ツーリング日和6(第13話)死の彷徨地巡り

 県道四十号の近くに青森高校があるんやけど、あそこは青森第五連隊の駐屯地があったとこやねん。そこから六時五十五分に日の出を合図に二百十名は出発して、この道を歩いて八甲田山を目指したんや。

「それって八甲田山の」

 そういうこっちゃ。この辺が田茂木野か。駐屯地から七キロぐらいやから九時前ぐらいやろか。ここで住人から田代に行くのは無理やと進言されてる。

「道案内も断ったのよね」

 小峠までも十キロぐらいやから三時間かかってへんはずや。ソリ隊が遅れたから大休止を取ったとなっとるから十一時か十一時半ぐらいやろな。

「ここから遠いの」
「いやここで半分ぐらいや」

 残り十キロぐらいやったんが判断を狂わせたんやと思う。それでも小峠で大休止しとる間に天候は急変、猛吹雪になる。ここでも引き返すかどうか議論になっとるねん。結果は続行やってんけど、時刻もまだ昼やし、ソリ隊こそ遅れ気味やったけど徒歩組には余裕があったんやろ。

「津軽連隊への対抗心もあったはずよね」

 まさに生死の境目やったことになる。小峠から大峠までは数百メートルやけど、

「小峠まではまだなだらかだったけど、大峠になるとかなり急よね」

 山道ってそんなもんやけど、後半の方が格段に厳しうなっとる。それでもゴリゴリと押し進み馬立場まで進むことになる。

「その馬立場が歩兵第五連隊第二大隊遭難記念碑のあるところなのね」

 冬やから日の入りは十六時四十四分や。悪天候やから日の入り頃には暗かったはずやねん。それもあって田代への道を見つけられへんかってん。そやからやむなく、

「馬立場からさらに進んだここの平沢で露営や」
「ここから田代まではどれぐらいなの」

 二キロ程としてる資料も多いけど、ここに疑問がある。青森第五連隊が目指したのは田代であり、田代の中でも田代新湯としとる説が多い。雪中行軍やから温泉を目指しても不自然やあらへんけど、田代新湯に宿泊施設があったかどうかやねん。

 田代新湯には今でも温泉が湧いて、手さえ入れたら入浴が可能な浴槽もあるそうや。そやけど温泉旅館があった記録が見つからへんねん。湯治場的な建物があった可能性はあるが、二百十名も収容できるかと言えば疑問が残る。

 それよりなにより平沢の露営地からまだ遠いんよ。当時の道がどうなってかやけど、県道四十号は当時の田代街道でエエと思う。そやけど田代新湯は田代街道からかなり北側に入り込んだ駒込川の近くにある。

 今やったら平沢の露営地から東に二キロ弱ぐらいのところから林道に入り、一キロ半ぐらい林道を進み、その終点から歩いて十分ぐらいやねん。

「まだまだ遠いじゃない。それに宿泊施設もないところに押しかけても露営しなくちゃならないじゃないの」

 田代の謎は後でもう一度考えるとして、平沢で露営をしたものの、マイナス二十度の露営や。寝たら凍死みたいな状況になり、午前二時にようやく撤退の決断が行われて午前二時半に出発や。露営地におられへん判断は間違っとらへんけど、

「後手も良いところよ。悪天候の夜道の行動なんて・・・」

 ここから死の彷徨が始まる。道に完全に迷うてもたんや。田茂木野で案内人を断っとるから地図とコンパス頼りになるけど、夜やったら地形も見えへんしコンパスも凍って動かんようになったんよ。

 まず馬立場を目指したんやが、方向を完全に間違えて北側にある駒込川まで入り込んどる。そこから崖をよじ登って脱出したりして実に十四時間半も迷い続け、

「さっきあったやろ鳴沢の第二露営地までしか進めんかってん」

 わずか七百メートルぐらいで馬立場にも行けんかってん。露営したって眠ったら死んでまう状況は昨夜と一緒や。いや昨夜から不眠不休で動き続けて、第二宿営地だけで七十名が凍死したとされとる。

 部下がバタバタ倒れて行く状況にまたもや午前三時に出発するやんけど、猛吹雪の夜間行軍や。そやけど前の日の二の舞を続けるしかあらへんかった。この辺で軍隊としての集団行動は無理になり、兵士も発狂するものが次々に出て来たとなっとる。

 バラバラになった生き残りが三日目の露営をしたのが馬立場を越えた中の森の第三露営地やけど第二露営地から二キロしか進んでへんねん。この時に午前一時で点呼を取ったら三十名ぐらいとなっとる。

 四日目はようやく晴れた。そやけど部隊はバラバラで田茂木野を目指す状態になってもとる。気力も体力も尽きてるなんてものやなく、最後の生き残り部隊が賽の河原近くまで進んで露営したとなっとるけど、これかって第三露営地から距離にして一キロ程度や。

「後藤伍長ね」

 五日目に田茂木野にそれでも進んでいた後藤房之助伍長が立ち往生のようになっているのを救援隊が発見して、雪中行軍隊の遭難が初めてわかることになる。ほいでもって生き残ったのがわずか十一名やった。

「雪さえなければこんなに近いのにね」
「ああ雪山は行くだけで怖いし、猛吹雪の中を夜間行軍した結果がこれになる」

 青森第五連隊が目指した田代の問題に戻るけど、田代に宿泊施設があったとの記録があるねん。これは遭難を報じた東奥日報の記事で、捜索隊の動向を記したものやが、工兵第二中隊は田代に到達して、先着していた第一中隊とともに、

『長内文治郎方に宿営せし』

 この工兵第一中隊と第二中隊は二月三日に長内家に宿営したけど

『四日、天気が悪く同家に滞在した』

 天気が悪かったから次の日も泊まってるんや。二月五日になって、

『百六十名の滞在は難しいので七十名を出発させることとした』

 長内家に百六十名も宿泊しとった事になる。ここから考えると青森第五連隊が二百十名やったんは長内家の収容能力を考慮したものやった可能性が出て来るんよ。

「平沢の第一宿営地から二キロぐらいにあったのが長内家だったってこと?」

 長内家やけどかなりの規模やったんはわかる。百六十名を二泊させとるし、食事もそれなりに提供しとる可能性がある。それは記事にも、

『糧食は殆ど盡るに垂んとし且つ宿舎に貯蔵せる米も六七斗に過ぎさることとなれば』

 この記事でもう一つ注目して置いて良いのは、長内家を宿舎とし長内文治郎舎主と書いてあることや。つまりは宿泊施設やった見れるんよ。青森第五連隊がソリで悪戦苦闘しながら食糧を運んだのは、長内家は宿泊は出来るが、二百十名の食事を提供させるのに無理があったもありそうやねん。

「その長内家って今でもあるの?」

 完全に所在不明やし長内文治郎もこの記事にしか確認できへん。長内家の不思議は弘前三十一連隊にもある。弘前隊は三本木、つまり今の十和田市から田代を目指し、こっちも悪天候に悩まされながら青森に下り無事生還しとるねん。

 青森隊と弘前隊は八甲田の反対側からアプローチしてるんやけど、田代で落ち合う予定やった。そうなると長内家には青森隊の二百十名に加えて弘前隊の三十八名の合計二百四十八名が宿泊する予定やったことになる。

 そやけど弘前隊も長内家を見つけることが出来てないんよ。弘前隊は常に道案内を雇っていたし、危険を察すると臨機応変の対応をしたとなっとるが、そんな弘前隊でも長内家には到達出来とらへんねん。

「そうなると長内家は田代街道から離れていたと見るのが妥当ね」

 ここからは推測になるけど、長内家は田代新湯の湯治宿もしとってんやろうけど、田代新湯にあったわけやなく、少し離れたところにあったぐらいは考えられる。田代街道からは少し入るけど、湯治に行くには歩いて行くぐらいの感じや。

 弘前隊はおおよそ田代街道を進んでいたはずやけど、長内家に向かう林道が雪に埋もれて発見できへんかったぐらいや。

「だとすると青森隊が進んでいても長内家には到着はしなかった」

 かもな。そやけど、そやけど、長内家には謎は残る。二百五十名も宿泊できる家はどう考えても大きいやん。鮨詰めで寝かすにしても楽に長者屋敷クラスや。そんな大きな家の存在が跡形もないのはチイと不自然や。

「そんなことはよくあるよ」

 そりゃ、そうやねんけど、田代平は不毛の地やねん。今もなんもあらへんようなものやけど、第二次大戦後に開拓団が入植してるんやが大苦戦させられとる。つまり田代に当時は集落はあらへんことになる。

「そっか。田代新湯の湯治宿だけで、そんな大きな家が本当に存在したかよね」

 ちなみに田代新湯の外に田代元湯もある。田代新湯も田代元湯も駒込川沿いにあるんやが、田代元湯の方が少し西寄りや。この田代元湯に青森連隊の兵士が二人たどり着いて、一人は四肢切断の重傷を負ったが生き残ってるねん。

「そこまで行ってたのに長内家は見つけられなかったのね」

 すべては夜間行軍と猛吹雪のためと説明可能やが今となっては歴史の彼方や。これも結果論でしか言えへんが、長内家までが近かったから、たとえば小峠からでも引き返すより進むほうを選んでしもうた気がするねん。これも最初から田代は雪中宿営で乗り切るみたいな計画であれば引き返したかもしれへん。

「すべてが悪い方に転がる時ってそんなものだけど・・・」

 これもそんなもんやになってまうけど、悲劇の地や。