純情ラプソディ:第2話 里崎先生

 担任の里崎先生は変わり者。言葉遣いはぶっきら棒だし、髪はボサボサで服装はいつも空色の小汚いジャージ。近づくとなんか変な匂いがして、見るからに不潔って感じがプンプンしてた。英語の先生だったけどあだ名は、

『なげやりの里崎』

 ホントにやる気が無くて、見るからに嫌そうに、面倒くさそうに、雑でおざなりの授業しかやらないのよね。たまに質問されたって、

『そんなものは塾に行って聞いてこい』

 おいおいって感じの先生。そんなに嫌なら教師なんかやらなければ良いのにと思うぐらい。だから、はっきり言わなくても嫌われ者だし、嫌われ者になっているのを屁とも思っていないし、むしろ生徒に嫌われたいとしか思えない気がしてた。

 そんなキャラの教師がある日突然、クラスのイジメを快刀乱麻に解決してしまうマンガやドラマはよくあるパターンだけど、ヒロコがイジメられてても気にもしないんだもの。それこそ見て見ぬふりで、どっかに行っちゃうものね。その辺は、他の先生も同じだったから里崎先生が格別に冷たかった訳じゃないけどね。


 それでもある日突然は起こった。なぜかヒロコが放課後に職員室に呼び出されたんだ。なにか説教でもされるのかと思って行ったんだけど、ヒロコが着くなり、

「今から家庭訪問をする」

 でもさぁ、いきなり家庭訪問って言われたって、お母ちゃんも仕事でいないんだよね。もちろん、そう言ったけど気にもせずに里崎先生はヒロコの家に。無遠慮にズカズカと家に上がり込んだ里崎先生は、

「高校で逃げろ。目指すは明文館だ」

 明文館はこの辺のナンバー・ワン高校。そんじゃそこらで入れる高校じゃなかった。だってだよ、こんな田舎の高校なのに、わざわざ神戸から引っ越してきて越境入学を狙うのもいるぐらい。

 だから県立高では最難関かな。県内には灘とか白陵とかあるから一番じゃないけど、とにかくそれぐらいの高校。だから目指している連中は進学塾に小学校から通ってる感じ。ヒロコの家に塾なんか行かせてもらう余裕はなかったもの。

 それ以前にヒロコの成績もボロボロでテール・エンドの落ちこぼれ。だって学校じゃイジメに怯えてるだけだし、家に帰っても家事の手伝いで精いっぱい。家に帰ったら買い物して、ご飯作ってで、洗濯も、掃除もヒロコの仕事だったもの。

「ヒロコの成績で明文館なんて」
「たかが高校入試だ。二年もあれば余裕だ」

 言われても冗談を言ってるのか、新手のイジメかぐらいにしか感じなかったもの。

「だから、たかが高校入試だ」

 それから里崎先生がやり始めたのは、驚くけど勉強の手伝い。教師だから勉強を教えるのは仕事だけど、連日家まで来て教えてくれた。日曜とか、休みの日とかになると朝から夕までビッシリだった。専属の家庭教師でも、ここまでしないと思うよ。

 補習と言うか、家庭教師みたいなものが始まるとヒロコは驚いた。そこには『なげやりの里崎』はいなかった。熱心過ぎる教育者の里崎先生がいたんだよ。学校とのあまりのギャップになかなか慣れなかったもの。

 教え方も学校とは全然違ったもの。ヒロコは英語が大の苦手で、そのうえ里崎先生だったから完全過ぎる落ちこぼれ。英語って日本語とは違うのはわかるとして、その違いを説明するはずの文法用語が完全にチンプンカンプン。

 ヒロコにとって英語は謎の文字とか、正体不明の古代文字とか、暗号みたいなものだった。そんなヒロコに里崎先生は学校とはまったく別のやり方で教えてくれた。日本語と英語の根本的な違いとか、その違いをどうやって理解して英語を考え、学んで行けば良いからだったんだ。

「文法なんて小難しい用語を使うからわからなくなるのだ。こんなものは・・・」

 時に英語の原型に戻り、日本語と巧みに対比させ、

「英語は位置言語だよ。文法の基礎は主語の次に動詞が来るだけをまず覚えろ」
「でも五文型とか・・・」
「あんなものは自然にくっ付くものだ」

 英語の理解で重要なのは時間と距離だってビッシリ教え込まれた。

「あのなぁ、日本語の方が英語より百倍も千倍も難しい言葉だ。それを話せているのだから英語なんかアホみたいに簡単だ」

 ヒロコにとって謎の呪文のような完了形も、

「完了形って言うからわからなくなる。こんなものは日本語にだってある。日本語の場合は過去形も完了形も・・・」

 ヒロコからしたら目から鱗状態だった。これは英語だけでなく他の教科もそうだった。あらゆる教科をそれこそ小学校から見直し、ホントに一から効率的に叩き込んでくれていった。でも里崎先生がいくら頑張ってもテール・エンドのヒロコの試験の点がすぐに良くなるわけじゃない。そう思ってたら、

「中間試験の予想問題だ。これだけ覚えていけ」

 そんなもの当たるのかと思ってたら、そのまま出てきた。これって、

「今回は時間が無かったから裏技を使った。高校入試には内申点もあるからな」

 そう、他の教師から試験問題を盗んでいたんだ。まったくトンデモない先生だよ。でもね、実力はメキメキ上がって行き、期末試験では実力でちゃんと点が取れるようになっていたし、二学期が終わるころには学年のトップクラスになっていた。


 成績がトップクラスになるとイジメも減った気がする。イジメが起こる原因にカースト制はあるけど、中学になるとそれとは別にヒエラルキーが出てくる気がする。カーストもヒエラルキーも序列を付けるものだけど、カーストは生まれつきの身分で、ヒエラルキーは自分が勝ち得た地位ぐらいの差かな。

 今となって思う事だけど、小学校まではとにかくみんな平等なのよね。勉強にしろ、運動にしろ差を付けないのが建前の感じ。だからイジメのターゲットはカーストの下のみ狙われると感じてる。

 でも中学になると平等の建前は消えていくのよね。そう高校受験が重くなる。高校受験はモロ競争。成績優秀者が上位校に進み、劣等生は入れる高校を必死に探し回るぐらいの差が必然的に生じるものね。

 そこには、もう小学校のみんな平等の建前は欠片もなく優勝劣敗の世界のみ。成績によるヒエラルキーが新たに誕生してしまうで良いと思う。誰だって良い高校に進みたいし、良い高校に進まないと良い大学に進めないし、良い就職が出来ないぐらいの図式かな。

 この図式も極端だけど、高校進学で最初の人生の振り分けが行われるのは誰もが感じてた。ここも田舎であるが故があって、明文館はバリバリの進学校だけど、都会と違って二番手校との落差が大きいんだよ。

 明文館に入れなかったら有名大学への進学は、ほぼ絶望みたいな感じ。ここも言い過ぎだけど、そうだとヒロコたち中学生も、親も誰もが考えてた。もっとシンプルに言えば明文館に入学できれば田舎なりのエリート・コースぐらいに思えば良い。逆に言えば、明文館に入れない連中は、ここで切り捨てられてしまう感じかな。

 だから明文館に合格できそうな連中は、この時点で他の生徒と別格扱いにされる側面はあったのよ。いわゆるヒエラルキーの頂点に君臨する感じかな。教師ですらそうなるのが笑っちゃうよ。

 この感覚は成績優秀者が上から見下ろすと言うより、成績劣等者が下から卑下してる感じなのよね。卑下と言うより卑屈になってしまう感じに近いかもしれない。明文館に進む連中は少数派だから、この時点で仲間じゃないと言うか、違う種族の人みたいな関係になったぐらいとも見えるぐらい。

 ヒロコは底辺カーストからヒエラルキーのトップクラスになったから成り上がり。見下し切っていたヒロコが手の届かないところに行ったぐらいかもしれない。もっとも、それはそれでイジメの種になったけど、ヒエラルキーだけでも高くなったから敬遠するのが多くなってくれたと思ってる。

「里崎先生。明文館に行ってもイジメがあるのでは?」
「あそこは別世界だ。行けばわかる」

 どうしてヒロコにそこまで肩入れしてくれるかわからなかったけど、中三も担任になり、ヒロコは無事明文館に合格できた。職員室に報告に行った時に、

「合格したか。明文館はワンダーランドだ。楽しみにしておけ」

 もちろん二年間のお礼もしたけど、気になるのはここまでヒロコを助けてくれたこと。

「それか。お母ちゃんに聞いてみろ」

 後はいつもの豪傑笑いをして終わりだった。お母ちゃんの里崎先生への対応も不思議だった。お母ちゃんが帰ってくると里崎先生が家庭教師やってるのだけど、別に驚きもしなかったもの。

 中学生とはいえ女の子が男と二人っきりで部屋に居たら、いくら担任の先生であっても少しはリアクションしそうなものじゃない。一応の挨拶ぐらいはするけど、お茶も出さないし、休みの日に里崎先生が来た時にも昼食も出したこと無いもの。里崎先生も里崎先生で、自分で飲み物や食べ物を当たり前の様に持ち込んで来たのよね。ヒロコも聞いたけど、

「やってくれるって言うから、それで良いじゃない」

 でも今日はしっかり聞き出してみた。そしたら、

「たいした理由じゃないよ・・・」

 そうそうお母ちゃんは小学校の時からヒロコのイジメに気が付いていて、学校に訴えてくれたこともあったんだ。それで何があったかって、イジメの反省のためのホームルームが行われて、適当に綺麗事を並べて、

『イジメは良くない』

 これぐらいでまとめるだけのお儀式。こんなものでイジメはなくなるはずもなく、チクったと言われて余計に酷くなった繰り返しだった。だからお母ちゃんには、もう学校に抗議するのはやめるように頼んだぐらいだったもの。

「家庭訪問の時に顔を合わせたら、お互いビックリしてね」

 お母ちゃんは最初わからなかったみたいだけど、里崎先生はすぐに気が付いたみたいで、

「一つ下で・・・」

 信じられないけど、あの里崎先生がイジメられっ子だったんだって。それもヒロコ並みにイジメ倒されていたみたい。それをいつも助けて味方になってたのがお母ちゃんぐらいの理解で良さそう。でもお母ちゃんも余所者扱いだったはずだけど、

「こう見えても柔道やってたの」

 実家の近所に柔道の道場があって、小さい時から通っていたんだって。柔道の先生にも可愛がられ、道場仲間も出来てイジメには遭わなかったんじゃないかって。そう、これもまたイジメの側面で、イジメた時に相手から反撃が来そうなら避けられるはあるのよね。単純には強い奴はイジメられないってこと。

「あの頃の里崎先生はヒョロヒョロでね。気の弱い子供だったんだよ」

 お母ちゃんはすっかり忘れていたそうだけど、里崎先生はイジメに対抗するために柔道の道場に入門して、そこで里崎先生を弟弟子として可愛がったのがお母ちゃんだって。

「中学校でも助けたことがあったかな。そうそう里崎先生も明文館だよ」

 その時にヒロコは気づいた。どうして里崎先生が『なげやりの里崎』かって。だって里崎先生が本気を出せば、テールエンドのヒロコを二年間で明文館に合格させる能力があるんだよ。

「人の恨みって、イジメられた方は忘れないのよ。地味に仕返しやってるんじゃないのかな」

 もう一つ気になるのが二人の仲。里崎先生は独身なんだよね。ずっと独身だったかどうかは知らないけど、とにかく今は独身。ヒロコを助けてくれただけでなく、お母ちゃんも狙っていたとか、

「無いよ。さすがに今さらだからね」
「でも里崎先生なら」
「好みじゃないの。お母さんだって選ぶ権利があるのよ。それにね、結婚はもうコリゴリ」

 なんかホッとしたような、それで良かったのかは複雑な気分。たしかにいくら里崎先生でも、突然父親になるのは抵抗があるものね。でもね、でもね、ヒロコが大人になったらはあるかもしれない。

 大人って言っても二十歳まですぐじゃない。もしお母ちゃんが里崎先生と結婚をやり直したいと言い出したらヒロコは反対しない。その時は祝福してやるんだ。お母ちゃんだって幸せになる権利があるし、里崎先生ならそうしてくれそうな気がする。