高齢者の医療と福祉

最近いくつかの意見や見解が目について思った事です。


医療と福祉の境目

病になり医療機関を受診するとします。医療機関で治療を受け全快したら医療だけでしょう。小児科診療所はそんな患者が殆どです。一方で医療機関で治療を受けてもある一定ラインまでしか治らない患者もいます。いわゆる慢性疾患ですが、小児でもいますがこれは高齢になればなるほど増えるのは説明の必要はないと存じます。たとえば認知症。現在の医学ではせいぜい進行を遅らすのが精一杯ってところです。進行を遅らすのは医療ですが、その病人の生活全体を支えるのは医療ではなく福祉と見ます。クリアカットに境目が必ずしもあるわけではなく、疾患によってはシームレスになるものもあるでしょうが、医療と福祉は別建てで考える方が良い気がしています。とくにコストとして考える時はその方が良いぐらいです。

なぜにそんな事を考え出したかですが、最近の医療政策がその方向に大きく動いているからです。ほいじゃ、最近じゃなくて「かつて」はどうであったかですが、医療は福祉の分野もかなり取り込んだ形で成立していたと見ています。「かなり」と言うより福祉分野も丸抱えしていたとしても言い過ぎではない気がします。なぜにそうなったかは様々な理由があったとは思いますが、個人的に医療にはカネがあり、福祉にはカネがなかったのも大きな理由じゃないかと考えています。

日本は皆保険体制ですが、かつては保険財政には余力がありました。これは人口の年齢構成が大きく、病気をあまりしない若年勤労世代の比率が高かったぐらいで説明しても良いかと思います。今とは違い余裕で病の多い高齢者世代を抱えられたぐらいです。ここで福祉には医療と別建てで予算を確保する必要があります。自治体は医療福祉以外にも様々な予算が必要ですが、福祉については可能な限り医療に被せてしまったんじゃなかろうかです。行政府の予算で「たぶん」ですが福祉と医療で予算の出所が違う、ここもあからさまに言えば福祉は自治体の予算ですが、医療はそうでないぐらいです。福祉を医療に含めるほど他に予算を回せるメリットです。

医療と福祉の境目を施設で例を取ると、病院は医療、高齢者施設(老健、特養など)は福祉ぐらいの感じで見てもそんなに見当外れではないとも考えています。本来は病院(医療)で出来るところまで治療した後は、残った障害の程度により福祉施設に引き継ぐべきものを、病院で見ていたぐらいとすれば良いと考えています。いわゆる「社会的入院」ってやつです。社会的入院が起こる理由の一つは、患者の行き場がない事が挙げられます。行き場とは本来は福祉施設であるはずなのですが、ここの整備が不十分なため社会的入院を行っていたです。

社会的入院については昔から批判はありましたが、一方で暗黙の了解があった気がします。解消のためには病院から次の福祉施設の整備になりますが、それには手を付けたくない(カネがかかる)です。社会全体のコストで言えば、

こうなるのですが、自治体の財布からすると福祉施設を作る事、運営する事自体がモロの出費になり忌避していたぐらいです。社会全体のコストからすれば割高でも、別の財布である医療で賄ってくれればそれに越した事はないと言えば良いでしょうか。それだけの余力が医療にあったとも言えます。


医療と福祉の分離政策

時代は進むと医療の財布が怪しくなってきます。そのため医療費抑制のために様々な政策がとられている事は説明の必要もないと思っています。医療費削減政策は各論的にはあれこれ意見もあるでしゅうが、ずっと、ずっと、ずっと引いて考えると

    医療と福祉の切り離し
これをやっているように見えます。医療が抱え込みすぎていた福祉の分野を切り離そうぐらいです。切り離した分だけ医療の負担は軽くなり、苦しくなっている財布が助かるぐらいです。そこは本来医療でなく福祉が負担する分野であり、かつての様に袖が振れなくなった医療(予算)からドンドン切り離してしまおうです。そういう風に考えると理解しやすい部分はかなりあるように感じています。


分離政策の問題点と取られている対策

医療から切り離された福祉ですが、そこには新たな予算と言うか財源が必要です。しかし医療が抱えていた福祉分野は巨大です。そっくり受け皿を作るにも、これまで医療に投げていたので初期投資だけでも莫大になりますし、維持費用もすべて新規出費になります。医療の財布も苦しいですが、国や、自治体の財布も苦しく、そんな予算の捻出が無理となった気はしています。現在やろうとしているのは可能な限りカネをかけずに、医療が抱えていた福祉を構築しようとしていると見て良い気がしています。

現在は在宅へのシフトが鮮明ですが、なぜに在宅かです。トータルの社会コストで言えば、

    施設 < 在宅
こうなるのは経済原則からも自明です。しかし何らかの理由によって
    施設 > 在宅
こうなるマジックの青写真を描いておられるわけです。ここもそんなに頭を捻らずとも理由は思い浮かびそうなもので、
  1. 施設の初期投資の節約
  2. 人件費の節約
これがマジックのタネで良さそうです。とくに人件費はランニングコストで非常に大きな割合を占めますから、ここを劇的にカットできれば行政サイドの支出の面では施設を下回る試算がある気がしています。人件費の節約の手法は単純明快で、
    タダの家族労働力の利用
家族が家族の介護をすれば行政サイドの人件費は大幅にカットできます。自分の親の介護に費用を請求する人はまずいません。家族労働力をフル活用するには、施設をむしろ作らない方が良いと言う考え方も出来ます。施設が少なければ少ないほど、行き場がない患者は嫌でも家族がタダで介護せざるを得なくなります。医療が福祉を抱えていた頃は行き場が無くて社会的入院となっていたものが、現在は行き場がないので在宅以外の選択肢がなくなっているぐらいの解釈です。


コストは回る

手際よく説明しにくいのですが、かつては高齢者人口の比率が少なく医療が高齢者福祉を丸抱えしていたわけです。現在は高齢者人口が急増し医療では支えきれなくなった段階です。医療の方が福祉よりコストは高くなるので、福祉を切り離し医療より低コストで節約しようの発想は総論的には理解できます。しかし医療にかかる予算は福祉を切り離しても膨大に膨れ上がる現実があります。つまり切り離された福祉にかける予算が非常に乏しいぐらいです。予算を節約しながら福祉を補う方策がタダの家族労働力利用による人件費節約ぐらいです。

家族労働力は行政から見ればタダですが、社会全体から見れば確実にコストが発生します。高齢者人口の比率の増大は介護にあたる家族労働力の比率の減少と裏表です。増大した分の高齢者介護に家族労働力を動員すれば、その分だけ社会から労働力が失われます。でもって従事している介護はいくらやっても報酬は発生しません。介護に従事する前はなんらかの仕事で報酬を得ていたわけですから、その分が消えてしまった事にもなります。この社会から失われるコストについてどういう見解であるのかが前からの疑問です。

施設介護の方が人手が少なく介護が可能(制度設計にもよりますが・・・)です。少なく済んだ分は報酬のない家族介護ではなく対価のある仕事に従事できるわけです。もちろん介護費用は発生するにしても働いた報酬のうちから支払う方が経済的には望ましいんじゃなかろうかです。もちろん施設になれば施設職員の人件費を賄わないといけませんが、これは家族労働力をタダにした分に過ぎないと見なせるかと思っています。本当に比較しないといけないのは、仕事を辞めて在宅介護した経済的損失と、仕事をしながら施設介護費用を支払うのとどっちがトータルで経済的メリットが生じるかじゃないかと考えています。


あんまり経済学は得意ではないのですが、非常に初歩的な話だけしておきます。経済活動とはなんらかの労働を行い対価を得る事が基本です。いわゆる「世の中は売ると買うからなっている」です。この売買規模が大きいほど経済活動が活発になるぐらいです。少しだけ言い換えると労働に対する対価はカネと言うことになりますが、このカネが次から次へと人の間を回る回転率が高いほど経済は活発化するぐらいです。世にいう経済政策とは煎じ詰めれば、いかにカネが世の中を活発に動き回らすことが出来るかをやっているものぐらいです。経済理論もまた然りです。

経済学もうるさい方が多々おられますから「そんな単純なものじゃない」の批判もあるでしょうが、これぐらいを前提にして考えると、施設介護は、

  1. 施設労働者に対価が発生する
  2. 施設労働者の対価の財源のために利用者家族はその費用を別の労働で対価を得てくる
介護のためのコストは絶対の前提ですから、この方がカネの回りが良くなって経済的には有利じゃなかろうかです。とにかく人口構成の高齢者の比率が高くなるわけですから、相対的に介護する勤労世代はやせ細っているわけです。やせ細った勤労世代をタダの家族介護に大動員するのは無視できるデメリットとは思いにくいぐらいのところです。私はそう思うのですが、厚労省も政府もそう思わないのだけはわかります。ただでも少なくなっている勤労世代人口をタダの家族労働力として大動員するツケは発生すると思うのですが・・・違うのかなぁ?

まあ壮大な社会実験をやっているようなものですが、在宅の無理はもう出ているとは思っています。施設回帰の傾向は確実に発生していると感じています。これはその方が「メリットがある」の社会の要求として非常に強い事の現れじゃないかと思っています。10年先はどうなっているかはかなり不透明な気がしています。