日曜閑話78-7

河内湾(河内湖)のまとめみたいなものです。

奈良湖とか河内湾(ないしは河内湖)の話は「ちょっと寄り道」のつもりだったのですが、えらい引っかかってしまい往生しています。少し突っ込んで調べようと思えば地質学とか、地形学とかのいわゆる地学の知識が必要なんですが、これが苦手以前に完全に中学レベル。ちなみに高校の理科の選択にはそもそも存在していなかった(あっても取っていなかったと思いますが・・・)ので、これもまた運命と言うところです。ただ運命とは言うものの、少しでも専門的な解説になればチンプンカンプンになりそうで悪戦苦闘状態です。完全な泥縄状態です。

それでも古代史を考える上での必要なエッセンスぐらいはなんとか手に入れたと思っていたのですが、地質学に詳しい某知人(名前を出だしてもまったく差し支えないのですが、もったいぶっておきます)から非常に有用な資料を教えて頂きました。個人的にはググっても見つけられなかった事の方が悔しいところで、最初からこれがあれば随分とラクと思った次第です。


太古の地形

URBAN KUBOTA No.11より引用します。

鮮新世とは500万〜258万年前の事を指します。瀬戸内海が淡水湖だった事がわかります。これ以上の感想はないのかと言われると辛いのですが次に進みます。
更新世とは258万〜1万年前までの時代を指しかつては洪積世と呼ばれていました。洪積世なら名前だけは聞いた事があります。引用した図には「更新世前期−中期」と書いてありますが解説しておきますと、
前期更新世 ジュラシアン 258万8000〜180万6000年前
カラブリア 180万6000〜78万1000年前
中期更新世 78万1000〜12万6000年前
後期更新世 12万6000〜1万1700年前
更新世前期−中期」とは258万8000〜12万6000年前の事を指すで良いようです。次に進みます。
やっと今までムックしていた地形図に近いものが出てきました。更新世氷期間氷期が繰り返した時期で、それに伴い海面の上昇・低下が数十メートル単位で起こったともされています。その推移は興味のある方が追って頂ければ良いのですが、この図では奈良湖と河内湾の原型が確認できます。それにしてもデッカイ淡水系がかつては存在したようで、現在よりかなり南に位置する古琵琶湖のさらに奥に東海と呼ばれる巨大な淡水湖が存在していたようです。古琵琶湖からの流れは奈良盆地全体を満たすような奈良湖を形成し、一方で河内湾にも流れ込んでいた事がわかります。またこの巨大な淡水系が形成されていた時期から生駒山地金剛山地の地峡部である亀の瀬から河内湾に注ぐ流れが形成されていた事もわかります。これが300〜100万年前となっています。
100万年前になるとかなり現在の地形に近づいています。東海は濃尾平野を形成しながら消失していき、琵琶湖もほぼ現在の場所に位置しています。この図では奈良湖は既にマーキングするような規模になっていない事もわかります。河内湾は淡水系が乏しくなったことから海水の湾になっているぐらいの理解で良いようです。しっかし紀の川はかなり奥まで淡水湖状になっていた事に感心しました。


河内湾(河内湖)

URBAN KUBOTA NO.11からです。

引用した図にもあるように5000〜4000年前の縄文時代前期末から中期の推測図です。この時代は河内湾がしっかり確認できます。この図には代表的な縄文遺跡を3つ記してあるのですが、ちょっと注目したいのは縄手遺跡です。この図ではどこにあるのかちょっと判りにくいので現在の航空写真で位置を確認してみます。
星田旭遺跡や国府遺跡は場所として「そんなところだろう」ぐらいが素直な感想ですが、縄手遺跡はかなり海に近い感じがします。縄文時代の基本は採集生活ですから、海に近く、山にも近い位置は条件として良いのだろうとは思いますが、暮らせるだけの陸地がこの時期にあった点に注目します。それと地図には3つしか遺跡が記されていないのですが、現在どれぐらい確認されているのかは知りたいところです。向出遺跡 大阪の縄文遺跡には、

 大阪府下の縄文遺跡数は、宮野淳一氏の集成によれば、1989年11月末の段階で301個所に及んでいる。さらに、これらの遺跡の地域別内訳は、摂津が71箇所、河内が144箇所、和泉が86箇所であった。又、その数は、その後の発掘調査等によって、更に増加している。

 一方、時期ごとの遺跡数動向の中で、特に注目すべき点として、今から約4.200年程前の縄文中期末頃から遺跡数が急激に増加を示すようになる。このような傾向は大阪府だけに限らず、広く近畿全般に見られる現象である。ちなみに、大阪府下では、縄文中期から晩期にかけての遺跡数が縄文時代全体の遺跡数の約85%を占めている。

確認された分だけでもこれだけあるそうです。もう一つ興味深かったのは、

  • 泉州北部にある、石津川大津川の流域では、縄文中期末から晩期にかけて、時期ごとに多少の変化があるものの、ほぼ5?ごとに集落が営まれていたようだ。
  • 泉州南部(泉佐野市〜岬町)では、今までに見つかっている縄文集落のあり方を見る限り、7〜8?ごとに集落が存在しているようだ。

集落の間隔が等距離になるのは面積当たりの食料収穫量に依るぐらいはわかりますが、それがズラッと並んでいるのはスゲェと思ったぐらいです。縄文時代の人口密集地帯みたいな感じでしょうか。ここはこれぐらいにして次に進みます。

縄文時代晩期から弥生時代前半と図にかいてあります。紀元前1000年から西暦0年ぐらいになります。もう50年もしたら後漢書倭国伝にある倭の使者が洛陽を訪れる時代になります。この頃には上町台地からの砂嘴がさらに伸び、河内湾をほぼ封鎖するような状態になっています。河内潟の時代となっていますが、海水から汽水化、さらには淡水化に進んだ時代のようです。淀川・大和川による沖積もかなり進んでいます。地図に示されている遺跡が縄文遺跡なのか弥生遺跡なのかですが、チェックした限りでは大部分が弥生遺跡で、一部に縄文からの引き続き、さらには後世に至るものでした。

弥生時代の定義も昨今揺れているようで、従来は紀元前400年ぐらいから始まるとされていましたが、その前の紀元前1000年まで拡大し縄文時代晩期を含める考え方も出ているようです。まあ重なっていても不思議はないと思います。弥生中期が終わるのが従来説では西暦0年ぐらい、新しい説で西暦100年ぐらいのようです。次に進みます。

これが3世紀から5世紀になります。上町台地から伸びた砂嘴はほぼ河内湾を封鎖し河内湖状態になっているのがわかります。


感想

手元に遺跡をもっと示した地図があるのですが、大阪湾一帯は縄文時代から多くの人間が住んでいた事を今さらながら思い知らされました。神話の神武に当たる人物がいつ難波に着いたのかは益々興味深いところです。船については西暦57年に後漢の首都洛陽まで使節が訪れている訳ですから、瀬戸内海を渡ってくるのは十分可能なはずです。しっかしながら、この資料をもっと早くに見つけていれば、河内湖のムックはもっとラクだったとボヤいているところです。