源平時代の船のムック

結論を先に言っておきますが「よくわからなかった」で終ってしまいました。


和船の発達の概略みたいなもの

原初は丸太をくりぬいたものだったであろうと推測されています。「あろう」というのは日本では船自体が遺物として残っていることが非常に少ないからだそうです。まあ老朽化して船として使われなくなったら解体されて他の用途に転用されたり、転用しようのない部分は叩き割って薪にされただろうからです。丸太船は丸太の大きさで船の大きさ(幅)が決まります(長さは継ぎ足して伸ばすのもあったそうです)が、丸太の上に構造物を継ぎ足しての大型化が行われます。宗像市HPより

これは埴輪からの推測で良さそうなのですが、船底の丸太の上に船を載せるような構造になっています。こういうスタイルを準構造船と紹介されています。こういうスタイルは弥生時代にはあったとされているようですが、上部構造物つうか舷側板に水密機構が弥生時代からあったかどうかは調べても不明でした。どうも「あった」の前提で考えられているようですが、江戸期から明治期まで続く和船はこのスタイルの発展型として良さそうです。船の科学館に簡潔にまとめれているので引用します。

刳船 準構造船1 準構造船2
木を刳り抜いて造った船が刳船です。一材でできているものを単材刳船、二材以上を前後に継ぎ足しているものを複材刳船と呼びます。 刳船の両舷に舷側板を取り付けて深さを増し、積載量と耐航性を増やしたのが準構造船です。 準構造船の舷側板をさらに継ぎ足して二階造りとし、より一層の幅と深さの増大をはかったものです。
用語の使い方として準構造船としたときには舷側部分は水密性があるぐらいに理解して良さそうです。原理的には船底の丸太の横に長い板を張り付けて大型化したぐらいでしょうか。船の科学館には二階造りまで紹介していますが、江戸期の千石船(弁才船)は石井健治氏の図からですが、

20160405082331

三階造りって表現が正しいかどうかよくわかりませんが、舷側板が根棚・中棚・上棚の三段構造になっています。二段から三段にいつ発展したのかが調べても全然わかりませんでしたが、鎌倉期は二段だったとされているようです。その根拠が北野天神縁起に描かれている菅原道真が乗った船の絵のようで、

北野天神縁起(承久本) 復元図(海の科学館より)
源平期の和船もこれぐらいじゃなかったか・・・ぐらいしかたどり着けませんでした。


遣唐使船の系譜

平城京歴史館/遣唐使船 (復原展示)に、

遣唐使(けんとうし)の資料は公式記録として残っていますが、その往復に使用した「船」に関しては ほとんど資料がなく、どの位の大きさかを示す数字は残っていません。

大きさを推定する手掛かりとして、奈良時代の資料に約600人を4隻の船で派遣したとの記録があります。船の大きさが 同じだったとすれば1隻あたり150人、航行中は何人かは起きているでしようから、約100人が寝るために必要な面積を 考えると、船の長さは25m〜30m、幅は長さの1/3〜1/4程度として7〜10mとなります。この大きさであれば、 150人分の水と食料や荷物などを積むのに十分な容積でしよう。

船自体の記録は殆ど残っていないようです。私たちが抱く遣唐使船のイメージは

遣唐使船として教科書などに出ている絵は、大部分が「吉備大臣入唐絵詞」という絵巻物の絵ですが、この遣唐使船を描いた最も古い絵巻物は、最後の遣唐使派遣から400年程あとになって描かれた絵です。 その頃には宋の商人が博多に来ていましたから、宋の船を参考に描いた可能性があります。

平城京歴史館では遣唐使船のサイズを船長を25〜30m、船幅を7〜10mとしていますが、江戸期の弁才船のサイズとしてwikipediaより、

大阪市の「なにわの海の時空間」にある千石積の実物大の復元模型は全長29.4メートル、船幅7.4メートル

ほぼ千石船ぐらいのサイズの可能性が高そうです。この遣唐使船の構造の詳細は不明なのですが、推古天皇の時代にこれだけの巨大船が出来た理由の伝説があるようです。日本船主協会HPより

 応神帝は、20余年愛用した公用船「枯野」が老朽化したため、諸国に命じて新たに500隻の船を建造させた。その500隻の献上船が武庫の港(当時の難波の外港で、一説には後の兵庫ともいわれる)に集められたとき、ちょうど滞在していた新羅使節の船から出た火が延焼して、ほとんどの船を焼き尽くしてしまった。

 新羅王はこれに恐縮し、応神帝に新羅の船匠を献上して謝罪する。この船匠たちが持ち込んだ技術は日本の造船のレベルを一気に引き上げた。当時の新羅の船は、すでに渡海用の準構造船(刳舟をベースに多数の木材を組み合わせて構造化した船)の水準に達していたのだ。

 こうして流入した大陸の技術が、その後さらに成熟し、やがて遣随使船や遣唐使船のような大型準構造船の建造に結実したのだろう。

先に断わっておきますがあれこれ資料を読んでいたのですが、準構造船と構造船の違いの理解は正直生煮えです。遣唐使船についても詳細が不明なわけですから、準構造船としても構造船としても良いのですが、構造船とする意見も多くありました。ここも最後のところが理解しきれなかったのですが、大陸(及びその影響の強い半島)ではジャンク船形式が発達しています。ジャンク船は・・・これまた説明が難しい(つうかわかってない)のですが、基本構造は水密性の高い箱を連結したようなもので、これは構造船に分類されるそうです。

ジャンク船も発達段階があるわけで、遣唐使船がジャンク船技術を取り入れた可能性は十分あると思いますが、かなり初期段階のものであったぐらいは想像できます。それと技術導入の時にしばしば起こるのですが、取り入れようとした技術を取り入れるだけの技術基盤がないことがしばしばあります。理屈や設計図はあっても、それを実現できるだけの技術基盤がないと、形は似ていても性能は格段に落ちる代物が出来上がるってところです。遣唐使船を作っていた時代に、こんな巨大船の需要は遣唐使以外に乏しいでしょうし、ましてや民間需要なんて程遠く、数年に1度(場合によっては10年以上、20年なんてのもあったはずです)作るだけじゃ技術の向上や発展は難しく、そのために遣唐使が廃止された後に遣唐使船の建造技術も滅んでしまったぐらいはありえる推測と考えています。


ただジャンク船技術は大陸で確実に発達しています。源平期は中国では宋の時代に当たり、平家も日宋貿易に力を入れていたのですから、宋のジャンク船が大輪田の泊にしきりに入港していたであろうことは十分に想像できます。和船に比べて格段に巨大な宋のジャンク船を見て、たぶん素朴に思うのは、

    オレも欲しい!
欲しいと思ったのが清盛であり、平家であれば入手は可能だったと見てよいでしょう。当時の日本で平家が買えないものは誰も(後白河法皇が欲しがるとは思えませんし・・・)買えないからです。一方でどうにも「造った」って記録が見つかりませんし、作ったのなら巨大な船ですからどこかに記録が残されていても良さそうなものですし、さらに言えばその技術系譜が残されても良い気がします。この辺が遣唐使時代とチト異なる点です。

源平合戦の海戦の記録となると壇ノ浦になり、さらに船についての参考資料となると平家物語ぐらいしか出てこないのですが、平家は「どうやら」レベルですが大型船を持っていた気配があります。船の科学館に鎌倉期の大型船の資料があげられていますが、あの程度が源平期の大型船なのかの疑問はあります。もちろん船の科学館とて北野天神縁起を根拠にしているだけで、ひょっとしたらもっと大型の船が存在していた可能性は否定できませんが、和船構造で大型化を図るには舷側の三段構造というか、弁才船形式への発達が必要な気がします。ただ、さすがに源平期に弁才船形式(千石船形式)が登場していたかとなると正直なところ疑問で、もし大型船が存在していたとすれば宋のジャンク船も十分に可能性は残ると考えます。


平家がジャンク船をもっていたら・・・

平家は倶利伽羅峠の敗北の後に、都落ち、福原落ちと重ねて西海に逃げざるを得なくなります。そういう状況に陥った時に戦争とは非情なもので一つの法則として「勝ち馬に乗る」現象が加速されます。瀬戸内沿岸はたしかに平家恩顧の豪族が多かったと思いますが、負け犬に加担して一族の破滅まで賭けるかといえば疑問符がつくところです。現実に平家は大宰府に拠点を作ろうとしてwikipediaより、

菊池隆直が降伏した後も平貞能は九州に留まっていたが寿永2年(1183年)源義仲が都に迫る勢いを見せると貞能は制圧した鎮西の軍を引き連れて上洛する。その後平家は都落ちをするが平家が最初に目指したのは九州だった。しかし、貞能に平定されていたはずの鎮西の豪族たちは都落ちした平家に非協力的もしくは敵対的なものが多く、一旦は鎮西に上陸した平家はそこから追い出されることになる。

平家は九州から再び追い出されています。そこまでなれば通常は自滅状態になりますが、そこから平家は復活し一の谷まで盛り返すのが史実です。平家復活の原動力の一つは瀬戸内海の水軍衆支持が強固であったとは思いますし、瀬戸内の水軍衆は忠盛以来の平家恩顧であったであろうこともわかります。それでも形勢がここまで平家不利になっても水軍衆の支持が崩れないもんだろうかの素直な疑問はあります。そこで平家が宋のジャンク船を持っていたんじゃないかの推測が出てくるわけです。

ジャンク船は当時の和船より遥かに巨大であり、居住性も、航海能力も、輸送能力も優れていたと考えています。だから平家は福原落ち後の瀬戸内海の放浪に耐えられ、水族衆から見れば圧倒的な存在感をもつ船に見られたんじゃないでしょうか。当時であっても海戦の帰趨は数と船の質であると考えられていた可能性はあり、水軍衆の心理として陸の事はともかくとして、海の上では平家の巨船に従うのにメリットを見出していた気がします。だからあれだけ敗北を重ねた後の壇ノ浦決戦にも、劣勢とはいえ決戦を行うのに足りるだけの海上戦力が集まったんじゃないでしょうか。

この日宋貿易の頃のジャンク船ですが、これまた、どんなものかはっきりしません。そこで大野万太郎の博多時間日記様に福岡市博物館にある「宋船模型」(蓮尾正博氏作成)の画像が紹介します。

この模型の解説として、

宋船を復元した模型は国内にはあまりないようで、実物ではない製作資料ですが、毎年全国各地の博物館の特別展に出品されるなど、福岡市博物館の隠れた人気者だったりします。

想像するにはイメージが欲しいので参考までに。