竹中半兵衛の墓

秀吉の謀将として有名な竹中半兵衛は三木合戦中に病死します。命日は素直にwikipediaを信じて良いでしょうから天正7年6月13日(1579年7月6日)です。半兵衛が死んだときに秀吉は号泣したと伝えられますが、秀吉の半兵衛への信頼は非常に厚かったと判断しても良さそうです。まあ家臣の死に号泣してみせる芸なんて秀吉には朝飯前かもしれませんが、半兵衛を失ったのは秀吉にとっても大きな損失ではなかったかと想像します。この半兵衛の墓ですが実は4ヶ所あります。

  1. 三木平井山にある竹中官兵衛の墓
  2. 三木の安福田の栄運寺
  3. 岐阜県不破郡垂井町の禅幢寺
  4. 滋賀県能登川町浄土寺
素直な興味はどれが本物だろうかです。このうち浄土寺のものはwikipediaより、

浄土寺にある墓は、竹中家臣団の一人である竹中筑後守のものである。

画像を探したのですが見つけることが出来ませんでした。もちろん由緒らしき事もほとんど見つかりませんでしたから、ここはwikipediaを信じて浄土寺は外します。安福田の栄運寺の話も面白いのですが、福本錦嶺氏著「三木市の史跡と神社仏閣」 に

この地は今井家の所有の山林で、今井家に残る古文書に「文化9年(1812)10月9日 今井家の仁左衛門兌和が雨の降り続いた裏山の中腹に死人の墓が露出しているのを見つけ、当時栄運寺の住職であった群誉円碩和尚に相談しその翌日(10月10日)立ち合いの上、この蓋を開くと完全な人骨が顕れたので11日に地頭に報告。易の占いに大臣病気出養生病死則ち葬候。竹中半兵衛重治公と知り10月26日再び塚を築いて戒名を浄源院殿霊誉道覺居士と刻み位牌を作り栄運寺に安置して以降供養を営む」と記されている。

ここから墓と棺の埋葬場所は分離されて行われ、これこそ本物の半兵衛の棺ではなかったの説が出ていますが、個人的に外したいと思います。で、とりあえず地元の人間にとって本命である平井山の墓を見てきたのでまず紹介します。


平井山の竹中半兵衛の墓

まずは全景というか前景です。

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前にゴシャゴシャあって撮りにくかったですが、白漆喰の塀(かつては土塀、今はブロックだそうです)の向こうが半兵衛の墓です。でもって半兵衛の墓ですが、

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長方形の塀で囲まれた中に半兵衛の墓はあります。これも見てもらえればわかるのですが、墓石は少し盛り上がった塚の中腹ぐらいに位置します。この塚なんですがちぎれ雲様のコメントに、

平井にある半兵衛の墓を(確か明治時代と思われますが)掘ったところ刀剣などの武具類がたくさん出てきたとの地元古老の話を「三木史談」誌の何年か前の記事に出ておりました。

ここからちぎれ雲様は下級戦士の合葬墓ではないかと推測されていますが、ほいじゃ人骨はどうだったんだの情報が欲しいところです。武具だけで出てきて人骨がないのはチイと不思議です。ただこの情報から言えそうなことは、明治期の塚に半兵衛の遺体らしきものはなかったぐらいは推測できます。次は墓石のアップです。

半兵衛らしい簡素さと受け取れないこともありませんが、作ったのは半兵衛ではなく秀吉です。ちょっと簡素過ぎる気がしないでもありません。簡素と言えばよくよく確認すると、半兵衛の墓石は秀吉が建てたとして、それ以外はすべて後世のものとして良いようです。墓石の周囲の付属品はどう見ても後世どころか、かなり最近ものです。灯籠は古そうですが、

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この灯籠については三木平井山観光ぶどう園HPにある資料には、竹中重寛が発起し、その子の重英の時に完成したとしています。半兵衛から数えて重寛が9代目、重英が10代目にあたります。さらにこの時に土塀も合わせて整備されたとしています。

ペリー来航の前年・嘉永5年(1852年)の序がある『播磨国三木郡志・美作国吉野郡志』の平井村の項に以下の記載があります。
一、竹中半兵衛重治墓あり。苗孫竹中主税介某濃州岩出に居縦八間に五間の塀をかける。
(『播磨国三木郡志』三木市教育委員会編より)

文化2年とは1805年ですから、半兵衛が死んでから200年以上後に整備されたものになります。後は余談みたいなものですが、竹中半兵衛の墓を訪れた感想として、墓石の背後にある木に意義を感じられている人が少なからずいました。私も例外ではないのですが、この塚の上の木も秀吉が墓を作った時からあったのかは疑問です。ちぎれ雲様の発掘の話が本当なら、塚は秀吉が作ったものであり、作った塚に木が生えているはずもありません。時の流れは半兵衛の墓をその子孫が整備した時で既に余裕で200年を超えています。200年もあれば木は大木に育ちます。


半兵衛後の竹中家はあれこれあったのですが、江戸期は旗本として生き残ります。所領は半兵衛の時代から続くもので、今でも竹中氏陣屋跡が整備されて公開されています。歴史マニアなら菩提山城が有名ですが、菩提山城は山城で使いにくく、麓に岩出城を作ったのが続いたぐらいです。竹中氏陣屋はともかく禅幢寺は竹中氏の菩提寺です。加藤のひとり旅様から引用しますが、

なかなか立派なお寺で、半兵衛の墓も

たぶん向かって左側だと思います。この禅幢寺の半兵衛の墓の由来は、

竹中重門はもちろん実在の人物で、秀吉から家康の難しい時代を生き抜いて竹中家を存続させた人物ぐらいの評価で良いと思います。この重門ですが1573年生まれなので、父の半兵衛の死亡時に6歳、墓を三木から移葬した時で14歳です。後見人として竹中重利(半兵衛の従弟ないし甥)は半兵衛の妹を嫁にもらっているので義弟にもあたるので、半兵衛の墓の移葬に反対する理由も見つかりません。1587年に移葬した話は竹中家が江戸期も連綿として続き、移葬したのが半兵衛の子であった点で信憑性が高いと素直に判断できます。傍証として、三木平井山観光ぶどう園HPに、

半兵衛没後226年の文化2年(1805年)、平井村を老武士が訪れます。竹中重寛がつかわした神田弥五兵衛登啓です。

村人が戦国の世から営々と守り続けてきた半兵衛の墓。大きな土盛りの上には、三樹が根をはり「竹中半兵衛重治墓」と刻まれた墓標がたっていました。庄屋太右衛門と年寄新右衛門に出会った神田弥五兵衛は、これまでの供養の礼をのべた後、竹中家として墓所の整備を申し出ました。

半兵衛没後(正確には1587年に移葬した後)は竹中家は平井山の半兵衛の墓に参っていなかった可能性があります。そりゃ本当の墓は禅幢寺にありますから、半兵衛を参るならそっちに行くだろうからです。


半兵衛の墓はいずこへ

どうもなんですが半兵衛の墓は

    平井山(1579年)→ 禅幢寺(1587年)
最初は秀吉が秀吉が平井山に葬り、つぎに半兵衛の子の重門が禅幢寺に移葬した経緯です。そう考えると話の筋が通りやすくなる部分があります。現在の平井山の墓所は200年後に竹中家が整備するまでは塚と墓石だけだったと見て良さそうなんですが、秀吉が作った半兵衛の墓と附属施設は移葬の時に竹中家が持って行ってしまった、ないしは破却してしまったんじゃなかろうかです。竹中家はその代わりに現在も残る墓石(供養塔)を新たに作って残していった可能性はあります。だからあれだけ簡素な墓になっていたのなら私的には納得できる点があります。

この説明の唯一の難点は三木に半兵衛の墓の移葬伝承が「たぶん」残っていない点です。そりゃ残っていれば「こっちがホンモノ」なんて主張はしないでしょう。ここについては伝承の変容を考えています。移葬当時には墓がなくなった伝承もあったんでしょうが、結果として半兵衛の墓石は残っていたわけで、いつしか「やっぱり半兵衛の墓はある」への変化です。これが確心に変わったのが1805年から竹中家が行った墓地の整備です。いや竹中家が墓地を整備したので「こっちがホンモノ」伝承が生まれた可能性もあると思います。


おそらくなんですが、竹中家は偉大な先祖である半兵衛に対し現在の禅幢寺墓所だけでなく、その前の墓所である平井山も「ふと」気になったぐらいで良さそうです。当主であった重寛はタマタマ二条在番として京都に住んでいたので、家臣に様子を見に行かせたぐらいが真相の気がします。その報告を聞くと今でも墓所は残っているだけでなく、地元民によって供養されているぐらいを想像します。それを聞いた重寛は前墓所とはいえ半兵衛の墓ですから、きちんと整備しておかないといけないと判断したぐらいです。

これが塀と灯籠につながっていくのですが、三木の地元民が本物の半兵衛の墓と信じ込んでいる点に留意した気がします。本物を200年も放置するわけがないのですが、三木の地元民が半兵衛を手厚く供養する様子を気の毒がっている文章が残されています。これも三木平井山観光ぶどう園HPにある文化5年8月9日の手紙です。

其表半兵衛墓所江六月十三日何角厚御心配御取計之趣、三木町五百蔵又市殿被御申越、委細致承知、御厚志之御事共不浅忝存侯。 乍然、先達而茂追々得御意候通、右様之御世話茂罷成候而者、其以迷惑至極気毒存候。

リンク先にはある程度読み仮名があるので、読みにくい人はご参照ください。ポイントは、

    右様之御世話茂罷成候而者、其以迷惑至極気毒存候
いろんな取り様はありますが、私は本物の墓ではないのにって心情が滲み出ているように感じました。