浦島夜想曲:三十階仮眠室にて

 香坂さんは常に控えめで、そのうえ若く見えるから、ホンマにエライさんかと思う事もあるけど、今日は見せてもらった。六時とはいえまだまだ仕事は続いており、香坂さんとわたしが乗り込んだエレベーターに、見るからにおエライさんて感じの人と部下らしき人が何人か飛び込んできたのよ。そしたら香坂さんは、

    「悪いですが下りてもらえますか」

 エレベーターだから一緒でイイと思ったし、そのおエライさん風なんてカチンと来たみたいで、すこぶる不機嫌そうな声で、

    「なにを・・」

 そう言いかけて香坂さんの顔を見て固まってしまったのよ。

    「雨川部長。これから三十階に行きますので、御一緒できないのです」

 雨川部長の顔が凄かった。一瞬に真っ青になり、

    「し、し、しつれいしました常務」

 米つきバッタのように頭を下げまくって、全員が転げ出るように、いや実際にエレベーター・ホールで転んでた。転んだまま土下座状態が見えてドアがしまったもの。これがエレギオンHDのナンバー・フォーの威厳とよくわかった。香坂さんは、

    「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。後で注意しておきます」

 それから香坂さんはエレベーターのパネルを何やら操作されて、

    「これより三十階に御案内します」
 そうさっきも三十階って言ってた。これは週刊誌とかで読んだことがあるよ。クレイエール・ビル三十階はエレギオンHDの心臓部だって。それも誰も内部を見たものはなく、出入りできるのは非常に限られた人間だけだって。

 三十二階や三十三階のレストラン街に行くのにもエレベーターは使うけど、三十階のパネルを押しても反応しないし、止まったところを見たことがないもの。わたしなんかが入ってもイイのかな。

    「香坂さん、三十階って」
    「はい社長と副社長の仮眠室兼住居となっております。今夜は社長が是非自宅に御招待したいとの御意向です」

 仮眠室? 住居?? 自宅??? なんなのそれ。エレベーターはどこにも止まることなく三十階に直行。ドアが開くと、いきなり聞こえる。

    『コ~ン』

 あの音は鹿威し? なんなのここは。エレベーター・ドアの前には朱色に塗った木橋があり、橋の向こうには梅見門と両側にならぶ光悦垣。橋ってことは池があるとか。

    「ここは水を張っているように見えるだけでホログラムです。さすがに湿気の問題がありまして」

 門を潜ると瀟洒な庭。ふかふかの苔が絨毯のように広がり、そこに飛び石があり、格子戸を入ると玄関。香坂さんはサッサと入られようとしますが、

    「御挨拶は?」
    「社長は手が離せませんので、挨拶は中でとのことです」

 手が離せないってどういうこと。仕事が長引いて待っていてくれってことかな。玄関までは和風なんだけど、内部は洋風になってるみたい。立派な廊下を歩いて突き当りのドアを開くと広いリビング。いや、広いなんてものじゃなくグランド・ピアノまで置いてある。リビングに隣接してオープンキッチンがあるけど、ありゃキッチンというより厨房じゃん。

    「シオリちゃん、いらっしゃい」

 この声はコトリちゃん、

    「シオリ、ビールでも飲みながら待っててね」

 この声はユッキー。えっ、えっ、もしかしてキッチンのエプロン姿の三人は、

    「今日はシノブちゃんにも手伝ってもらってる」

 エレギオンHDのトップ・スリーが食事の支度をしてるって。そうしたら香坂さんが、

    「ビールは何にされますか?」

 なにって言われても、

    「じゃあ中ジョッキで」
    「ラガーでよろしいですか」

 ふと見るとビールカウンターがあるじゃないの。そうなると聞かれてるのはビールの種類よね。

    「エールありますか?」
    「かしこまりました」

 聞くとピルスナー、エール、ラガーの他にアルト、ヴァイツエン、スタウトがあるらしく、銘柄は定期的に入れ替わるみたい。

    「香坂さん、ここはいったい・・・」
    「はい、社長・副社長用の仮眠室で彗星騒ぎの時に作られたものです。今は引っ越しされてお二人の家にもなっています」

 これが世間で噂のエレギオンHDの心臓部なの。こりゃ、外部どころか内部の人間にもあまり見せたくないのはよくわかる。

    「ここの立ち入りは制限されていると聞いてるけど」
    「はい、社長・副社長の他には専務とわたしだけです」
    「掃除とかは?」
    「社長と副社長がされています」

 そうこうしているうちにテーブルに料理がずらっと並び、

    「シオリの訪問を心から歓迎します」

 それぞれにビールを持って、

    『カンパ~イ』

 手料理ってレベルじゃないね。本格的というか、こりゃ少々のプロでも裸足で逃げ出しそう。

    「シオリちゃん、遠慮せずに食べてね。足らなきゃ、いくらでもあるし」

 コトリちゃんやユッキー、さらに香坂さんがいかに食べて、飲むかはウィーンの時に知っているから遠慮なしでイイよね。

    「お酒もビールだって、ワインだって、日本酒だって売るほどあるからだいじょうぶよ」

 ちょっと見せてもらったんだけど、立派なワインセラーがあって、並んでいるワインの凄いこと。

    「あ、これ。ユッキーと格付けやってるから味見用の試供品やねん」

 聞くとワインだけではなく、ビールも、日本酒も、ウイスキーとかもすべて格付けやっているとのこと。

    「これって、世界一権威のある格付けって評判の・・・」
    「そう言うのもおるそうやな」

 エレギオンの格付けは広い分野に渡ってて、その権威は世界中に轟いてるのよね。特徴は自社製品と他社製品の区別を一切しない事で、自社製品でも容赦なくダメ出しするのよ。エレギオンの格付けでのダメ出しは強烈で、それで潰れたメーカーもあるぐらい。業績ぐらいなら間違いなく傾くわ。

    「今日来てもらったのは、ウィーンの夜の約束を守るためなの。もっと早くにすべきだったんだけど、色々あったし」
    「あの時は一緒に飲もうって話だったはず」
    「そうだったけど、五女神がこんな感じでそろうのは四百年ぶりなのよ」
    「四百年・・・」
    「だからさ、ミサキちゃんが言ったと思うけど旅行にしたいのよ」

 旅行となると気が向かないんだけど、

    「ほんじゃ、またクルーズとか」
    「あれはあれで楽しかったけど、今度はこの五人そろって行きたいのよ。ただ五人となれば、あそこまでのバカンスは無理。さすがに会社をそこまで空けられないわ」

 そうだよな。わたしは引退して隠居状態だけど、四人はバリバリ現役だものね。

    「みんな行きたいところがあると思うけど・・・」

 ここでコトリちゃんが、

    「だいぶもめたんやけど、ユッキーがいうても社長やから、ユッキーの希望の温泉旅行にしてん」
    「シオリ、良かったかしら」

 温泉旅行は嫌いじゃないけど返事はどうしよう、

    「国内旅行よね」
    「そうなのよ。ハワイぐらいも案としてあったんだけど、コトリがとにかく嫌がるの」

 これも聞くとコトリちゃんは重度の時差ボケ体質らしくて、時差の出来る海外出張をとにかく嫌がるみたい。

    「エエやんか国内でも。温泉やったら日本が一番やで。海外の温泉は大味でアカン」

 それはわかる。ありゃ文化の違いとしか言いようがないわ。

    「で、どこ行くつもり」
    「悪いけど近場よ。さすがに有馬温泉じゃないから安心して。行き先はサプライズにしてもイイかしら」

 サプライズ? まだ決めてないだけの気もするけど、

    「四泊五日ぐらいで準備しといてくれる」

 待ってよ、まだ返事はしてないじゃない。

    「それと歩くところも多いから靴もよろしくね」

 観光もあるってことだろうけど、

    「費用は?」

 ここでユッキーはニヤッと笑って。

    「それは安心して。ちゃんと怖い怖いお目付け役に経費の約束取り付けてあるから。おカネはいらないよ。でしょ、ミサキちゃん」
    「でもあれは十五年前の話ですが」
    「なにか状況でも変わった?」
    「いや変わってはいませんが・・・旅行代は経費で落とせますが、お土産代はさすがに」
    「世界の加納志織の接待だよ」
    「わかりましたよ」

 ユッキーはこれで話は決まったみたいな顔してるけど、また行くとも行かないとも言ってないでしょ。

    「じゃ、ミサキちゃん。手配ヨロシク」
    「ちょっと待った。今回はコトリがする」

 ここからが面白かった。

    「却下します」
    「ミサキちゃん、副社長命令やで」
    「却下します」
    「コトリが信用できへんいうの」
    「信用できません。コトリ副社長にこの手の企画をやらせたら、月で餅つきやらされかねません」

 月で餅つきはイヤだなぁ。そもそも月には温泉なんてないじゃないの。そしたらユッキーが、

    「じゃあ、わたしがする」
    「却下します」
    「ミサキちゃん、社長命令よ」
    「却下します」
    「わたしを信用できないの」
    「信用できません。ユッキー社長にこの手の企画をやらせたら、冥界巡りをやらされかねません」
 冥界巡りって地獄巡りってこと。血の池地獄とかありそうだけど、やっぱり普通の温泉がイイよね。それにしても香坂さん立場強いな。社長や副社長の命令でも平気で却下できるんだ。でもそこから誰がプランを作るかで大モメ。

 でも聞いてるだけで楽しかった。なんていうかなぁ、若い時に、いや高校とか大学時代に文化祭とか、体育祭の準備に燃え上がってる感じとすればイイかな。こんな感じで熱く燃えるってなくなってるものね。オフィス加納も始まった頃はこんな感じもあったけど、年とともに、

    『大先生』
 こんな感じになっちゃったもの。そんな仲間意識をもてる者が減っていき、いなくなっちゃったのよね。事務所を閉めたのはカズ君の病気のせいもあったし、年齢的に潮時ってのもあったけど、仲間と一つの事に熱中できる感覚が醒めて行ったのあるのよ。

 これは誰しもってわけじゃないけど、わたしは熱くならなきゃイイ仕事は出来ないって思ってた。アートはやっつけで出来ないよ。フォトグラファーは職人でなくあくまでも芸術家だよ。そうなのよ、技術を競うのじゃなくて、ハートを競うのがフォトグラファー。そのためには心は熱くなくっちゃ。

 イイなぁ。こんな雰囲気。エレギオンHDの心臓部にはこんな熱気が渦巻いてるんだ。たかが温泉旅行でこれだけ熱中できるんだ。そうよ、この感覚が欲しかったの。カズ君の不思議なところは死ぬまであったことかしれない。

 そりゃ、見た目は歳取ったよ。一緒に歩いていても娘どころか孫に見られたものよ。でもね、心は若かったの。青春時代のまんま。だから一緒にいて楽しかったし、どんなにカズ君が老けても気にもならなかった。

 だってわたしの事務所の職員の結婚式の余興のためにフラッシュモブをやろうって言いだしたのよ。カズ君七十歳になってたのに。もう本気もイイところで当人に知られないように有志を集め、さらに自分のクリニックの職員まで動員してやったの。わたしも動員されちゃったけど楽しかった。

 誕生日やクリスマスのプレゼントだって、いっつも、いっつも、あっと驚くサプライズ。あれだけ毎年やってもだよ。そんなカズ君が亡くなってから、思ったのは自分の人生も終りって感覚。

 あれはカズ君がいなくなっただけじゃなく、一緒に熱中できる相手をすべて失ったからかもしれない。でもここにはある。わたしもここに入れたらどんなに嬉しいか。そんなことを思ってたけど、議論はひたすら白熱。コトリちゃんが頑張ってる。ここでシノブちゃんが、

    「ミサキちゃん、コトリ先輩に任せるべきよ」
    「ダメです。月で餅つきはしたくありません」
    「でも、今回の旅行は加納さんと社長、コトリ先輩の同窓会旅行の一面もあると思う」
    「そ、それは・・・」
    「同窓会旅行の幹事は同窓生がすべきじゃない」

 なるほど同窓会か。これはそうかもしれない。ユッキーは木村由紀恵じゃないし、コトリちゃんは小島知江じゃない。でも、二人とわたしをつなぐ記憶は明文館の同窓生。旅行か、こんな熱い仲間となら行っても良いかもしれない、いや、行って見よう。

    「ちょっとイイかしら。月で餅つきじゃなかったら、コトリちゃんに幹事やってもらいたいんだけど」
    「ほらみいミサキちゃん。シオリちゃんもそう言うてるやん。これでコトリに決定や」
    「では月で餅つきはやらないと約束して下さい」
    「わかった、月で餅つきはせえへんと約束する」

 これも笑っちゃんだけど、香坂さんは真剣に月で餅つきを心配してたみたい。香坂さんがあれだけ心配するのだから、前科はテンコモリかも。香坂さんに、

    「でも月で餅つきはいくらなんでも・・・」
    「加納さんは知らないからです。コトリ副社長は『やる』と言えばいかなる手段を使ってもやってしまわれる方なのです」
    「でも月だよ」
    「必要となればスペースX社でも買収されます」
 スペースX社を買収って・・・エレギオンなら出来るか。月で餅つきも、普通の人が言えば冗談以外の何者でもないけど、エレギオンHD副社長ともなればやりかねないし、あの真面目そうな香坂さんがあれほど心配してるのなら・・・ひょっとして、エレギオン・グループが宇宙開発に進出する話が出ているのかもしれないものね。

 月で餅つきはともかく、ただの温泉旅行のはずなのに、なにかワクワクしてきた。なにかトンデモないことが起りそうな期待感。こんな気持ちは何年振りだろう。ここに来る前は、家を出るのさえ気が重くて仕方なかったけど、今は違う。温泉旅行を心待ちにしている自分がいる。