日曜閑話79

先週は古地形で明け暮れましたが、今週は趣をほんの少し変えたいと思います。


弥生時代とは

wikipediaの図を引用します。

弥生時代は従来紀元前3世紀中頃(紀元前250年)から、紀元後3世紀中頃(西暦250年)までとされていました。私もたぶんそう習ったはずです。もともとの定義は弥生式土器を使ったかどうかで区分されていたのですが、弥生文化とは稲作文化そのものであると見る方が妥当となり、新たな考古学知見を含めて弥生時代の始まりは拡大傾向にあります。引用した図のwikipediaの解説ですが、

近年では上記の研究動向をふまえ、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。また、北部九州以外の地域では(先I - )I - Vの5(6)期に分ける方法もある。(早期は先I期)前期はI期、中期はII - IV期、後期はV期にそれぞれ対応する。(早期は紀元前5世紀半ば頃から)前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃まで続いたと考えられている。

当ブログでは「早期・前期・中期・後期の4期区分論」で話を進める事にします。それももうちょっとシンプルに、

    早期:紀元前400〜300年
    前期:紀元前300〜200年
    中期:紀元前200年〜紀元0年
    後期:紀元0年〜紀元200年
これぐらいに割り切らないと話が進めにくいのでご了承ください。


弥生時代の人口推定

弥生時代の人口ですが社会実情データ図録の人口の超長期推移にある歴史人口学者鬼頭宏氏のグラフを引用します。

このグラフの見方は注意がいるようで、左のグラフは紀元前200年ぐらいに人口が59万人になったとなっていますが、右のグラフはその400年後の紀元200年でも人口は同じ59万人となっております。wikipediaにある鬼頭氏のデータは紀元前900年に75800人とした後に紀元200年に594900人となっています。これは弥生時代の終わり頃が約60万人であると解釈した方が良さそうです。鬼頭氏の説が絶対ではありませんが、他の推測も似たり寄ったりなので鬼頭氏の説を採用します。

ここで欲しいのは弥生時代の人口が最終的に60万人になったのは良いとして、それ以前の人口はどれぐらいだったのであろうです。おおまかでも推測値が欲しいところです。そこで強引ですが、紀元前900年から紀元200年までの人口増加は一定と仮定します。そうすると単純ですがこんなグラフになります。

ここから読み取ると「おおよそ」で100年間で5万人ぐらい増える計算になります。実際のところは人口が増えるカーブは後になるほど強い気もしますが、そこまでシミュレートしにくいのでこのまま採用にします。で、推測値は

時代区分 紀元 推測人口
早期 紀元前400〜300年 30〜35万人
前期 紀元前300〜200年 35〜40万人
中期 紀元前200〜紀元0年 40〜50万人
後期 紀元0〜紀元200年 50〜60万人
あくまでも概算ですが、この数値を弥生時代の人口のイメージとします。


弥生時代早期の人口分布推測

奈良文化財研究所は全国の遺跡のデータベースを作り上げておられます。見つけた時は飛び上るほど嬉しかったのですが、少々ネックがあります。データが報告書ベースになっており同じ遺跡に複数の報告が記録されています。いろいろデータを操作したのですが、重複を除外するには手作業がどうしても必要です。しかし到底個人の手に負える様な作業ではありません。そこで割り切って考える事にします。どの都道府県でも似たようなものだろうと強引に見なします。

人口を見るには遺跡の中でも集落遺跡の数を目安にしたいところです。これだって宅地開発が幅広く行われているところと、そうでないところでは差があるはずですが、仕方がないから無視します。もう一つの問題は奈良文化財研究所のデータベースの時代区分は弥生時代の細分化した区切りがされていません。弥生時代と言っても500年以上はある訳で、弥生時代のいつから存在し、いつ頃消滅したかを調べるには、それぞれの遺跡の調査報告書をチェックせざるを得なくなります。そんな事は個人の趣味のムックではこれまた到底無理です。そこで弥生時代早期の集落遺跡数を概算するために、縄文時代から弥生時代に引き続いて存在している遺跡数をカウントする事にしました。そういう遺跡は弥生時代早期に確実に存在していたはずだからです。

ただし結果は甘くありませんでした。とりあえず該当報告件数は6111件あったのですが、その都道府県毎の集計を示します。

都道府県 報告数 比率(%) 都道府県 報告数 比率(%)
北海道 75 1.2 滋賀 80 1.3
青森 100 1.6 京都 120 2.0
岩手 96 1.6 大阪 313 5.1
宮城 158 2.6 兵庫 145 2.4
秋田 35 0.6 奈良 61 1.0
山形 47 0.8 和歌山 12 0.2
福島 107 1.7 鳥取 83 1.4
茨城 523 8.6 島根 56 0.9
栃木 146 2.4 岡山 105 1.7
群馬 135 2.2 広島 49 0.8
埼玉 367 6.0 山口 31 0.5
千葉 625 10.2 徳島 29 0.5
東京 415 6.8 香川 36 0.6
神奈川 389 6.4 愛媛 50 0.8
新潟 33 0.5 高知 32 0.5
富山 60 1.0 福岡 315 5.2
石川 122 2.0 佐賀 43 0.7
福井 29 0.5 長崎 13 0.2
山梨 45 0.7 熊本 75 1.2
長野 279 4.6 大分 91 1.5
岐阜 75 1.2 宮崎 135 2.2
静岡 179 2.9 鹿児島 77 1.3
愛知 55 0.9 沖縄 11 0.2
三重 58 0.9
一番報告数が多いのが千葉で全体の10%以上になります。以下神奈川、東京、茨城、埼玉と続き、この関東5都県だけで全体の1/3を越えます。これで報告書数に比例して弥生時代の人口が分布していたと結論するのはさすがに躊躇われます。一方で弥生時代の早期もしくは前期には日本列島の本当にアチコチで弥生文化(≒ 稲作文化)が広がっていたのだけは改めて確認できたぐらいです。結構手間をかけた割には無念の結果でした。
渡来人の影響
大陸の春秋戦国時代は定義では紀元前770年から紀元前221年までとなっています。戦国時代の終焉は秦による統一なんですが、戦乱自体は継続していたと見るのが良い気がします。目くそ鼻くその差なんですが、劉邦による前漢王朝が始まった紀元前206年まで600年近い戦乱の時代が続いたと見ても良いと考えています。この時代は後になるほど国の規模が大きくなり、戦争の規模も頻度も拡大していったぐらいに私は理解しています。食うか食われるかの時代ですから、国は命運を賭けて兵力を動員します。兵力の動員と言っても兵農分離には程遠い時代ですから、農民が戦争に始終駆り出される時代と考えても良いと思います。 それを嫌って逃げ出す人々は決して少なくなかったと考えられます。最初は大陸の「どこか」に逃げていたんでしょうが、国の支配が国土の隅々に及ぶと国外に逃げようとした人々も出てきたはずです。そういう人々が目指した国外の一つが日本だった気がしています。始皇帝の時代の徐福のエピソードを思い出しています。エピソードの概略は不老不死に憑りつかれた始皇帝が、東方の蓬莱島に妙薬があると吹き込まれ、徐福に船団を仕立てて取りに行かせたと言うお話です。 これって大陸の東方に大きな島がある事を知っていた上での話と解釈できそうな気もしています。大陸からの渡来人ルートは、後の魏志倭人伝にあるように半島経由で北九州がポピュラーなものです。ですからそれ以前の渡来人も同様のルートをすべて辿っていたと思いがちです。もちろんこのルートが一番多いでしょうが、それ以外のルートからも渡海していた大陸人が少なからずいた気がしています。また渡海してものの大陸に戻った者もいたとは思います。そういう伝聞情報が始皇帝の頃に錯綜して東方の蓬莱島伝説として流布されていた可能性です。 つうか当時の半島もまた戦乱状態であった気もしています。半島も大陸の戦乱を逃れてきた人々が住みついたと思いますが、人が増えると大陸の二の舞状態になっていったぐらいです。半島ルートが安全とは言えない状態なら、それ以外のルートで決死の船出を試みた大陸人もきっといたんじゃなかろうかです。地理的に北九州ないし九州が多かったと思いますが、大陸の戦乱を嫌った渡来人なら、既に人が住んでいるところではなく、未開の荒野を積極的に目指したとしても不思議ないと思っています。それが短期間で弥生文化を日本中に広める原動力となったとしても不思議有りません。 日本の稲作の歴史を少し調べていたのですが、古代では必ずしも時代による進歩に従っていると思えないところがあります。明らかに地域によってムラが大きく、原初の自然の低湿地に稲を植えるところから、灌漑を用いたものまでマチマチと言うところです。これは岡山県古代吉備文化センターの北方横田遺跡の紹介です。まず画像を引用します。
これは弥生時代前期のものとされています。かなり整然とした水田の遺跡です。一方で自然の湿田利用の痕跡も多くみられます。これは国内での技術の進歩ではなく、大陸からもたらされた技術の差ではなかろうかと考えます。大陸からの渡来人も様々で、ある程度農具一式を携えての者から、着の身着のままの脱出者もいたはずだと考えています。また当時の航海技術では冒険になりますから、航海中に多くの物を失って日本にたどり着いた者も少なからずいたはずです。そうやって出来た技術の差がマチマチの稲作技術を各地に広げていたのが実相の気がしています。
北九州雑感
北九州は古代の先進地であった事に異論はないと思います。しかし歴史を考える上で厄介なのは、北九州王権的なものがあんまり出て来ない事です。これは文献資料が記紀だけになっている関係で「書かれていない」だけの可能性もありますが、それなら畿内王権が北九州王権を打倒した類の記述はあっても良いはずです。そりゃ大手柄のお話になるからです。 先ほど大陸の春秋戦国時代の話を少し書きましたが、類似の事が北九州で起こった可能性を考えています。吉野ヶ里に代表されるような都市国家が成立していたのは事実です。しかし統一勢力についにならなかったんじゃなかろうかの仮説です。大陸も春秋時代都市国家から、戦国時代の広域領土国家に成長し、広域領土国家が死闘を繰り広げた末に秦による統一を迎えています。この期間が実に600年です。北九州も都市国家間の紛争状態がダラダラと続き、ついに統一王権に至らなかった可能性です。 大陸以外にも例があります。古代ギリシャは高い先進文明を誇りましたが、ポリス間の壁は厚く、ついに統一ギリシャを築けなかったと言えます。ペルシャとの戦争に勝った後のアテネペロポネソス戦争アテネに勝ったスパルタ、そのスパルタに勝ったテーベ、さらにテーベに勝ったマケドニアはありますが、握ったのは覇権であり、あくまでもポリス同盟の盟主に留まっています。魏志倭人伝にある女王卑弥呼の時代も卑弥呼による強力な統一王権とはとても思えません。どちらかと言うと古代ギリシャデロス同盟の盟主ぐらいの位置づけだった気がしています。魏志倭人伝にも

卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。

これも読みようですが、卑弥呼の個人的な権威による同盟であったため、卑弥呼の死後に男王が立っても同盟国は納得しなかったぐらいにも読めます。そのために女王壱与が立つのですが、当然ですが壱与の後にも同様の混乱が起こった可能性を考えても良いと思っています。卑弥呼同盟と古代ギリシャデロス同盟の類似点として、

倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。

卑弥呼同盟に敵対する者として狗奴國があげられています。これは古代ギリシャペロポネソス同盟みたいなみたいなものじゃなかろうかです。少なくとも卑弥呼の権威はすべてを覆い尽くすようなものではなかったぐらいは言えると考えます。


ではでは北九州が古代ギリシャ状態であれば畿内はどうなんだになります。あえて喩えれば古代ローマじゃないでしょうか。古代ローマ古代ギリシャの全盛期には明らかに後進国でした。しかし紆余曲折は山ほどあるのですが、都市国家の枠を超えた広域国家として大きくなっていったぐらいのイメージです。古代ローマはやがて古代ギリシャを併呑してしますが、それほど華々しい征服戦争があったと思えません。北九州が延々と続く内輪もめをやっている間に、畿内に広域王権が先に成立してしまったぐらいの状態を考えています。この状態でも北九州の内戦は収まる事はなく、むしろ自分の都市国家のサバイバルのために各個に畿内王権と同盟を結ぶような状態に変わったぐらいの想像です。たとえば古代ギリシャが古代ペルシャの侵略に対し結束したような事態は起こらなかったぐらいです。反抗する勢力もあったでしょうが、散発的なものに留まり畿内王権に組み込まれてしまったんじゃないでしょうか。

なんとなく、そんな事を考えています。