日曜閑話70

今日のお題は「執念深く三木城」です。三木城と言っても1580年の落城後はwikipediaより、

 その後、羽柴秀吉は姫路城を居城とし、三木城には城代を入れた。その後天正13年(1585年)8月中川秀政が入城するが朝鮮の役で没すると、弟の中川秀成が跡を継ぎ、天正14年(1586年)には入封する。その後は豊臣氏の直轄地となり城番が入った。城番には、賀須屋内膳、福原七郎左衛門、福原右馬助、朝日右衛門大夫、青木将監、杉原伯耆守の名が歴代として伝わるが、実態ははっきりしない。ただ、豊岡城主である杉原が、三木城番を兼ねていたことは文書が残っている。

 関ヶ原の戦いの結果、池田輝政が播磨52万石の大名となり、姫路城主となると、三木城も6つの支城の一つとなり、宿老の伊木忠次が3万石を知行し三木城の城主となった。その後伊木忠繁が継ぐが元和元年(1615年)一国一城令によって破却された。

1615年に破却された後はどうなったかですが、1617年に三木郡が明石藩領になり、その後に秀忠の命により明石城が築城されます。この時に使える資材は悉く明石城に運ばれたとなっています。wikipediaより、

元和5年(1619年)正月から作事が始まり、元和6年(1620年)正月には小笠原忠真が船上城から移り住み、同年6月から城内の建物関係の工事が開始された。

1615年に破却後も残っていた石垣等の構築物、屋敷等はこの時に綺麗サッパリなくなったとして良さそうです。現在はどうなっているかと言えば

  • 本丸跡は上の丸公園
  • 二の丸跡は旧女学校 → 三木高 → 小野工業三木分校 → 市役所分庁・図書館
  • 新城跡は宅地
  • 鷹尾山城は市役所・文化会館
  • 宮の上の要害は水源地
上の丸公園内も保育所が建ち、、金物神社・稲荷神社が建てられ、公園の真ん中にはなんかの顕彰台が建てられています。平たく言えば歴史好きが訪れたとしても余程ディープな知識がないとかつての三木城を想像するのは難しい状態になっています。地元出身者も同様です。でもってかつての三木城の復元推測図は1枚きりしかありません。
これを基に考えざるを得ないのですが、正直なところ現地に行ってもピンと来ないと思います。余程その気になって見ないと三木合戦の三木城は想像するのも難しいと言ったところです。そこで全体を想像するために航空写真を使いました。航空写真も現在のものは市役所・文化会館建設のために鷹尾山を2/3ぐらい切り崩してしまっているのでイメージするのはかなり厄介です。前回は1974年頃の航空写真を使いましたが、もっと古い航空写真があった方が想像するのに有用なはずです。でもって探して見ると国土地理院のサイトにありました。一番古いのが1947年のものです。


1947年の航空写真

1947年と言えば昭和22年。撮影日は1947.10.4となっていますから、こんな時期によく航空写真なんか撮影出来たものだと感心したのですが。撮影データを確認すると撮影実施機関は「米軍」となっています。考えてみれば「そりゃそうだ」です。時代が時代なので画質はもう一つですが非常に興味深いものになっています。

1947年の航空写真 航空写真に縄張りを重ねたもの
左側が航空写真。右側が縄張りの推測図を重ねたものです。どこが興味深いか順番に検証しておきます。


1947年の航空写真 新城

上で示した三木城復元図では新城は大きく分けて南北に2つの曲輪構成になっています。なってはいるのですが現地を知る者として正直なところ「???」です。つうのも現在はあの辺り一帯はフラットなところなのです。つまり南北で2つに曲輪を作る様な地形的必然性が思いつかないぐらいです。ここで1947年の航空写真の新城付近をピックアップすると

画質が悪いのは目を瞑ってもらうとして、復元図で「新城」となっているところは森と言うより丘状になっているように見えます。森か丘かは写真だけでは判別が難しいですが、ここは江戸期にどうなっていたかです。
平山町と前田町の入植地になっています。水利が悪いところですから田は無理で畑じゃなかったと見ていますが、とにかく開墾地であったわけです。1947年の航空写真でも田畑しかないのが確認できます。もし現在のようにフラットであるなら、当然ですが木を切り倒して田畑に変えているはずです。それが残っていると言う事は丘であり、木を切り倒しても田畑にならなかったからと私は解釈したいところです。ここがその後どうなったかは1967年の航空写真が参考になります。
この時期頃までにどうも丘を切り崩している様子が確認できます。1967年より前に切り崩しているのはまず確実です。根拠はその当時にこの辺は私の遊び場だったからです。あの辺りは本丸や二の丸から一段(10メートルぐらいかな?)高くなっているところですが、北側の崖に近い部分はかつてはこんもりした丘状であったらしいと見れます。新城はその丘を中心に構築され、一つの曲輪として成立していたのであろうぐらいです。


1947年の航空写真 鷹尾山城

こっちの方はこんなものが見えるのかと感心した次第です。

どうもなんですが1947年当時は鷹尾山は禿山に近かったようです。戦中から戦後期に薪としてかなり伐採されたのでしょうか。そのためか鷹尾山城の遺構がかなり見えます。鷹尾山は西側が高かったようで、その頂上部にほぼ正方形の構造物があるのがはっきりわかります。かつての鷹尾山の主郭であったと考えて良さそうです。あとは尾根沿いに防御施設が伸びている感じでしょうか。実はごく最近にまだ残っている鷹尾山に入って見ました。山の中は「なんとか」程度に整備されており、段々畑状に構築されていた曲輪の確認は可能でした。1947年の航空写真で確認された主郭を中心に山裾に向かって要塞化されていたとして良さそうです。

これが現在どうなっているかですが、上で示した1967年の航空写真が判りやすいかと思います。ちょうど主郭があった部分が白くなっています。あれはどうなっているかもよく覚えています。1967年の航空写真に正方形の広い空地様のものが見えると思いますが、あれはかつての三木高のグランドです。その西側の白く切り崩された部分は体育館が建っています。当時の体育館の山側は見るからに「切り崩しました」みたいな状態だったのが1967年の航空写真です。どうも体育館を作る時に切り崩されてしまったとして良さそうです。さらにを言えば切り崩された山の上の部分に現在はもう一つ体育館が建設されています。その体育館の西側の鷹尾山がわずかに残っているのですが、その体育館と残った鷹尾山の間は

これは土塁の跡と考えて良さそうです。それも1947年の航空写真で確認できる主郭の西側部分と見なして良いと考えています。当時的には「史跡 < 開発」の価値観だったと思いますが、今となってはもし残っていればそれなりの観光資源になったと思いますから、ちょっともったいない気がしています。仕方がないと言えば仕方がないのですけどね。


1947年の航空写真 三木城の東側要害

三木城の東側の要害は三木城ムックをしている時からの疑問でした。つうのも三木城の東側も切り立った崖にはなっているのですが、山を登るにつれて崖が低くなっているからです。この辺りも私の子供時代から較べても大きく変わったところですが、1947年の航空写真を見ながら思い出した事があります。現在もありますが、市民会館の東側は墓地です。私の子供の時には道は墓地の真ん中を通る道しかありませんでした。この道は登りつめると宮の上の要害に作られた水源地に通じるぐらいです。未舗装の1車線程度の細い道でした。でなんですが、墓地の東側は切り立った崖でした。どうもなんですが、三木城の東側はもともとは切り立った崖が巡っており、その崖はやがて鷹尾山に続いていたと見て良さそうです。後世に道を作る時に崖の一部を切り崩し、通りやすいように盛り土したから段々に崖が低くなっているように見えているだけと推測します。


三木城の基本構図

三木城は西側・北側・東側のいずれもが切り立った崖になっている台地状の地形を活かして作られていると見て良さそうです。長年の疑問だった東側も二位谷川が作った谷があり、川と谷で容易に攻撃できない地形であったぐらいです。この三方はちょっとそっとでは攻撃は難しい地形です。弱点は南側の山です。三木城は山を背負った地形ではありますが、その山の背後に容易に回り込める点が最大の弱点だったと見ます。なにせ古来からの街道である兵庫道が背後を通っており、そっちの方が城より高い位置になります。秀吉以前にも何度か落城していますが、おそらく南側の山からの攻撃に屈した可能性が高いと推測します。

そのために宮の上・鷹尾の二重の防衛線を構築したと見るのが妥当そうです。地形的にほぼ並行してならぶ二つの山は横に長い自然の防壁を形作っています。防御能力を高めるために宮の上と鷹尾の間には大堀切を構築し、たとえ宮の上が落ちても鷹尾は第二防衛線として十分に機能するような構成です。これも推測にすぎませんが、三木合戦前は鷹尾山が南側の最前線じゃなかったかとも見ています。別所方も城の弱点を熟知していましたから、秀吉との合戦に備えて鷹尾の南にもう一つ防御線、つまり出丸みたいなものを作ったんじゃなかろうかです。

たいした根拠ではないですが、鷹尾山も開発で無残な状態になっていますが、宮の上になると殆ど何も残っていないとされます。たしかに宮の上の要害には水源地が作られましたが、逆に言うと水源地以外は今でもさほどの開発しか行われていません。それでも遺構が乏しいとなると秀吉戦用に急場で作ったからじゃないかの推測ぐらい出てくるからです。これとて今となってはなんにもわからなくなっています。


1947年の航空写真 新城の追加情報

なにぶん不鮮明な写真なのでなんとも言えない部分が残るのですが、その気で見ると土塁らしきものが見えます。あくまでもその気で見たらです。その点に注意して頂いて

土塁は結構な高さの場合があり、これを人力で切り崩すのは江戸期には少々大変だったのかもしれません。そのために土塁部分を避けながら江戸期は開墾していた可能性です。昭和期に入るとブルドーザーが登場しますから、それこそ一気に崩されてしまったんじゃなかろうかです。見えているものが本当に土塁跡なら、なかなかの観光資源になると思いますが、今さら言っても仕方がない事です。