ネタガレ歴史閑話

中国4000年の歴史は枕詞で良く使われますが、紀元前2000年前からになります。エジプトとかメソポタミアはそれ以上ですからあっても不思議は必ずしもないのですが、私の高校時代では殷(商)が最古の文明とされ、それ以前は神話時代となっていました。当時の中国は文化大革命とかの後の混乱のさなかでしたから、考古学的な発掘まで手が及んでいなかったと思っています。

ただ中国はさすがに文の国で商より前の王朝も連綿と記録されています。ざっとですが

    三皇五帝 → 夏 → 商 → 周 → 春秋 → 戦国 → 秦
こんな感じです。私の高校時代より前は商までが神話時代で周からが歴史とされていた時代もあったようです。これが殷墟の発見で商までが歴史に昇格していました。ただ史書の夏商革命の記述は神話にしては妙にリアルで、個人的に夏は存在していたんじゃないかと思っていました。たとえば春秋時代の人である孔子は暦として夏暦の方が優れている云々の記述をしていたはずです。

そんな夏の遺跡がどうも発見されておるようです。中国では2000年時点で既に確定と発表されているようですが、2005年1月1日付日経に

 司馬遷の『史記』などに伝承的な記述が残るだけの夏王朝の年代推定は、次のようにして行なわれた。
 まず、夏王朝最後の都・二里頭の出土品を放射性炭素年代測定し、夏から商(殷)への王朝交代時期をおよそ前1600年と決定。
 次に夏王朝の存続期間を、戦国時代の墓から出土した編年史『竹書紀年』に基づいて471年と推定。
 これらから、夏王朝開闢時を、−1600−471≒−2070 として、およそ前2070年とした。

 また、新砦遺跡が第2代夏王・啓の都であるという推定は、次のように成された。
 遺跡からの出土品の放射性炭素年代は、前1900年から前1750年と測定された。これに基づき、中国社会科学院考古研究所副研究員の趙青春は、遺跡の構築時期を前2000〜前1900年と推定。

 趙はさらに、『竹書紀年』に、夏王朝初代王の禹の在位年数が45年、その子・啓の在位が39年で78歳で亡くなったとあることに注目。禹が前2070年頃に即位したなら、啓が跡を継いだのは前2025年頃、啓が退位したのは前1986年頃となる。

 つまり、放射性絶対年代による新砦の都城遺跡建設の時期は、啓王の在位年代と重なるので、新砦が啓の王城である可能性は極めて強いとの推論が導き出されたのである。

日経記事から既に8年が経過しているので新たな発見が付け加えられているかもしれませんがロジックとして、

  1. 夏王朝終焉時の都と推定される二里頭出土品の放射性炭素年代測定により紀元前1600年頃と推定
  2. 竹書紀年から夏王朝の存続期間を471年間と推定
  3. 従って夏王朝は紀元前2070年頃となる
二里頭文化とは

 1984年から、北京大学歴史系考古教研室が魯西南渮澤地方・豫東商丘地方を調査し、渮澤安邱堌堆・夏邑清涼山遺址を発掘しました。1981年〜87年、北京大学歴史系考古教研室が豫北の新郷と安陽地方を調査し、修武李固・温県北平皋・淇県宋爻遺址を発掘しました。

 そして、豫北地方が漳河型先商文化と二里頭文化の隣接地帯であることを発見し、二里頭文化期には、漳河型先商文化・岳石文化・二里頭文化の三者黄河中・下流域で鼎立していたことが解明されました。

 二里岡下層期には漳河型先商文化が南下を開始し、まず西の二里頭文化に取って代わりました。二里岡上層期には東の岳石文化に取って代わりました。
 この状況は、ちょうど殷(商)が夏を滅ぼした史事と符合します。二里岡文化が早商文化であり、二里頭文化が夏文化であることが歴史的にも地理的にも証明されることに(北京大学考古学系副教授 劉緒・徐天進「三代文明の探索」『中国の考古学展』平凡社 1995)なります。

 河南省偃師県二里頭遺址は、洛陽の東隣の偃師県で、1950年代終り、徐旭生(著書に『中国古代史の伝説時代』)が発見(『考古』1959-11)しました。殷王朝に匹敵する規模の大建築群の宮殿・住居・墓が見つかりました。

 文字資料が未発見ですが、この文化を四期に分類しています。そして、二期が夏で、以下は殷に入る(『華夏考古』1991-2)とされます。同じ『華夏考古』の1987-2号では、三期までが夏とありました。

真偽は神戸にいても確かめようもありませんが、

    二里岡文化が早商文化であり、二里頭文化が夏文化であることが歴史的にも地理的にも証明
要は夏の後の商の宮殿に匹敵する大規模な遺跡が発掘され、商の前の夏の文化と商の早期の文化が混在するので地理的にも史書的にもこの遺跡は夏時代の王都の遺跡であると認定されているようです。この夏文化から商文化への変遷時期が紀元前1600年前と言う事が放射性炭素元素による年代測定でも裏付けられているてな話のようです。


さてこの二里頭遺跡はどうやら夏の晩期の王都だったようです。晩期と言う事は桀王(帝辛)が君臨し箕子や折檻の故事成語を残した比干が濶歩していた事になります。鳴條の決戦にもここから出陣したんでしょうか。ただ夏の王都は何度か変わった事になっています。その初期の都として注目されているのが新砦遺跡のようです。この遺跡は、

新砦遺跡は総面積70〜100km2、大宮殿や城壁があり、最大の建物跡は奥行き50m、幅14.5mで、夏代の宮殿としては最大スケールであるという。

10キロ四方ぐらいの広大なものだそうです。この遺跡の放射性炭素元素測定の結果が紀元前1750年前から1900年ぐらいになるそうです。ここで夏の初代の王である禹王が出てきます。竹書紀年には初代の禹王が45年、益を挟んで啓王が39年で啓王の死は紀元前1996年頃になるとしています。若干の差は残りますが、新砦遺跡は伝説の釣台になるんじゃなかろうかの推測です。


もちろんですが二里頭文化が史書の夏に当たるかどうかについては議論は残るそうです。今確実に言えるのは、史書に残る時代に一致する年代の遺跡が確認されているが相応しいとする説もあるようです。その辺は今後の調査に委ねられると思いますが、紀元前2000年頃に確実に都市国家文化があったのだけは言っても良いと思います。

それと啓王やさらに禹王に匹敵する時代に文化があるのなら、三皇五帝のうち尭舜時代は目前です。そりゃ史書では禹王の前が尭舜時代だからです。ですから史書の記録にどれほどの後世の脚色があるかは不明としても、伝説の題材になる実話が創作ではなく実話として存在していた可能性もありそうです。



中国の文字の発明は商の高宗武丁の伝説があります。これまた伝説ですが高宗武丁は音を発することが出来ず、政治の意志を伝えるために文字を必要としたためなんて話になっています。これは完全に伝説で高宗武丁の時代の前から文字は存在します。ただ伝説にはある程度の真実も時に含まれています。私が考えるに政治に文字を大々的に導入したのが高宗武丁ではなかったろうかです。

これが感覚としてわかりにくいのですが、古代世界で貴族や知識人とされた人間は文字を必ずしも覚えなかったとされます。知識は口伝によって覚えるものとされ、ソクラテスも文字を知らなかったと言う説さえあります。では文字を必要としたのは誰かになりますが、それは商売人です。古代でも契約とか証文の概念はあり、また商品管理や、市場状況を伝えるのに文字は必要だったからとされています。想像ですが文字は商売人の実用道具で「高貴」とされる人々は卑しんだぐらいなのかもしれません。

ここで興味深いのは国号です。商はそのまま現在の商人、すなわち「商い」につながるとされています。夏も「賈」に由来するという説があり、夏も商も商売に関係した国号と見ることが出来ます。つまりは貿易国家の側面もありそうなところです。国家の側面が貿易国家なら文字への親和性は高いんじゃないかです。

高宗武丁が行ったのは、それまで各地・各国でバラバラに用いられていた文字の統一事業だったと見れそうな気がします。文字はその点で不思議なところがあり、日本でもかつては(一部は今でも)話し言葉である方言では通じなくとも文字は共通して通じていた側面があります。現代中国でも話し言葉はかなり異なっても文字は共通していると見る事はできます。文字が共通であるのは現在では当たり前ですが、古代では文字も方言が乱立していたとしても不思議ないと思います。

商の前の夏王朝でも当然文字が使われており、政治に文字が使われていれば布告などに使われるのはもちろんですが記録にも使われ、さらに国家伝説にも使われても不思議ありません。日本でも古事記日本書紀などが作られています。夏王朝でも当然ですがそういう歴史書みたいなものが作られていても不思議でもなんでもないと見ます。


中国王朝は基本的に易姓革命により継承されています。「易姓」なんてもったいぶらなくとも武力による政権交代で良いのですが、夏王朝だけは尭舜からの禅譲となっています。尭舜より前になると完全に神話フェーズになります。ここから中国最初の王朝が夏であったと見るのも一つですが、遺跡の規模から見ると夏の前もあったんじゃなかろうかの疑念が出てきます。夏もまた血塗られた王朝交代により誕生していた可能性です。ただこれを記録する時に美化し、日本の天孫降臨伝説ではありませんが、平和裡に王朝が成立したと記録したんじゃなかろうかです。

古代中国の王は祭政一致の象徴であり、人より神に近い存在としての宗教性も必要でしたから聖人の子孫であるのも政治として必要と考えるからです。夏王朝が本当に500年近くも続いていたら、それ以前の記憶や記録は完全に失われてしまっても不思議ないと思います。文字が存在すると言っても現在の日本のように全国民が誰でも書け、誰でも読めるものではなく、また紙のような便利な記録媒体もなかったからです。

夏の後の商は永遠にも思われる長さの王朝を倒してのものですから、夏時代の歴史は夏時代の記録を利用する他はなく、また夏がやったように前時代の王朝を記憶と記録から抹殺するのが出来なかったためとも見れます。そこで商が捻くりだした発明が易姓革命だったのかもしれません。以後延々と中国ではこの手法が基本的に受け継がれます。


中国人の記録好きは歴史的に有名ですが、結果として夏以前の記録は完全に失われ、忘れ去られてしまった仮説も成立しそうに思います。夏も500年ぐらい続いた事になっていますが、商はさらに長くて600年ぐらい続いたとなっています。これを信じれば現在に続く記録がやっと残り始める春秋時代は1000年以上も後の話になります。1000年以上も後に1000年前の歴史を調べようと思っても、記録に残っていたのは夏時代の記録を転写した商時代の記録をさらに転写したものしかなかったんじゃなかろうかです。

春秋時代の記録もこれをさらに転写したものの断片が残る程度が殆んどですし、当時の人間にとっても1000年なんて言われても気が遠くなるほど遠い記憶だったと思います。だからどうした程度のお話ですが、夏の啓王の釣台があったのなら、史書の中の中国神話時代は神話でなく実話に異様に近づいてしまいます。ひょっとしたらこれからの発掘調査で夏より前の謎の王朝遺跡が出てくるんじゃなかろうかの歴史ロマンを妄想しています。

今週はこれで打ち止めで、土曜日は休載にさせて頂きますので悪しからずです。