先週は古地形で明け暮れましたが、今週は趣をほんの少し変えたいと思います。
wikipediaの図を引用します。
弥生時代は従来紀元前3世紀中頃(紀元前250年)から、紀元後3世紀中頃(西暦250年)までとされていました。私もたぶんそう習ったはずです。もともとの定義は弥生式土器を使ったかどうかで区分されていたのですが、弥生文化とは稲作文化そのものであると見る方が妥当となり、新たな考古学知見を含めて弥生時代の始まりは拡大傾向にあります。引用した図のwikipediaの解説ですが、
近年では上記の研究動向をふまえ、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。また、北部九州以外の地域では(先I - )I - Vの5(6)期に分ける方法もある。(早期は先I期)前期はI期、中期はII - IV期、後期はV期にそれぞれ対応する。(早期は紀元前5世紀半ば頃から)前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃まで続いたと考えられている。
当ブログでは「早期・前期・中期・後期の4期区分論」で話を進める事にします。それももうちょっとシンプルに、
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早期:紀元前400〜300年
前期:紀元前300〜200年
中期:紀元前200年〜紀元0年
後期:紀元0年〜紀元200年
弥生時代の人口ですが社会実情データ図録の人口の超長期推移にある歴史人口学者鬼頭宏氏のグラフを引用します。
このグラフの見方は注意がいるようで、左のグラフは紀元前200年ぐらいに人口が59万人になったとなっていますが、右のグラフはその400年後の紀元200年でも人口は同じ59万人となっております。wikipediaにある鬼頭氏のデータは紀元前900年に75800人とした後に紀元200年に594900人となっています。これは弥生時代の終わり頃が約60万人であると解釈した方が良さそうです。鬼頭氏の説が絶対ではありませんが、他の推測も似たり寄ったりなので鬼頭氏の説を採用します。
ここで欲しいのは弥生時代の人口が最終的に60万人になったのは良いとして、それ以前の人口はどれぐらいだったのであろうです。おおまかでも推測値が欲しいところです。そこで強引ですが、紀元前900年から紀元200年までの人口増加は一定と仮定します。そうすると単純ですがこんなグラフになります。
ここから読み取ると「おおよそ」で100年間で5万人ぐらい増える計算になります。実際のところは人口が増えるカーブは後になるほど強い気もしますが、そこまでシミュレートしにくいのでこのまま採用にします。で、推測値は
時代区分 | 紀元 | 推測人口 |
早期 | 紀元前400〜300年 | 30〜35万人 |
前期 | 紀元前300〜200年 | 35〜40万人 |
中期 | 紀元前200〜紀元0年 | 40〜50万人 |
後期 | 紀元0〜紀元200年 | 50〜60万人 |
奈良文化財研究所は全国の遺跡のデータベースを作り上げておられます。見つけた時は飛び上るほど嬉しかったのですが、少々ネックがあります。データが報告書ベースになっており同じ遺跡に複数の報告が記録されています。いろいろデータを操作したのですが、重複を除外するには手作業がどうしても必要です。しかし到底個人の手に負える様な作業ではありません。そこで割り切って考える事にします。どの都道府県でも似たようなものだろうと強引に見なします。
人口を見るには遺跡の中でも集落遺跡の数を目安にしたいところです。これだって宅地開発が幅広く行われているところと、そうでないところでは差があるはずですが、仕方がないから無視します。もう一つの問題は奈良文化財研究所のデータベースの時代区分は弥生時代の細分化した区切りがされていません。弥生時代と言っても500年以上はある訳で、弥生時代のいつから存在し、いつ頃消滅したかを調べるには、それぞれの遺跡の調査報告書をチェックせざるを得なくなります。そんな事は個人の趣味のムックではこれまた到底無理です。そこで弥生時代早期の集落遺跡数を概算するために、縄文時代から弥生時代に引き続いて存在している遺跡数をカウントする事にしました。そういう遺跡は弥生時代早期に確実に存在していたはずだからです。
ただし結果は甘くありませんでした。とりあえず該当報告件数は6111件あったのですが、その都道府県毎の集計を示します。
都道府県 | 報告数 | 比率(%) | 都道府県 | 報告数 | 比率(%) |
北海道 | 75 | 1.2 | 滋賀 | 80 | 1.3 |
青森 | 100 | 1.6 | 京都 | 120 | 2.0 |
岩手 | 96 | 1.6 | 大阪 | 313 | 5.1 |
宮城 | 158 | 2.6 | 兵庫 | 145 | 2.4 |
秋田 | 35 | 0.6 | 奈良 | 61 | 1.0 |
山形 | 47 | 0.8 | 和歌山 | 12 | 0.2 |
福島 | 107 | 1.7 | 鳥取 | 83 | 1.4 |
茨城 | 523 | 8.6 | 島根 | 56 | 0.9 |
栃木 | 146 | 2.4 | 岡山 | 105 | 1.7 |
群馬 | 135 | 2.2 | 広島 | 49 | 0.8 |
埼玉 | 367 | 6.0 | 山口 | 31 | 0.5 |
千葉 | 625 | 10.2 | 徳島 | 29 | 0.5 |
東京 | 415 | 6.8 | 香川 | 36 | 0.6 |
神奈川 | 389 | 6.4 | 愛媛 | 50 | 0.8 |
新潟 | 33 | 0.5 | 高知 | 32 | 0.5 |
富山 | 60 | 1.0 | 福岡 | 315 | 5.2 |
石川 | 122 | 2.0 | 佐賀 | 43 | 0.7 |
福井 | 29 | 0.5 | 長崎 | 13 | 0.2 |
山梨 | 45 | 0.7 | 熊本 | 75 | 1.2 |
長野 | 279 | 4.6 | 大分 | 91 | 1.5 |
岐阜 | 75 | 1.2 | 宮崎 | 135 | 2.2 |
静岡 | 179 | 2.9 | 鹿児島 | 77 | 1.3 |
愛知 | 55 | 0.9 | 沖縄 | 11 | 0.2 |
三重 | 58 | 0.9 | * | * | * |
卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。
これも読みようですが、卑弥呼の個人的な権威による同盟であったため、卑弥呼の死後に男王が立っても同盟国は納得しなかったぐらいにも読めます。そのために女王壱与が立つのですが、当然ですが壱与の後にも同様の混乱が起こった可能性を考えても良いと思っています。卑弥呼同盟と古代ギリシャのデロス同盟の類似点として、
倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。
卑弥呼同盟に敵対する者として狗奴國があげられています。これは古代ギリシャのペロポネソス同盟みたいなみたいなものじゃなかろうかです。少なくとも卑弥呼の権威はすべてを覆い尽くすようなものではなかったぐらいは言えると考えます。
ではでは北九州が古代ギリシャ状態であれば畿内はどうなんだになります。あえて喩えれば古代ローマじゃないでしょうか。古代ローマは古代ギリシャの全盛期には明らかに後進国でした。しかし紆余曲折は山ほどあるのですが、都市国家の枠を超えた広域国家として大きくなっていったぐらいのイメージです。古代ローマはやがて古代ギリシャを併呑してしますが、それほど華々しい征服戦争があったと思えません。北九州が延々と続く内輪もめをやっている間に、畿内に広域王権が先に成立してしまったぐらいの状態を考えています。この状態でも北九州の内戦は収まる事はなく、むしろ自分の都市国家のサバイバルのために各個に畿内王権と同盟を結ぶような状態に変わったぐらいの想像です。たとえば古代ギリシャが古代ペルシャの侵略に対し結束したような事態は起こらなかったぐらいです。反抗する勢力もあったでしょうが、散発的なものに留まり畿内王権に組み込まれてしまったんじゃないでしょうか。
なんとなく、そんな事を考えています。