ツーリング日和8(第23話)鴛鴦宮

 この南朝秘史だけど、原本は西陣南帝の企画が挫折したあたりで終わっているで良さそう。

「続きがあったかもしれんが、残っとらへん」

 南里漂山の調査はその後の鴛鴦宮家にも及んでるのよ。だけど鴛鴦宮家が具体的にどこに住んでいたのかははっきりしないそう。

「天川村とか北山村、もちろん十津川あたりが考えられるけど、漂山の結論としては転々としとったんちゃうかぐらいや」

 西陣南帝の後に来る時代は戦国だ。下克上が吹き荒れる乱世になるんだけど、この辺で鴛鴦宮家は実質的に滅んだのじゃないかと見られてる。

「滅んだと言うか、再び皇位を目指すのを完全にあきらめたんかもしれん」

 こんなものどうやって漂山が調べ上げたのかは不明だけど、鴛鴦宮家の子孫は乱世で一旗揚げようとしたで良さそう。つまりは戦国大名に仕えて出世を目指した事になる。

「筒井順慶の家臣にそれらしいのもおるとしてるやん」

 誰だそいつ、聞いたことないけどね。筒井家も乱世で滅びるのだけど、逃げ延びた一族の誰かが、

「松浦氏でそこそこ出世したのがおって一族を呼び寄せとる」

 松浦氏は松浦半島に古くから勢力を張り、松浦党の水軍として有名かな。戦国期も江戸時代も生き抜いて維新を迎えてる。平戸に城を持っていたのだけど佐世保も領土の内で、ここに代官所みたいな役所を置いていたんだよね。

 その佐世保の代官所の役人に鴛鴦宮の一族の誰かがなっていたのか。とはいえ代官じゃなくて、これって、

「松浦家は財政改革で石取りを廃止して蔵米にしてもとるからわからんとこもあるけど、どうも蔵米でよさそうや」

 武士も同じ給料でも石取りと蔵米なら石取りの方が格上なんだよ。

「つうか蔵米は一代抱えに多いからな」

 一代抱えと言いながら世襲するのも多いのが江戸時代だけど、鴛鴦宮家の子孫の松浦家での地位はその程度だったぐらいは言えそう。

「この時に鴛鴦宮なんか名乗れんから鴛淵を名乗っとるわ」

 なるほどね。そのまま明治を迎えたってことか。でもまあ、良く残ったものだ。

「この鴛淵の一族から一人だけ有名人が出とる」

 はて、いたっけ。

「戦史マニアやったら有名や」

 第二次大戦末期に現れた日本海軍の傑作戦闘機とされるのが紫電改。紫電改の名前が有名になったのはその性能もあるけど運用法にあったで良さそう。この時期の日本人搭乗員は南方での激しい損耗によって促成栽培のヒヨッコばかりになっていたんだよ。

「そやから生き残りの精鋭部隊で三四三空が編成されたとはなってる」

 新鋭機にベテラン搭乗員を載せ、さらに集中利用で米軍に対抗した訳ね。そこでの華々しい戦果が紫電改伝説を作ったぐらいだよね。

「まあな。その時に鴛淵孝大尉は飛行隊長として活躍をし名を残しとる」

 ただ紫電改伝説には誤りも多いそう。まず紫電改自体は優秀な性能を持っていたそうだけど、

「それはカタログスペックや。大戦末期の日本軍機は誉エンジンの呪いがあるからな」

 大戦後期の日本軍機の苦戦の要因は様々にあるけど、その一つに二千馬力級エンジンを載せて性能をアップさせていた米軍機に歯が立たなくなったのはあったとされる。日本軍も手を拱いていたわけじゃなく、突貫工事で作り上げたのが誉エンジン。この誉エンジンを主力にすえて新型戦闘機の開発に励んだことになる。

「誉はスペック通りの能力を発揮したら素晴らしいもんやったけど、当時の日本の技術力、工作技術にしたら無理があり過ぎた。とにかくトラブルが起こりまくり、カタログスペックの半分もあらへんかったとも言われとる」

 加えてもあって、エンジンオイルも大戦前に買い集めていたものの再生品。ガソリンのオクタン価も低く、プラグやプラグコードも質が落ちるとか。大戦後に米軍がテストのために持ち帰り出したとされる好成績も、

「米軍式の整備をした、いわばチューンナップ・データや」

 それでも三四三空はマシそうな機体とまともそうなエンジンを優先的に集めただけでなく、整備員も選り抜きを集め、資材も最優先して集中させたとなっている。

「ベテラン搭乗員を集めたとなっとるし、それは完全に間違いやないけど、ホンマの意味のベテランは三十名ぐらいで、残りは未熟な連中や。それでも三十人は手練れやったし、たった三十人集めただけで他の航空隊から非難轟々やったらしい」

 これも大戦末期の現実だろうね。三四三空であえて画期的なのは集中使用もあったけど、空戦戦術を徹底した集団戦にしたのがあるそう。こんな戦術を取る日本機なんかなかったから米軍も面食らったのが実情らしい。

 鴛淵大尉はとくに空中戦術の指揮に長けていたみたいで、部下からの信望も厚かったで良さそうなの。この三四三空だけど沖縄への菊水作戦に従事するために松山から南九州に移動。

「特攻に参加した訳やないし、特攻機の掩護をしたわけでもあらへん。特攻に手を焼いた米軍が特攻基地を叩きに来るのと戦ったでエエやろ」

 激しい空中戦で次第に戦力を消耗させながら戦い抜き、再び松山に戻ったところであったのが呉軍港空襲。その七月二十四日の戦いで鴛淵大尉は撃墜され戦死。これは昭和二十年の話だから、

「終戦が八月十五日やからな」

 もう少しだったと後世の人間は思うけど、それは後の歴史を知っているから言えるだけ。必死になってる当事者はそんな事なんか頭にもなかったと思う。もし知っていたら、

「そんなもの歴史が証明しとる。粛々と復員したやろ」

 東京の方では降伏反対のクーデターもどきが起こったり、航空隊ごと反乱も起こりかけたけど、どちらもすぐに鎮圧されている。地方については良く知らないけど、そんなに混乱があったとは聞いたことがないな。

 終戦と言えば玉音放送だけど、あれも聞いてすぐに理解できた人は少なかったそう。だと思うよ、あんな漢文の読み下しみたいな回りくどい演説がさっと理解できる方が不思議だ。それに音源だってレコードだし当時のラジオと電波状況もまちまちのはずだもの。

「これから本土決戦になるから頑張れって思ったのも多かったらしい」

 それが玉音放送の意味が降伏敗戦だと知らされて、悲憤慷慨したのもいたのはいたそうだけど、茫然としたぐらいの本音が多かったらしい。

「現場かって勝てそうにあらへんのは肌身でわかっとったやろ」

 茫然と言うよりこれで死なずに済むぐらいかな。

「やと思うわ。命令があれば死なんと仕方がないぐらいの覚悟と言うよりあきらめはあったんやろうけど、死ぬ必要がなくなったら生きるだけになったんやろ」

 別に好きで殺しをあいをやってるわけじゃなく、軍隊という装置に入れられてやってるだけだもの。いわば業務命令で好きでもない仕事をやってるだけだから、やめろと言われたらすぐにやめるよね。

 もちろん温度差は大きかったと思うけど、専業であるはずの幹部クラスにも反乱を指導するような者は殆どいなかったのはホントらしい。

「基地の物資を一番かっさらったのが幹部クラスやと言われとるぐらいやもんな」

 これもどこまで当時の心境を表してるのか今となっては不明だけど、敗戦が悔しいとか、悲しいと言うより、

『やっと終わった』

 この感想が一番多かったとか。もちろんわたしもコトリも当時のことは知っているのだけど。

「そやな爆弾が降って来ん様になると思うたのと、灯火管制がなくなったんは妙に嬉しかったんは覚えてる」

 もっとも多かれ少なかれ、これからどうなるのだろうと思ってた人が多かったのは間違いない。

「そやったな。そやけどすぐに食糧危機の闇市時代に突入や」

 鴛淵大尉も玉音放送を聞いてたら、戦後の闇市でスイトン食べてたと思う。