和船のお話

和船の発達についても専門家がおられ、あれこれ研究が行われているはずですが、どうもググる限るでは非常に曖昧な表現に終始しています。原因の一つとして古い現物が残されていない(一艘だけ江戸期のものがあるそうです)のも大きいとされています。船は実用品であり、さらに木製なので耐用年数が過ぎれば解体されてしまいます。それとこれは船に限らずの部分はあるのですが、現場技術は基本的に口伝であり、まとまった技術書みたいなものが乏しいのがまた大きいようです。それと私の想像ですが、和船の発達の研究には歴史的知識と技術的知識が必要なんですが、どうしても専門の比重がどちらかに偏ってしまうのもあるんじゃないかとも思っています。

とにかく「わからない」部分が多い分野の様なので・・・ワクワクします。


和船とジャンク船と西洋船

西洋船とは竜骨構造をもつ船の事です。船の底に竜骨を置き、竜骨から直接伸びた(つうか竜骨に直接組み込んだ)肋骨みたいなものを作り骨組みとし、その骨組みに板を貼り付けていくぐらいの理解でそんなに間違っていないと思います。海の総合学習テキストより、

こんな感じでフレーム構造になっているぐらいに私は理解します。メリットは横からの圧力を竜骨の骨組みで支えるところが一つと、もう一つ興味深いことが書いてありました。船の建造に当たり大きな板を余り必要とせず、小さな板で作れるってお話です。ジャンク船は構造図が見つからなかったので打倒ローマは一日にして成らず様から外観を示します。

ジャンク船には竜骨があるというものと、ないというものが両方あって困るのですが、西洋船の竜骨とは位置づけが違うぐらいで理解しておきます。西洋船の舷側の強度は竜骨から伸びるフレーム構造にありますが、ジャンク船にはそういうフレーム構造はなさそうで、その代わりに船内を強固な隔壁で分けていたようです。隔壁数は大型船になると60枚にも達したそうで、どうも横壁をたくさん並べることにより舷側の強化を図ったようです。この隔壁の水密性は非常に高く、1か所から浸水しても隔壁を越えることを防げたともあります。このジャンク船の隔壁構造はやがて西洋船にも取り入れられることになるのですが、このジャンク船も建造に当たり大きな板材を必要としなかったとどこかに書いてありました。和船はどうかというと海の総合学習テキストより、

航(かわら)が竜骨に当たるかどうかの解釈が分かれているのでこれまた困るのですが、和船も航からの肋骨構造がありません。航に根棚を貼り付け、さらにその上に中棚・上棚と板を貼り付けていく構造になっています。フレーム構造に対してモノコック構造と言えば良いのでしょうか。たださすがに板を貼りつけただけでは弱いので石井健治氏の図からですが、

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横に船梁を突っ張り棒のように設けています。西洋船よりジャンク船に近いと個人的には思いますが、ジャンク船の隔壁構造が強固な壁であり舷側に対して線であるのに対し、和船は棒で点あるので強度的には弱い気がどうしてもします。その代わりに舷側は大きな厚い板を用います。3つの船の構造の違いは技術発達の差もあるのでしょうが、材料の差もある気がしています。あくまでも想像ですが世界の船は丸太の刳り船から横に板を貼り付けた初期の準構造船にまず発達したと思っています。船の科学館より

こんな感じです。この構造で大型化するには大きな板材を必要とします。西洋や中国ではかなり早い時期に大きな板材を供給できる森林資源が枯渇したぐらいを考えています。清盛が日宋貿易に力を入れたのは有名ですが、日本からの主要輸出品の一つに木材があったとありました。つまり宋は輸入してもペイするぐらい木材資源に困っていたと見れます。そのために大きな板材を使わずに船の強度を保つ方法を考え出したんじゃなかろうかと。西洋は竜骨からのフレーム構造であり、ジャンク船は多数の隔壁構造です。必要は発明の母といいますが、小さい板材で船を作る必要が西洋や大陸で生じたのに対し、日本では大きな板材を比較的容易に入手可能であったため、初期の準構造船をそのまま拡大したような構造で発達したぐらいの見方です。

傍証的な話を書けば、西洋船の竜骨構造を知ったのは戦国期ですが、ジャンク船の隔壁構造は清盛時代よりもっと前から日本では知られていたはずで、おそらく遣唐使船も基本はジャンク船式でなかったかとの推測もあります。しかし日本人は隔壁構造の導入には消極的であったとしか言いようがありません。技術的には導入が不可能であったと思えないので、消極的であったのは「そこまでする必要はない」ぐらいでしょうか。ここも微妙な点があるのですが、西洋船やジャンク船は大きな板材の不足からの発達と推測しましたが、大陸や西洋では

    大きな板を使う材料費 >> 小さな板で作る手間賃
この関係にあったと考えています。つまり小さな板を使う方がトータルの建造費が安くなったぐらいです。一方の日本は大きな板材が安価で入手できるがために材料費の問題は小さくなり、
    小さな板で作る手間賃 >> 大きな板の材料費
こうなってしまい、西洋船型はともかくジャンク船形式の導入にも経済的にも消極的であった気がしています。どれぐらいコストに差があったかですが、千石船(弁才船)の全盛期は実は江戸期ではなく明治期で、明治期に同じクラスの船を西洋帆船型で作るのと和船型で作るのでは倍ぐらい建造費に差があったと記録されています。


遣明船

清盛時代の和船の大きさがどれぐらいで、どれぐらいの大きさの船があったかは曖昧模糊としています。どうもどこにも記録が残っていないようです。そのために時代を下りますが、室町期には日明貿易が盛んに行われています。この時代の船の記録はある程度あるらしく、船の科学館 もの知りシートより、

 1368年に元(げん)に代わって明(みん)が中国を支配すると、足利義満は明と交易をはじめました。その結果、応永11年(1404)から天文16年(1547)までのおよそ1世紀半の間に明に派遣された船は17次84隻にも及びました。これが遣明船です。

これらの船は

遣明船は遣唐使船のように特別な船を新造したわけではなく、国内にあった大型船を借り入れて、居室用の屋形を増設したり、艤装品を補充するなど大がかりな改修を施して用いました。

民間の商人から借り入れたともなっており、既に商人階級の力がそれぐらいあったと見て良さそうなのと、商人が持っていた船は遣明船として借り上げされていない間は、商人が日明貿易に使っていたと見ても良いと思います。まさか遣明船へのレンタル料を期待して保有していたとは思えないからです。その肝心の船ですがwikipediaより、

1468年(応仁2年)に足利義政の命令で明に渡った禅僧の天与清啓が記録した『戊子入明記』によると、遣明船は700〜1700石の大型船で150人程度の乗員(内水夫50人)であった。また、『入明諸要例』では同次遣明船について500〜2500石の船が門司、富田、上関、柳井、尾道、鞆、田島、因島牛窓に配されたとしている。

かなりの大型船が用いられていますが構造については船の科学館 もの知りシートより、

 遅くとも15世紀には、準構造船の船底部の刳船部材を板材に置き換えた棚板造りの船が出現します。棚板造りとは、航(かわら)と呼ぶ船底材に数枚の棚板を重ね継ぎして、多数の船梁(ふなばり)で補強した船体構造のことです。棚板構成は、根棚・中棚・上棚の三階造りと中棚を欠く二階造りが基本です。船首の形状はさまざまで、伊勢船(いせぶね)の戸立(とだて)造り、弁才船の水押(みよし)造り、上部を箱造り下部を水押造りとする二形(ふたなり)船の折衷(せっちゅう)形式があります。

 棚板造りの船が準構造船と大きく異なるのは、船底材の形状だけですが、大型船では中棚を二段にした四階造りも使われました。しかし、刳船部材と違って板の航(かわら)はクスという特定の材を必要としないため、船材の選択範囲が広がり、造船が容易になったはずです。これは重要な進歩と言っていいでしょう。

要は江戸期の千石船形式です。復元図も船の科学館 もの知りシートより、

室町期には江戸期の弁才船の原型は既に完成しているだけでなく、その船を使って明と交易を盛んに行っていたのがわかります。ここで注意して欲しいのは、千石船構造でも明まで渡航は可能であり、さらに和船にジャンク船の構造を取り入れる動きに「どうも」乏しい点です。ジャンク船の隔壁構造や西洋船の竜骨フレーム構造が取り入れられたのは朱印船時代まで待つ必要があります。


大船建造の禁

wikipediaから抜粋しますが、

元号 西暦 内容
慶長14年 1609 対象は沿岸航行を基本とする和船についてであり、軍船に転用可能な商船も対象としていたが、一方500石以上の船格であっても外洋航行を前提とする朱印船は除外されている
寛永12年 1635 500石積み以上の船が全国的に禁止された。この制限には商船や航洋船は含まれなかったが、立法趣旨が細かく伝わらなかったため、間違って商船が制限されたケースもあった
寛永15年 1638 制限対象が軍船であることが明らかとなるように改正された
寛文2年 1663 五百石以上之船停止之、但荷船者制外事
宝永7年 1710 荷船之外、五百斛以上の大船を造るへかさる事
天和3年 1783 荷船之外、大船は如先規停止之事
幕府は水軍での江戸攻撃を恐れて慶長14年に諸藩の大型軍船を没収し、そのうえで寛永12年に500石以上の船の建造を禁止しています。この寛永12年の禁令の解釈が問題のようで、当時は商船も含めたあらゆる船の規制と受け取られたようです。まあ、幕府の権威が最盛期に近い時代ですから、そう受け取られても仕方がないと思います。従来の説は寛永15年に商船についてのみ緩和というか「お目こぼし」されたとなっており、お目こぼしされたのが棚板造りの千石船形式のみであったとしています。この解釈は通説として長く用いられていまし、私もそう覚えた記憶があります。具体的にはしんこう-Web様に

一般和船の構造には「帆柱檣(マスト)2本以上の禁止と船底竜骨の禁止」が含まれていたようだ。この項目は当時の触書になく、1842年の「三檣禁止は祖法」のお触れに記すだけで、異論はあるが、和船の構造はこの様になっていた。

こういう規定が民間にまで及んでいたとの解釈です。現在ではこの通説への異論も数多く出されています。大船建造の禁が軍船のみへの適用であるのは何度も武家諸法度で強調されているので、寛永12年に出した禁令が3年後の寛永15年にはわざわざ改訂されている点に注目すべきであるとの考え方です。つまり幕府の意図として当初から商船に関しては規定外であったの見方・考え方です。三檣禁止が出されたとする1842年は天保12年であり、この時期は異国船の接近が増え日本もwikipediaより、

天保の改革が始まると、老中の真田幸貫に対して佐久間象山が大船建造の禁令撤廃と西洋式水軍力の強化を提言している。水戸藩主・徳川斉昭なども老中首座・阿部正弘に対して禁令の撤廃を求めたりしている。

1842年に「三檣禁止は祖法」のお触れが出たのは、大船への禁令の撤廃を求める勢力と護持したい勢力との軋轢から生まれたものじゃないかの見方です。つうか三檣禁止なら二檣はOKなわけで、実際にも弥帆と呼ばれるものが主檣と別にあるのも珍しくなかったようです。ですから商船の帆柱を1本にするとの具体的な禁令はどこにもなかったんじゃなかろうかの説が現在は強くなっているようです。


弁才船の性能

江戸期から現存する弁才船は1艘もないのですが、復元船のテストデータが残されています。今は閉鎖された「なにわの海の時空館」の展示のために作られたもので浪華丸といいます。菱垣廻船と樽廻船に簡潔にまとめてあります。

  1. 浪華丸の航走実験では向かい風に対しては風の来る方向から左右60°、横流れを含めても70°を記録しています。弁才船の逆風帆走性能は、ジャンク(中国船)やスクーナ―型などの縦帆船(じゅうはんせん)に比れば劣りますが、 実習船の日本丸(4本マスト)のようなバーク型などの横帆船(おうはんせん)にややまさっています。
  2. 浪華丸の航走実験では秒速9mの横風で7.5ノットを記録しています。帆船としては十分なスピードです。焼玉機関付きの機帆船の航海速力は5〜6ノットですから、最高速度ではそれを勝っていました。

逆風時の角度は「切りあがり角度」というらしいのですが、西洋型の横帆船で70度ぐらいとされています。横帆船と縦帆船の形式の差がイマイチわからないのですが、ヨットで45度ぐらいまで可能で、アメリカスカップの出場艇で40度ぐらいだそうです。縦帆船はともかく横帆船なら弁才船の逆風時の走行能力は決して劣っていないぐらいのところでしょうか。それと経済性がニア・イコールで人件費になるのは江戸期も同じで、弁才船の乗組員は15人程度であり、同規模のジャンク船や西洋船より少ない人数で運用できます。西洋型の多檣多帆の大型帆船は風を貪欲にとらえる点では優秀ですが、運航するのに多くの人数が必要なのは有名です。

後はさんざん指摘される脆弱性です。安達裕之氏の和船の技術と鎖国の常識より、

明治時代になると、きちんとした統計が残っています。そこで西洋形帆船が600艘を超える1886年(明治19)から10年間の海難統計を調べてみると、確かに西洋形帆船の年平均の海難数は日本形船の495艘に対して30艘とはるかに少ないのに、海難発生率は日本形船の3パーセントに対して4パーセントと概して高いことがわかります。

この統計は500石積以上のものですが、西洋型帆船も大型和船もあんまり海難発生率は変わらないとなっている統計はあるようです。もっとも明治期になると日本型帆船にも西洋技術が導入され、弱点の一つであった舵の改良が為されたりしていますから江戸期とまったく同じとは言えませんが、圧倒的っていうほどの差はなかった傍証ぐらいにはなりそうな気がします。


私は経済性の気がする

和船の発達が棚板作りに留まったのは、鎖国の影響が大きかった気がします。鎖国により海外渡航の需要はなくなってしまった点です。和船は遣明船でもわかるように大陸程度なら航海できる能力を持っていたとして良いでしょう。この辺は倭寇の跳梁跋扈も傍証になると思います。ジャンク船構造や竜骨フレームまで必要になったのはより遠距離の交易を求めたからと見ます。つまりは朱印船時代です。当時は東南アジアからインドまで進出する勢いであったとされます。

これが鎖国によって不要になれば、和船に求められるのは内航能力(沿岸航海能力)だけになります。沿岸航海をするのだってより頑丈な船の方が望ましいのは確かですが、ジャンク船構造や竜骨フレーム構造の船には棚板造りの和船に比べてデメリットがあったと見たいところです。思いつくところでは、

  1. 建造費が倍ぐらいかかる
  2. 同じクラスの船なら積載量で劣る
  3. 運用のための人数が多い
鎖国の影響は海外に渡航する需要がなくなっただけでなく、海外交易の利益も得られない事になります。廻船問屋の商売とは単純化すると船で荷物を運び、それを売り買いする差益を期待するものですが、その利益と船の建造費とのバランスが重視されます。廻船問屋が持てるというか、維持できる船は生み出される利益の範囲内に収束するぐらいの考え方です。たいした利益もないのに高価な船を建造すると商売のクビが締まってしまうぐらいと言えば良いでしょうか。

弁才船より朱印船の方が建造費は高いのは確実ですが、海外交易の利益は朱印船を運用できるだけの富をもたらしたとしても良いかと思います。これが内国貿易限定となると得られる利益は格段に小さくなったと見て良いかと考えます。江戸期は後半になるほど商品経済が活発化するのですが、初期はいうほどではなかったと考えています。傍証として菱垣廻船と樽廻船より、

  • 元和5年(1619) 泉州堺の商人が紀州富田浦の250石積みの廻船を借り受けて、大阪〜江戸への日常物資を運送したのが始まりです。
  • 元禄期に入り、江戸の物資消費量が増大すると、廻船はしだいに大型化し、元禄年間には350石積が主力となりました。

えっと、江戸期の花形航路ともいえる大坂-江戸でも250石積とか350石積で間に合ったようです。ここも注意してほしいのですが千石船を作れるだけの技術力は既にあったわけであり、250石積とか350石積の船しか作らなかったのは「そんな大きな船は不経済」とされ必要とされなかったと見ることも可能です。これが時代を下ると、

1700年頃には廻船は260艘という推定があります。
享保8年(1723年)には菱垣廻船の数は、160隻という記録があります。
安永元年(1772年)樽廻船の総数106隻に対して、菱垣廻船は160隻であった。
天保15年(1845)の調査では 幕府が徴収した御城米を運ぶ資格を持つ大阪の船151隻のうち、
120隻は1400石〜1600石、最大のものは1900石でした。

時代が下るにつれて船の数が増え、大型化しているのがわかります。これは江戸の商品重要が増え、それだけの大型船を保有しても商売としてペイしたからだと見れます。さて想像ばっかりになるのですが、江戸の商品需要とて無限ではありません。商品の供給が増えれば商品単価がやはり下がってきたと思っています。つまりは廻船問屋の利益が減るってことです。ここも説明が私には難しいのですが、商品需要は高く運べば売れるのですが、初期のようにそれがすべて高値で必ずしも売れるわけではなくなったぐらいです。

それをカバーするためにある種の薄利多売路線への変更が求められたぐらいを考えています。元禄期には大坂-江戸の海路は約33日必要で、年間4往復ぐらいであったとされます。これが江戸後期には約12日になり、冬季も運用され年間8往復になったとされます。これは航海技術の向上もありますが、見方を変えればそういう航海をやらないと商売がペイしなくなったと私は受け取っています。またそうやって商品供給能力が上がると商品単価は下がり、ますますの薄利多売路線に傾くぐらいでしょうか。

廻船問屋が船に投資できる費用は、投資した費用が回収できる範囲内である必要があります。初期は江戸の繁栄に比例して利益が増え、利益が増えた分だけ船が大型化して、数も増えましたが、ある時期から利益増加の頭打ちが起こり、船への投資額が伸びなくなったぐらいの状態を考えます。薄利多売路線の維持のために大型船は必要でしたが、大型船の構造強化のための投資まで確保できなかったぐらいです。つうか構造強化は積載量の低下になりますから投資の対象にすらならなかったぐらいが実態の気がします。


甲板とメインマストと経済性

弁才船の欠点の一つに甲板による水密構造がない点はよく指摘されます。これも江戸幕府の禁令によると通説ではされていますが、そうでなかったの意見に私は傾きます。甲板構造がないメリットは何かになりますが海の総合学習テキストより、

これは北前船の下り荷の積載状況の断面図ですが、テンコ盛り荷物を積み上げている様子がわかります。水密構造の甲板があれば半分は大袈裟としても3〜4割ぐらいは積載量が減りそうです。この積載量が減るってことが当時の廻船問屋にとっては重要すぎることであった気がします。薄利多売路線で船に求められることは可能な限り荷物を積み込むことです。水密甲板を作れば船の安全性は増しますが、その代わりに失う積載量は利益の減少に直結し、倒産に直結するぐらいです。

弁才船は弥帆と呼ばれる2本目の帆柱を立てることもあったようですが、メインマストは1本です。船体に比べて大きすぎるメインマストも弁才船の弱点の一つですが、多檣多帆スタイルに進まなかった理由に経済性はある気がします。とりあえず多檣多帆にするだけで荷物の積載量が減ります。さらに多檣多帆の帆船を運用するには船員数の増加が必要です。どちらも当時の経済性からすると受け入れられないものではなかったかと想像しています。

大型和船の乗組員は初期は25人ぐらい必要であったとされますが、後期には15人程度に減ります。薄利多売路線に入ってしまった廻船問屋の経済力では

  1. 安価な棚板作りの船体構造以上の投資は無理
  2. 水密甲板を張る事による積載量の低下に耐えられない
  3. 多檣多帆による積載量低下、人件費増加も耐えられない
この制約の範囲内でしか船が作れなかった可能性を考えます。


大船建造の禁の影響

大船建造の禁は法制として商船の技術制約になっていなかったの最近の説に私は傾いていますが、和船の技術向上にはやはり影響を及ぼしたと見ています。大船建造の禁の狙いは諸藩の海軍力の削減が狙いであったとして良いかと思いますが、泰平の世になってしまったので制限された諸藩の海軍力は財政問題もあり衰えてしまいます。独り勝ちを狙った幕府海軍も同様の理由で衰微してしまい、日本から海軍が事実上滅んでしまう結果になったと考えています。

軍事力としては不要であれば削減されて消えてなくなっても支障はないのですが、現在でもそうですが当時はなおさら軍事開発が技術革新の原動力になる側面があります。軍事開発は民間とは違い船を作っても、船が直接生み出す利益をアテにする必要がありません。江戸期の和船の弱点である堅牢性にしても、民間では経済性で無理でも軍艦であれば必然性に転じます。軍事開発は機密になるといっても、それはそれ、どこからか民間に漏れるのが世の常で、堅牢性に優れた軍艦が運用されれば、そのエッセンスが商船にも応用される機会が出てくると考えるのが妥当です。

江戸後期の千石船の時代は見ようによっては和船の発達の限界を示していたんじゃないかとも考えています。薄利多売路線の経済性制約が出ていたと今日は推測しましたが、その制約を吹き飛ばす超大型船の出現が期待される素地が形成されていた気がするのです。この辺は私も良くわからないのですが、積載量や人手の問題は船を超巨大化することでブレークスルーが可能だったんじゃなかろうかです。どれぐらいかと言えば万石船クラスの出現です。ただ棚板造りで万石船まで建造できたかというとチト疑問ってところです。

そういう技術的ブレークースルーの技術開発の原動力である軍艦製造が滅んでいたのが、大船建造の禁の一番の影響じゃなかったかと感じた次第です。