閣下の足許にも及ばない

いつもの医師ですが今日は取り上げてみます。人が暮らしていくのにゼニカネは必要です。無けりゃ食っていけません。そのために効率よくゼニカネを集めたいと知恵を絞るのもこの社会ではあります。そりゃ、楽してゼニカネが手に入る事を嘆き悲しむ人間はさぞ少なかろうと思っています。逆に、これだけ働いているのに手に入るゼニカネが少なくてボヤいている人間はさぞ多かろうとも思っています。

このゼニカネを入手するのは行き抜くための手段であって目的ではありません。目的はあくまでも手に入れたゼニカネで暮らしていく事です。ただ、この世で何かしたいと思えば、ほぼゼニカネの代償が必要であり、多くの事をやりながら暮らそうと思えば多くのゼニカネが必要になる仕組みです。いわゆる「豊かな暮らし」を実現維持しようと思えば多くのゼニカネが必要になるので、本来は手段であるゼニカネ集めがほぼ「イコール」の意味合いで目的と同様に見なされている側面があります。

この辺のバランス感覚はヒトにより微妙なんですが、根本としてはゼニカネ集めはあくまでも手段であると認識している人は決して少なくないと思っています。ですから、あまりにゼニカネに拘る発言は感覚として多くの反発を受ける事が多くなっています。ゼニカネの話をする時はそれぐらいの感覚が一般的には求められます。


さて本論の感想ですが実に「殺伐たるもの」が浮かびます。こういう殺伐な感覚の人はこの世に一定数は確実におられます。こういう感覚の人も段階があって、

  1. 時にそういう事も考える
  2. 本音としてそういう事を思い続けている
  3. これこそ人生の真理と信じこみ、他人を説教する
1.程度は誰だって考える事はあると思います。ゼニカネ集めの重要性・困難性は社会経験が長くなるほど痛感しますから、そう思う瞬間があっても不思議とは思いません。逆にゼロって人の方が珍しいとは思っています。ただこの段階の人は、ある時期にそう考えても決して口外はしませんし、それ以前に口外しようとも思いません。

2.の段階の人も口外しないと言う点では同様かと思います。1.の人との違いは口外しなくとも行動に滲み出るところでしょうか。本音として持続しているわけですから行動に滲み出るのは当然です。その一方で他人に言うのは憚られる感覚ぐらいとすれば宜しいでしょうか。3.になれば・・・もう醜悪です。もちろん個人の信念ですから自由ではありますが、個人的にはお付き合いしたいとは思いません。一緒に仕事するとなるとウンザリします。そういう存在だと言う事です。


物事をゼニカネに落とし込んで喩える論法はわかりやすいのは確かです。ただゼニカネの基本認識は上記したような点があり、判りやすい比喩になる代わりに悪臭が伴います。使う時にはその点の認識に非常な注意が必要です。もう少し言えば、その点の認識と注意が備わっていない人間は安易に用いるべきものではないと考えています。そうでない人間が使うと「殺伐たるもの」にしかならないのは紹介したリンク先の通りです。

人生経験は長ければ無条件に良いというものではありませんが、短いと見えないものがあるのは間違いありません。経験がないと知りようがないものが多数あるのが人生であり社会であると言う事です。ほんの断片で社会のすべてを見た様な気になる事が、人生の瞬間、瞬間にはありますが、後になっていかに薄っぺらな理解であったかを知るのが人生経験と思っています。人生経験を重ねないと、社会のそういう奥深さ、複雑さを知る事は出来ませんし、知る事によって安易な単純化はしなくなるのが人生経験と考えています。

ゼニカネは人生に最後までつきまとうものであり、どう付き合っていくかは大きなテーマです。ある時期はゼニカネこそ人生のすべてと思い込んでしまう時期が出ても仕方がない部分もありますが、「それがすべてではない」とやがて悟ると言う事です。綺麗事みたいですし、私だってゼニカネは欲しいかと言われれば素直にイエスとは答えます。それでも「必要不可欠であるが、それがすべてではない」のが人生と思っています。


これまで幾度か閣下についての批評を行っていますが、閣下とこの医師ではレベルが違いすぎます。後20年もすれば閣下に少しは近づく事が出来るかもしれませんが、現時点では余りにも遠すぎるレベルとさせて頂いて宜しいかと思います。まあ、今の時点では遠すぎてお話にもならないぐらいでしょうか。