新年明けましておめでとうございます

旧年は最後にエントリーが完全に息切れ状態になり甚だ遺憾なものになった事を深くお詫びします。新年になっても状況はあんまり好転していませんが、尻すぼみでフェードアウトに向かうにしても、それなりに抵抗をしたいところです。どうでも良いような目標ですが、現時点でこのブログが8年半ですから、せめて後1年半頑張って10年まで続けたいと念じています。ペースダウンについては幸い「さほど」の不評もないようなので、なんとかかつてのペースを取り戻せるように精進させて頂きます。

さて今日は、個人的にいつか取り上げようと思いながら、未だに取り上げていない1985年の阪神優勝「だった」です。85年の後も2003年、2005年も優勝しているのですが、私にとっての阪神の優勝と言えば85年(昭和60年)です。ある種の青春時代のノスタルジーも大量に含まれているのだとは考えていますが、とにかくあの年は凄い年でした。でもって85年は21年ぶりの優勝なのですが、その前は64年になります。つまりは昭和39年、東京五輪の年です。歳がバレますがこの年で2才の私には何の記憶もありませんが、私の子ども時代は、この64年の優勝を知る親から伝説のように聞かされた優勝です。ちょうど私が85年の優勝を子供に語るのと同じようなものかもしれません。

85年の前フリで64年の優勝の事をちょこっと書こうと調べだしたら、それだけで一つのエントリーが立つぐらいの分量になってしまったので、もう半世紀も前の64年の話を新年閑話としてお届けします。


現在はFAやらポスティングもあり、メジャーにも有力選手が移籍する時代ですが、半世紀も前になると「トレード = 不要者の整理」みたいな目で見られてもいたそうです。当時の阪神は前々年度の62年に二リーグ分裂後に初めて、1リーグ時代から15年ぶりの優勝を「伊予の古狸藤本定義の下で遂げています。62年の優勝の立役者は27勝11敗 防御率1.66の「精密機械」小山正明と25勝14敗 防御率1.20の「ザトペック」村山実です。

小山は精密機械とまで称されたコントロールを武器に歴代3位の320勝を挙げた大投手。村山も大学出身投手として最高の222勝を挙げ二代目ミスタータイガースとして球史に残る名選手である。
実にこの2人で52勝。この年は75勝挙げているのですが、10勝5敗 防御率2.83の「細腕繁盛記」渡辺省三まで入れると、3人の投手で優勝したようなものになります。2013年でたとえると田中のマー君が二人いるようなものです。チーム成績を表にしておきますが、

チーム 投手成績 打撃成績
防御率 完投 完封 奪三振 失点 打率 本塁打 得点
阪神 2.03 54 24 825 330 .223 64 386
大洋 2.73 26 20 915 438 .242 100 428
中日 2.68 50 18 645 407 .249 107 469
読売 2.47 34 20 754 395 .232 102 452
広島 3.30 37 13 634 493 .239 75 436
国鉄 2.61 51 14 737 421 .201 60 313


チーム防御成績は6球団随一の2.03。これに続くのが3位の読売の2.47、優勝を争った大洋が2.73です。失点も防御率に比例するようにダントツに少ないのですが、一方で打撃成績はお寒い限りです。打率は許容範囲としても、得点が少なく、ひたすら小山・村山の2本柱に頼り切った優勝であるのがわかります。いかに投手優位の時代とはいえ、野球は点を取らないと勝てません。小山・村山の大車輪の活躍は翌63年には起こらず、2人合わせても25勝に留まってしまうと成績は急降下、負け越しの3位に甘んじる事になります。

そのために主砲が欲しい阪神とエースが欲しい大毎との間で小山正明山内一弘の交換トレードが行われます。主砲とエースのトレードですから大きな話題になり、世紀のトレードと報じられる事になります。このトレードで本当に得をしたのは阪神か大毎かになりますが、結果論としてロッテが得をしたとは言われています。山内はそれなりの活躍を示しましたが、移籍の年に30勝を挙げた300勝投手の小山の活躍には及ばないの評価です。ただなんですが、弱体の阪神打撃陣には山内の打棒が必要であり、64年の優勝は山内抜きでは無理だったのもまた事実であり、64年の優勝の次が85年であるのもまた事実です。

大毎ミサイル打線の中核を担った強打者。世紀のトレードで64年に放った31本塁打は山内のシーズン自己最高の33本塁打に迫る活躍であったが、打率が.257と低迷したのとトレード相手の小山が30勝を挙げたのは比較された。
もう少し言えば、阪神打線に真の大砲が加入するのは「伝説の長距離砲」田淵幸一の加入まで待たねばなりません。王・長嶋が華々しく打ちまくる当時の読売と比べるのも遠いピストル打線で、ダイナマイト打線は完全に神話時代のお話になっていました。


64年はトレードで大砲山内を獲得したとはいえ、両輪のエースの一人である小山正明を失っています。山内の加入で阪神打線が打ちまくって優勝したかと言えばそうではありません。チーム打率は62年が5位、63年も5位、64年も5位です。打点も同じく5位、4位、4位です。小山の穴を埋める投手の出現によりリカバリーしています。それがジーンバッキーです。通算100勝の名助っ人であり、歴代阪神助っ人の中ではラインバック、バースと並び称される名選手です。

3Aをトラブルで解雇されかかり阪神にテスト生として拾われた助っ人。同時期に南海で活躍したスタンカと共に最高の投手助っ人としてしられ、ともに通算100勝の記録を残す。また、二人とも瞬間湯沸かし器としてしられ、とくにバッキーは読売の荒川コーチとの乱闘で投手生命を縮めたのは悔やまれる。
バッキーは阪神時代の7年間で通算100勝を挙げてはいますが、そのうち29勝を64年に残しています。ちなみに64年の29勝に次ぐ成績が67年の18勝ですから、バッキー抜きでは64年の優勝などあり得なかったのは間違いありません。これまたちなみに加入した62年が0勝3敗、63年は8勝5敗ですから、ここまでバッキーが活躍すると当時の人間で予想できた人は非常に少なかった気もしています。もちろん当時の評価なんて知りようもありませんけどねぇ。結局のところ、この年に22勝を挙げた村山と62年の大エース2枚看板システムが優勝の原動力になります。

ただなんですが、村山は62年に比べるとイマイチだったようで、22勝はしていますが18敗、防御率も3.32。この防御率阪神投手陣の中でも下から2番目ぐらいの成績で、62年に小山と張り合った勢いはなかったようで、言い切ってしまえば64年の優勝は29勝9敗 防御率1.89のバッキーの爆発に尽きる気がします。ここで62年と64年の二枚エースの成績を比べておくと、

1962 登板数 投球回数 防御率
小山正明 47 352.2 27 11 1.66
村山実 57 366.1 25 14 1.20
1962 登板数 投球回数 防御率
ジーン・バッキー 46 353.1 29 9 1.89
村山実 46 255.0 22 18 3.32


64年のバッキーは62年の小山・村山に匹敵する活躍をしていますが、64年の村山はチト落ちるぐらいの成績になっています。なんとなく村山がイマイチの分だけドラマチックな経過になったんだろうと思っています。


ライバルは大洋ホエールズ

万年最下位の大洋を60年に奇跡の初優勝に導き魔術師の名をほしいままにした三原脩。その後も62年、64年と優勝まであと一歩と迫っていた。その三原の前に立ち塞がったのが伊予の古狸こと藤本定義。いずれも川上巨人に一泡吹かせた球史に残る名将である。
1960年に「魔術師」三原脩に率いられた大洋ホーエールズが奇跡と言われた初優勝を飾っています。何が奇跡か今となってはわかりにくいと思いますが、大洋は1950年の2リーグ分裂時に加入。そこから11年後の1960年に初優勝を飾ってはいます。なんとなく去年の楽天を思い浮かべさせるような経緯ですが、この10年間の成績がなかなかのものなのです。

勝率 順位 ゲーム差
50 69 68 3 .504 5 31.0
51 40 64 4 .385 6 37.0
52 58 62 0 .483 4 25.0
53 52 77 1 .403 5 37.5
54 32 96 2 .250 6 55.0
55 31 99 0 .238 6 61.0
56 43 87 0 .331 6 41.0
57 52 74 4 .415 6 21.5
58 51 73 6 .415 6 21.5
59 49 77 4 .392 6 28.5


セ・リーグは50年が8チーム、51・52年が7チームで以降は6チームで現在に至ります。加入年こそ勝ち越して5位になっていますが、初優勝の60年前の54〜59年は6年連続の最下位。55年には年間99敗の記録まで作り、優勝チームとのゲーム差が61.0ゲームという天文学的な記録も残しています。年間で31勝していないわけですから悲惨なものです。ちなみに56年から少しマシになっていますが、原因は後の優勝の立役者秋山登の加入のためと考えてよさそうです。56年に秋山は25勝25敗と言う、ある意味トンデモな記録を残しますが、それでも秋山が25勝したお蔭で優勝チームとのゲーム差が21.5ゲームと「劇的」に縮まったとしても良さそうです。
秋山は無類のタフネスとして知られ、ダブルヘッダー連勝5回の記録を持つ。さらに2日連続完封の離れ業を62年に記録しているが、この時は9月に優勝を争う阪神の村山、小山と投げ合ってのものである。
それが三原監督の就任1年目に突然優勝したのですから「奇跡」と呼ばれたわけです。三原が「魔術師」のニックネームを付けられたのはまさにこの時だった気もしています。では大洋が60年限りの一発屋だったかどうかですが、60年代前半、とくに三原が指揮を執った65年(正確には66年に途中解雇)までは優勝を争う年があり、もうちょっとで優勝しそうな状態にまで近づいていました。それが62年と64年です。もっとも三原大洋7年足らずの間にAクラスに入ったのはこの3年間だけだったと言うのも一方にあります。

ほいじゃ、ほいじゃなんですが巨人は何をしてたんだになりますが、61年と63年に優勝しています。また65年からは球史に永遠に残るであろう9連覇が始まります。ただ62年は4位、64年は3位と川上巨人もまた発展途上であったようです。セ・リーグの覇権は発展途上の川上巨人と、伊予の古狸率いる藤本阪神、さらに魔術師が率いる三原大洋が三つ巴で争っていたぐらいの理解で良いかもしれません。この大洋の64年メンバーを探し出すのに往生したのですが、打線で阪神と比べてみます。

守備位置 阪神 大洋
氏名 打率 本塁打 打点 氏名 打率 本塁打 打点
捕手 辻佳紀 .181 4 12 伊藤勲 .217 13 51
一塁 遠井吾郎 .282 12 41 近藤和彦 .273 7 35
二塁 本屋敷錦吾 .221 4 25 近藤昭仁 .266 4 28
三塁 朝井茂治 .243 11 45 クレス .266 36 89
遊撃 吉田義男 .318 8 29 桑田武 .299 27 96
左翼 山内一弘 .257 31 94 長田幸雄 .297 6 45
中堅 並木輝男 .230 11 48 重松省三 .296 15 50
右翼 藤井栄治 .266 9 58 森徹 .255 15 54
チーム .240 114 467 * .255 134 535


打順については阪神はわかるのですが、大洋は不明です。koume様、ご存知でしたらコメントください。ざっと見る限りですが、大洋にはクレスと桑田武の2枚の大砲がいるのがわかります。本塁打は30本前後、打点も90点前後の成績を収めています。一方の阪神は山内1枚です。山内の本塁打31本、打点94は立派だと思いますが、その次が非常に寂しいものになっています。阪神のクリンナップ・トリオは3番藤井、4番山内、5番遠井だったようですが、迫力はどう贔屓目に見てもかなり落ちます。まあ、それでも「山内もいなかったら」恐ろしいと言ったところです。投手陣はどうであったかですが、これは上位5投手のみ表にしてみます。

阪神 大洋
氏名 登板数 投球回数 防御率 氏名 登板数 投球回数 防御率
バッキー 46 353.1 29 9 1.88 稲川誠 55 302.2 21 13 2.91
村山実 46 255.0 22 18 3.32 秋山登 63 259.2 21 10 2.74
石川緑 30 149.1 10 3 2.89 高橋重行 38 214.2 17 11 2.77
バーンサイド 34 118.0 5 8 3.36 鈴木隆 70 151.0 9 8 3.22
渡辺省三 31 85.0 6 3 2.86 佐々木吉郎 39 123.2 5 7 2.55
若生智男 27 99.2 5 6 3.16 峰国安 45 97.1 5 2 3.51
チーム 80 56 2.75 チーム 80 58 3.03


阪神が二枚看板のフル回転で臨んだのに対し、大洋は稲川誠秋山登高橋重行の3枚看板であったようです。稲川は社会人経由でプロに入っての3年目で前年度も24勝を挙げており、秋山に並ぶエース格で良いかと思います。それと大洋にとってはこの年の新人王となった高橋重行の17勝は大きかった気はします。まあ阪神もバッキーの29勝が突然降って湧いたようなものですから、優勝する、もしくは優勝を争うチームはそんなものかと言うところでしょうか。

投手成績、とくに勝ち星は優勝チームが多いのが当然ですが、阪神の2枚看板が合計で51勝、一方の大洋の3枚看板は59勝です。ここも阪神が3人目の石川緑を入れれば61勝になりますが、2枚看板と3枚看板では大洋の方が余力がありそうな気もするのですが、かなり微妙です。当時の投手起用は、エースは先発はもちろんですが、勝ち試合になってくるとリリーフとしても起用されます。それがどの程度行われたかをこれまた表にしてみます。

阪神 大洋
氏名 登板数 先発 リリーフ 氏名 登板数 先発 リリーフ
バッキー 46 24 21 稲川誠 55 40 15
村山実 46 17 29 秋山登 63 23 40
石川緑 30 7 23 高橋重行 38 34 4
バーンサイド 34 4 31 鈴木隆 70 15 55
渡辺省三 31 2 29 佐々木吉郎 39 14 25
若生智男 27 4 23 峰国安 45 4 41


こうやって見てもらうとわかると思いますが、阪神はバッキーにしろ、村山にしろ先発よりもリリーフの登板数の方が多くなっています。一方の大洋ですが・・・とりあえず稲川の先発40回に目を剥きます。この年の試合数は140ですから、稲川だけで1/3近くの先発を行っていた計算になります。日本のプロ野球の基本システムは1カード3試合、週6試合がセットですから、ほぼすべてのカードに先発していたぐらいの計算になります。もう1人のエースの秋山も壮絶で、先発回数こそバッキー並ですが、リリーフ回数はバッキーの2倍ぐらいをこなしています。まあ時代と言えば時代なんですが、これでシーズン最終盤まで競り合ったら疲労困憊になるだろうぐらいは誰でも予想できるところです。

あえて言えば、三原大洋は稲川、高橋を先発に主に使い、秋山を先発とリリーフに大回転させていたぐらいでしょうか。阪神はバッキー、村山とも大回転ですが、村山の方が「やや」リリーフとして大目に使われていたぐらいの印象です。投手優位かつ、投手酷使時代の典型みたいな感じがします。


奇跡の逆転優勝

こういう風に64年の阪神優勝は語られていますが、何が奇跡なのかはおぼろげにしか存じませんでした。調べてもあいまいな部分は多々あるのですが、一番わからないのが大洋の星取りです。つうか阪神がわかるのが凄いとも言えますが、大洋のシーズンの星取りがどうしても見つかりませんでした。そのために断片的な情報からシーズン展開を推測せざるを得なくなります。

まずなんですが、基本的に優勝争いは阪神大洋の2強展開だったようです。その大洋はオールスター前に球団記録の10連勝を挙げ、阪神とのゲーム差を6.5にしたと言う情報があります。これを信じれば64年のオールスターは7/20〜7/22に行われており、阪神の後半戦開始が7/25ですから、この時点で6.5ゲーム差だったと考えても良さそうです。ところが大洋はオールスター後に失速したようで、6連敗、7連敗と重ね8/9にはなんと阪神が首位に立っていたとなっています。この7/25〜8/9の間の阪神は10勝6敗ですから、大洋は9つぐらい負け越していた事になります。

ではそのままズルズル大洋が脱落したかと言えばそうではなさそうです。8月の阪神と言えば「死のロード」なんですが、この年は異様に好調で19勝7敗3分で大きく勝ち越しています。とくに8/26〜8/30には7連勝を飾っています。首位に立ったとされる8/5から8/31の間も11勝5敗3分ですから、かなりのハイペースと言えます。この阪神のペースと同様のペースで大洋も勝利を重ねていたと考えられます。つうのも阪神は9月に入って失速し、9/1〜9/18の間に6連敗を含み5勝11敗と負けが込んでしまいます。

阪神が6つの負け越しを記録しただけで首位は大洋になり、なおかつ3.5ゲーム差が開いているのですから、大洋もオールスター直後の不調を速やかに脱し、以降の8月は阪神並、9/18までも五分の勝ち星を残していないと辻褄が合いません。この年のペナントレースは9/30に終了(大洋は9/26)しますから、土壇場の阪神失速により大洋絶対有利の情勢になっていたのは間違いありません。でもって9/20からドラマが展開していくことになります。わかる範囲で表にしてみます。残り試合は阪神7試合、大洋6試合、綾は直接対決が4試合と言う展開です。

Date 阪神 勝率 大洋 勝率
9/20 6-1 大洋 川崎 74 56 4 .569 1-6 阪神 川崎 78 55 2 .586
2-1 大洋 川崎 75 56 4 .573 1-2 阪神 川崎 78 56 2 .582
9/23 巨人 79 56 2 .585
巨人 80 56 2 .588
9/26 5-0 大洋 甲子園 76 56 4 .576 0-5 阪神 甲子園 80 57 2 .584
3-2 大洋 甲子園 77 56 4 .579 2-3 阪神 甲子園 80 58 2 .580
9/29 7-5 国鉄 甲子園 78 56 4 .582
9/30 12-3 中日 甲子園 79 56 4 .585
4-1 中日 甲子園 80 56 4 .588


妙に細かい表ですが、奇跡の逆転優勝伝説みたいなものの検証をしたかっただけです。伝説と言うか、ある情報に大洋が9/23のダブルヘッダーの第1試合に勝った時点でマジック1が点灯し、第2試合にも勝ってマジックを1に減らしたとなっています。しかしそれは間違いで良さそうです。大洋は残り2試合に連敗して優勝を逃していますが、連敗相手はマジック対象チームの阪神であり、マジック対象チームにいくら負けてもマジックは減らないのはもちろんとして、消滅もしません。つかその時点でマジックは点灯しないと言うことです。


もう一つの伝説として、大洋が阪神との直接対決に一つでも引き分けていれば優勝していたと言うのもあります。これも間違いだったようです。簡単な算数で、阪神大洋戦に引き分けがあった時の最終勝率は、

チーム 勝率
阪神 79 56 5 .585
大洋 80 57 3 .583


ゲーム差はゼロになりますが、引き分け数の関係で阪神の最終勝率はやはり上回ります。つまり大洋が優勝するためには残り4試合のうち1つ勝つ必要があったと言うことです。優勝を直接争うチーム同士の対戦ですから、これに阪神が全部勝つというのは非常に厳しい条件であるのは言うまでもありませんが、引き分け一つでは阪神自力優勝する可能性はやはり残ったというところです。

最後の伝説は最終の140試合目に優勝を決めたです。これも間違いで、大洋とのダブルヘッダーに連勝した時点で阪神にマジック2が点灯する事になります。大洋戦の後に国鉄、中日と3試合残していますが、このうち2つに勝てば優勝と言うことです。現実には9/29に国鉄に勝ってマジック1とし、9/30の中日ダブルヘッダーの第1試合に勝った時点で優勝です。現実はさらに第2試合も勝って優勝していますが、これは負けていても優勝です。まあ、シーズン最終日の優勝ですから、ドラマチックであるのは間違いありません。

なにぶん半世紀も前のお話で、誰もの記憶が怪しくなっていたようです。それでも非常に厳しい条件を勝ち抜いての優勝である事に変わりはありません。


昭和は遠くなれにけり

シーズン終盤の熾烈な優勝争いの日程を見られて違和感を感じられた人はおられたでしょうか。どこに違和感があるかと言えば、シーズンが終わるのがエライ早いことです。当時は「そんなものだった」と思っただけかもしれませんが、そうではなくてこのシーズンは終了が早かったのです。理由は東京オリンピック。この文字通りの国家的大事業のために、オリンピック開幕までに日本シリーズも含めてプロ野球の全日程を終了させる事になっていたためです。

日本シリーズの日程も今から思えば無茶苦茶で、阪神が優勝をかけたダブルヘッダーを戦った翌日開幕です。これも本来は9/28開幕予定だったのですが、セ・リーグの優勝決定が9/30までずれ込んだためにそうなっています。う〜ん、この日程で胴上げはともかく、優勝パーティなんて出来たのでしょうか。まあ、やったとは思いますが、大変な日程だったと思います。この年の日本シリーズは10/1〜10/10まで行われたのですが、結局10/10までかかっています。これも7戦フルマッチになったからです。しかし優勝記事はほんの片隅だったとも言われています。そりゃ、五輪開幕とガッチャンしていますから、致し方ないと言ったところです。

この国家的事業の1964年の東京五輪から1970年の大阪万博、いや1972年の札幌五輪ぐらいまでが昭和の高度成長期の象徴みたいな時期と思い返しています。プロ野球に重ね合わせれば1965年から1973年まで続いた巨人の9連覇の時期として良いかもしれません。平成25年になって「古き良き昭和」とされる時代みたいな感じです。私だって幼年期から少年期の時代ですが、本当に昭和は遠くなったとシミジミ感じています。もう伝説と化している古い時代のお話におつきあい頂きありがとうございました。