ちょっと反省

既製マスコミの閉鎖性と言うか、既得権の象徴の一つとして記者クラブ制度の因習を何度か書いています。基本は誤っていないと今でも考えてはいますが、どうも話は単純なものではないと思い返しています。記者クラブ制度を廃止すれば誰が流入してくるかです。誰でも流入は建前上できるかもしれませんが、やはり専業の人が中心になると考えるのが自然です。いわゆるフリージャーナリスト(フリーと略します)です。

「いわゆる」としたのは、ジャーナリスト自体は自称業で誰でも今日からでもなれるのですが、この業界は面白い慣行があるようで、ジャーナリストを廃業宣言してもジャーナリストと同様のお仕事をされている方もおられるからです。ジャーナリストを自称している人と、ジャーナリストの自称をやめた人の間にどんな差があるのか外野からはサッパリわかりませんので、「いわゆる」で括らせて頂きます。


フリーは自営業ですから、売れている人が勝ち組で、売れている人は知名度が高いと単純に解釈しています。無名だが売れているなんて事はまずありえない世界ぐらいです。業界の構造として知名度の高い売れている勝ち組が限られた数だけ君臨し、その他大勢がその日の食事を心配しながらのし上がろうとしのぎを削っているみたいな印象です。芸能界に似ているかもしれません。構図として、

    知名度 = 仕事量 = 収入 = 勝ち組
限られた勝ち組に入るためには競争があり、常識的には競争の過程で質の悪いものを排除するメカニズムが働きそうなものです。でも必ずしもそうでない気がしています。たとえば池田信夫氏とペンでなく訴訟で争っている方とか、医師から程度の低さに呆れ返られている方々とかも知名度の高さからするとフリーの勝ち組のはずです。これじゃ寂しいので具体的にもう1人、この方もまたそうです。端的な評価はやまもといちろうBLOGがシンプルにまとめられているので紹介しておきますが、

 そこに広がっているのは、烏賀陽さんの発言一個一個や通しで読んだ場合の矛盾する箇所など、いちいち突っ込んだら敗北が確定してしまうという修羅の世界です。間違っても「レンタカー壊されたんなら写真アップしろよ」とか「早く被害届出せ」などと反応してはいけません。闇は覗き込む者を覗き返しているのです。この烏賀陽ワールドに入り込んだ者は、精神的にいろんなものを毟られて裸一貫で帰ることになる、それを覚悟しなければなりません。

2つのリンク先を読みながら心の底から思ったのは、

    なんでこんなチャチな手法で勝ち組に君臨できるんだ?
小一時間ほど考えてみたのですが、根本的なところで私は勘違いをしているんじゃなかろうかと感じています。日本の場合(海外は良く存じません)、フリーと勤務ジャーナリストの間には明瞭な一線が引かれます。今回は枕に記者クラブを出しましたからこれを使うと、フリーは記者クラブ主宰の記者会見には参加できません。それ以外の取材記事で食い扶持を探す必要があります。

これも業界事情に詳しくないから推測ですが、フリーが記事を売り込むところにも大概は勤務ジャーナリストがいるはずです。フリーは勤務ジャーナリストがカバーできない分野に特化して市場を確保しているんじゃなかろうかです。この辺は棲み分けですからそうなるのは不思議とは言えませんが、勤務ジャーナリストが手を出さない分野は大衆的と言うか、なんと言うか、記事を買う方からすれば注文は質よりも何よりも、

    とにかく強烈な刺激が欲しい
地味だが質が良い上品な記事を売り込んでいたのでは、余ほどの知名度と質がなければ飯の食い上げになるぐらいのところです。根拠が薄弱であろうが、場合によってはでっち上げ同然であっても、とにかく刺激の強い記事が求められる分野で勝ち組競争を繰り広げられていたのじゃなかろうかです。フリーの勝ち組への競争条件は、
  1. いかに煽情的であるか
  2. いかに刺激的であるか
こういう記事売り込み競争を勝ち抜いた者がフリーの勝ち組の一つの本質のような気がします。これだけでなく、注文主の意向に忠実である事も必要かもしれません。ここも微妙で、意向に忠実ぐらいなら競争に負けますから、注文主の意向をどれだけ上回るものを記事に盛り込めるかが勝負の分かれ目なのかもしれません。どんな業界であろうとも、食べる事、勝ち組になるのは並大抵のものではないと言うところでしょうか。

とは言うものの、そうそう刺激も煽情も取材対象に乏しい事も多々あると思います。実際に取材してみれば、まったく様相が違っており、ありのままを書けば注文主の意向や期待をまったく満たさないケースです。そうなれば見たまま書くのがジャーナリストの倫理だと思わないでもありませんが、そんな甘い事を言っていたら、おそらく勤務ジャーナリストさえ勤まらないと考えられます。つうかそこからが実力が試される業界じゃなかろうかと思っています。そうですねぇ、

    有りのままを書くだけなら小学生の学級新聞と同じだ。無から有を作り上げてこそ本当のプロだ!
業界に入った頃は真実との乖離に良心を悩ました事もあったかもしれませんが、そんな事では篩い落とされます。競争に勝ち抜いた者は
    自分の記事こそ真実のすべてである
こう自然に確信できるようになっておられる気がしています。いやそう確信できる人が生き残れる確率が高い業界の気がします。これもお断りしておきますが、フリーの全員がそうだと言ってはいません。そうですねぇ、こういう手法でも勝ち抜く事が出来る、またはそういう需要がフリーに確実にあり、その部門の勝ち組も少なからずおられそうだぐらいです。なおかつ良くお目立ちになられる傾向があり、まるでフリーの象徴のような印象を植え付けても下さるです。



でもって冒頭の話に戻るのですが、記者クラブ制度はそれこそのガラパゴスとして宜しくないのは大前提として良いかと今でも考えています。それでは廃止してフリーが流れ込んだら質が果たして改善するだろうかです。フリーにももちろん質の良い方もおられますが、一方で石や瓦礫も相当ありそうに感じています。差引勘定ははたしてどうなんだろうと言うところです。それでもまず開かないと話は始まらないのも確かですが、やはりジャーナリスト全体の問題も十分に考慮しておく必要があると感じた次第です。

少なくとも記者クラブさえ撤廃すればすべては劇的に良くなるのお花畑的な単純発想は宜しくなさそうに思っています。かつてそういう底の浅い発想で主張していた事をちょっと反省しておきたいところです。記者クラブがもし撤廃されればそれは前進であっても、一方で物凄い「痛み」もまたありそうだぐらいのお話でした。今さらながら「勤務ジャーナリスト = 悪、フリージャーナリスト = 善」なんて無邪気な前提は危険すぎるです。

たぶんですが、記者クラブ制度の撤廃と同時進行で求められるのは、良質のジャーナリストである方が業界サバイバルとして有利になるような業界の体質改善の様に思っています。ま、その辺は業界内の事なのでこれ以上はよくわかりません。