純情ラプソディ:第3話 明文館高校競技カルタ部

 明文館は里崎先生が言った通りにまさにワンダーランドだった。間違いなく高校だし、それも県立の旧制中学以来の伝統校のはずだけど、こんな学校が存在するのが冗談みたいなところなんだ。

 どう言えば良いかわからないけど、学校に通ってると言うより、USJとかディズニーランドに行ってる感じがする。当たり前だけどアトラクションやライドがあるはずもないけど、毎日なにかサプライズが起こりそうなお祭り気分の浮かれた雰囲気なんだよ。

 ヒロコも慣れちゃったけど、ちょっと可愛い子とか、イケメンがいればファン・クラブが結成され、休み時間になると追っかけが始まるんだ。男女交際だって学校新聞が追いかけまわして、それを誰もが読んで知っていて話題にしているのだもの。

 学校新聞なんて年に一回ぐらいのところが多いはずだけど、毎週のように発行されるし、内容だって高校生が出すものとは信じられない代物。ありゃ完全に芸能週刊誌だよ。それを生徒だけじゃなく、教師もOB・OGも楽しみにしている高校がこの世に存在する方がおかしいじゃない。

 そんな学校だから文化祭とか体育祭になると、それこその狂乱の世界。そりゃ、市の名物行事の一つになっていて、校外からの観客が押し寄せてくるんだもの。一年の時なんかドギモを抜かれまくったよ。

 生徒もそんな浮かれ騒ぎへのノリの良さを競い合ってる校風で、変わった奴がいてもイジメの対象になるのじゃなくて『おもろい奴』とされちゃうんだ。なんでも楽しみにして、笑って遊ぶのに熱中している変な学校。

 だからと言って勉強がおろそかにされている訳じゃない。だって明文館と言えば県下でも指折りの進学校だもの。その秘密もすぐにわかった。とにかく成績評価がムチャクチャ厳しくてドライ。なんてったって五教科の定期試験の平均点しか見てくれないんだよ。

 平常点とかはまずゼロだし、追試も無いか、あってもサディストのように難しい代物。だから、少しでもさぼると情け容赦なく留年させられるんだ。毎年必ず留年者は出るし、ヒロコのクラスにもいた。伝説では一クラス規模の留年者が出たこともあったそう。

 明文館は浮かれ騒ぎへの許容度は底無しじゃないかと思うほど広いけど、その代わりに死ぬほどの勉強が必要とされるぐらい。どこが変かって、普通は浮かれ騒ぎが勉強の邪魔になるから規制するけど、明文館が求めるものは校是では自由闊達だけど、平たく言うと、

『よく遊び、よく学べ』

 よく言えば遊びと勉強の両立を求め、それが出来ない者は容赦なくふるい落とす方針。極限まで自主性を重んじてるぐらいかもしれない。だから明文館で生き残るには、浮かれモードと勉強モードをパチンと切り替えられる事が求められると言うか、出来ない者は留年の憂き目を見る事になる。ヒロコも二年への進級の時に冷や汗かきまくったから、二年からは必死で勉強してたもの。


 ヒロコも高校で部活に入ったんだ。家の手伝いもあるからお母ちゃんに言い出しにくかったけど認めてくれた。入ったのは競技カルタ部。マイナーな競技だけど魅かれた感じかな。おカネもあんまりかかりそうになかったからね。

 競技カルタだけど、二十世紀の初めにコミックスや映画の影響でちょっとしたブームが起こった時代があったそう。その頃で全国に四百校ぐらい競技カルタ部があったらしいけど、今はそれから減って行って三百校ぐらいみたい。

 明文館高校の競技カルタ部は意外だけどカルタ・ブームに便乗して出来たものじゃない。でも便乗は便乗と言うか、ホントに現金な理由で出来たのよね。ちゃんと部史に書かれているからウソじゃないと思う。

 高校カルタの頂点を競うのは全国高校かるた選手権大会。この第一回大会は一九七九年に開催されてるの。その時の参加校はわずかに八校だったんだ。これは全国に八校しかカルタ部がなかったとも言われてるけど、現実的には大会を開くにあたり連絡がついて大会に参加できたのが八校しかなかったとするのが正しいみたい。ネットもない大昔の話だからね。

 近江神宮で開かれたのだけど、この時にうちの生徒が見に行ってるのよ。これも選手権大会を見に行ったのではなく、親戚の家に遊びに行って、タマタマ近江神宮を参拝したからとなってる。

 そこで競技カルタに興味を持ったのだけど、これも競技カルタに魅力を感じたのではなく、参加校数の少なさに注目したんだって。今だって多いと言えないけど、競技カルタ部なんてある学校は珍しいじゃない。

 だから作りさえすれば全国大会出場はラクラクみたいな目論見で良さそう。この時にラッキーだったのは教師の中に競技カルタ経験者がいて顧問になってくれたこと。普通の学校なら新しい部活どころか同好会を作るのも面倒なところはあるけど、そこは明文館であっさり同好会が出来たとなってる。

 高校かるた選手権も代表校集めに苦労してた時期だから、参加したいと表明したらあっさり認めれたんだって。そうそう、やはり県内には他にカルタ部はなくて、そのまま第二回大会に出場。マイナーでも全国大会出場の実績が認められて、この時に部活に昇格したとなってる。

 その後も実績だけは目覚ましくて第二十回大会までに計十四回の全国出場を果たしてるんだ。これは県内に競技カルタ部が明文館しかなかったからで、出場できなかった五回は部員不足だっただけ。

 まあ助っ人を頼むにも百人一首なんて坊主めくりさえした事もある人が少なく、ましてや競技カルタなんて、

『あの札を吹っ飛ばすやつ』

 これぐらいでも知っていれば上等の世界だからね。そのためだけじゃないけど、実力はあれだけ出て全国大会では一勝も出来ず、第二十一回大会に二校目の新たな県内予選参加校が現れてからは全国は遠くなって今に至るぐらいかな。

 この辺は明文館のカルタ部は弱かったけど、県全体でも競技カルタは盛んじゃないのも大きいのよね。明文館に代わって出場した高校も最高成績はベスト・エイトがわずかに三回だけ。

 今の全国大会は参加校も増えて予選グループ・システムだから、ここを突破したことはなかったはず。そうそうベスト・エイトと言っても、その頃は全国代表が十六校時代だから、一つ勝っただけってこと。


 とにかく部員不足だからヒロコも入部したら即レギュラー。即もクソも三年ぶりに部員が五人そろい団体戦に出場できたぐらい。出てどうだったかって、そんなもの百人一首もロクロク覚えていないヒロコは完封負けだった。

 でもあの完封負けでちょっと火が着いたかな。そりゃ、目の前でバンバン札が飛ばされているのを見せつけられたからね。そこから真剣に練習したよ。さらなる転機が高二の時に訪れた。

 競技カルタ部にも顧問の先生がいたけど、完全に名前だけの先生だったんだ。いくら教師でも経験者なんてそうはいないもの。ところが顧問の先生が転勤になって、入れ替わりに来られた先生がなんと大学でも活躍してた競技カルタのバリバリの経験者。石村先生っていうのだけど新たな顧問に就任してくれた。

 練習にも来てくれてヒロコも試合をしたけど、それこそ段違いの腕前で全員コテンパンにされちゃった。ちなみにだけど石村先生は優男で、物腰も柔らかいし、口振りも丁寧。ヒロコたちに圧勝しても、

「なるほど・・・」

 これぐらいの反応で、なんていうかやる気のなさそうな感じだったのよ。今から思えばバカにしてたか、呆れかえっていたと思うぐらい。それでどうしたいって聞かれたから、

「全国に行きたい!」

 なんか異な事を聞くって感じの表情だったけど、

「本気か?」

 どうにも間の抜けた返答をされちゃった。でも本気だって答えたら、

「カルタも楽しむぐらいが良いと思うけどな・・・」

 それから相変わらずやる気のなさそうな態度だったけど、それでも毎日練習には顔を出してくれたんだ。それで、カルタの戦略や戦術を、それこそイチから噛んで含めるように教えてくれた。

 そうなんだよ、当時の競技カルタ部のレベルってそんなものだったんだ。ルールだってエエ加減にしか覚えていなかったものね。そりゃ、歴代の顧問でカルタ経験者は数えるほど。近所にカルタなんてやっている人なんていなかったし。

「とりあえず二年生で五人そろえられないかな」

 こう言われて必死で五人そろえた。石村先生が言うには全国の夢が見たいなら今年は無理だって。だから来年までの計画で育てたいって。高二の県予選は試合らしきものになったけどやはり完敗。

「気分だけでも味わいに行こうか」

 こう言われて連れて行ってもらったのが近江神宮。高校かるた選手権には県予選まである団体戦とは別に個人戦があるのよね。これがちょっと変わっていて、高校生であれば誰でも出場できるってもの。

 参加できないのは団体戦の全国大会代表選手のレギュラー。団体戦は五人で戦うけど、三人まで補欠が認められてるからだそう。ヒロコも競技カルテ部所属だから参加資格があったんだ。でも結果は惨敗。誰も勝てなかった。

「E級でもあれぐらいだよ。付いて来れるなら協力する」

 石村先生は、こういう時に良く出てくる熱血型じゃなかった。とにかく褒めるし、怒った姿なんか見たことも無く、いつもニコニコ笑っているだけだった。トレーニングも、

「来週までに、これぐらいはマスターしようね」

 でも、でも、途轍もなく厳しかったと思う。石村先生の示した課題も最初は簡単だったけど、段々に難しくなったのよね。ある時にマスターしきれなかったんだけど、

「じゃあ、坊主めくりでもやろうか」

 ホントにその日は坊主めくりやったんだよ。それも日が暮れるまでずっとだよ。これで嫌でもわからされた。石村先生は付いて来る者しか教える気はないのだって。そりゃ、たったの二年足らずで、いくらカルタでも素人同然のメンバーが全国に行くのは無謀に近いじゃない。

 そのためには猛練習が必要なんだけど、猛練習は本人がその気がないと出来ないと割り切りきっていたとしか思えなかった。それこそ明文館の方針通りで、やる気が無いものは置き去りにするそのものだって、

 これも今ならわかるけど、石村先生はかなり綿密にトレーニング計画を立てておられたはず。態度とは裏腹に顧問として部員の希望を叶えようとしてたんだと。それがわかった瞬間に石村先生に付いて行きさえすれば全国が見えるって思い込んだもの。

 ヒロコたちは頑張った。石村先生の示すメニューを死に物狂いで身に着けた。そりゃ、やらないと見捨てられ、坊主めくりされられるだけだもの。成果は徐々に現れていったんだ。まるで歯が立たなかった石村先生とも試合らしきものになってきたもの。だから勢い込んで聞いたんだ、

「これなら県予選を勝てますよね」

 石村先生は苦笑いだけして、

「ここまではカルタの基礎だよ。普通はここから始まるぐらい。念のために聞くけど、本気で全国に行きたいの」

 そりゃもう、部員全員で頼み込んだよ、

「うちの県予選のレベルは高くないけど、それでもまだ距離あるよ。それで良ければ教えてあげる。これでも顧問だからね」

 そこから先は確かにハードだった。