

 建物なんて無いと言って良いぐらいで、世界の果てみたいな荒涼感がヒシヒシと感じてしまう。ここで地終わるみたいな感じかな。

「今はな。そやけど江戸時代は違ったんや」

 江戸の終り頃からロシアの南下運動が強くなり、国境問題が出て来たのは歴史的事実。だから幕府も松前藩から蝦夷地を取り上げて開発に励んだ時期はあったんだ。

「高田屋嘉兵衛の時代や」

 蝦夷地開発の一つの焦点が択捉だったで良いと思う。というのも国後までは割りと簡単に渡れるそう。でも国後から択捉に渡るのは難所だったんだよね。これを渡る方法を編み出し択捉開発に成功したのも高田屋嘉兵衛の業績になる。

「国後は択捉への前進基地にもなるんやが、北海道から国後への前進基地が野付半島にあったんや」

 ここから国後島まで十六キロだけど、幕府はここに野付通行屋を置いたんだよ。最盛時には五十軒ぐらいの家が建ち並ぶ街になったそうだけど想像するのも難しいな。

「そこに幻の町のキラクがあったともされる」

 これは明治の初期に忽然と消え失せたとされる町で遊廓まであったとか。この伝説もあれこれ検証されてるけど、おそらく野付通行屋から発展した町のことではないかとされてるみたい。

「キラクも幻やけど、野付通行屋も幻みたいなもんやな」

 だよねぇ。こんなところに曲がりなりにも町があったなんて信じられないもの。それでも国後島が残っていたらフェリーの発着場ぐらいには、

「無理やろな。野付が重視されたんは小型の船で渡るんやったら最短距離やからやろ。そやけどどう見ても港には向かん。戦前でも国後に行くのは根室からや」

 交通の要衝は交通手段が変ると衰退するケースはいくらでもあるものね。時間も押してきたから風連湖は遠くから眺めるだけで一路根室へ。