流星の貴公子・クモワカ編

競馬はハイセイコーで関心を持ちテンポイントで終っています。とくにテンポイントについては興味があって、随分前(ブログを書く前)にも書こうと思ったことがあります。そのために資料調べをしていると実に詳細かつ良く書けたHPを見つけてしまい、それ以上のものは書けないと断念しています。ところがそのHPはどうしても見つける事が出来ません。私の探し方が悪いのか、無くなってしまったのかは不明です。

それならば書いてみてもエエかと思います。幻のHPに負けないように頑張って書いてみます。今日はテンポイントの祖母に当たるクモワカ編で、巨大なプロローグになっています。


伝貧事件

クモワカは1950.10.21にデビューし、32戦11勝。クラシックは勝っていませんが、桜花賞2着、菊花賞4着の名牝とされています。古馬となったクモワカを襲った奇禍とは、お手軽にwikipediaより、

クモワカは1952年の夏に体調を崩し発熱した。クモワカを診察した京都競馬場の獣医師は馬伝染性貧血(伝貧)と診断し、それを受けて京都府知事の蜷川虎三家畜伝染病予防法第17条により同年12月に同月末までに殺処分を行う旨の通告を出した。しかし伝貧に感染しているという決定的な証拠は現れず、さらに隔離用の厩舎にいたクモワカの健康状態は日を追うごとに回復を見せていたことから厩舎関係者は感染していないのではないかと疑うようになった。馬主の山本谷五郎はクモワカを試験治療用の学術研究馬にしてほしいと京都府に要望し、その結果殺処分は延期され引き続き隔離厩舎に置かれることとなった。

馬伝染性貧血は馬特有のウイルス性疾患で、予防も治療法も無く今も恐れられている病気です。あえて喩えれば口蹄疫みたいなものでしょうか。実は流布されていた伝説では殺処分通告に対し、症状からそうでないと確信した関係者がクモワカを惜しみ、これを密かに北海道に移し匿ったと言うのが多いです。ところがwikipediaではそうではなく

    馬主の山本谷五郎はクモワカを試験治療用の学術研究馬にしてほしいと京都府に要望し、その結果殺処分は延期され引き続き隔離厩舎に置かれることとなった。
競走馬から学術用研究馬に登録変更の要望を出し殺処分の延長を認められたとなっています。この後は、

1955年9月、クモワカ陣営は京都府から隔離厩舎改築のため同馬を移動させるよう要請され、北海道早来町の吉田牧場へ移送した。通常競走馬の移送には移動証明書が必要であるにもかかわらずクモワカは証明書なしに移送されたことから行政の目を盗んで密かに移送されたともいわれたが、山本によると実際には京都府がクモワカは競走馬ではなく一般の馬であるから獣医師の証明書のみで移送可能と解釈上の便宜を図ったことで移送が実現した。

別に密かに北海道にクモワカを移送したわけでなく、競走馬から学術研究用の馬になったのだから、交渉はあったにせよ正式に移送したらしいとなっています。wikipediaが必ずしも正しいとは限りませんが、伝説とはチト違う様相が書かれています。もっとも、

    解釈上の便宜を図ったことで移送が実現した
この辺の経緯が必ずしもスムーズに言ったかどうかは不明で、実質として密かに北海道に移送して匿うようなものだったのかもしれません。と言うのも、この学術用の研究馬として殺処分を延長された件の「延長」が後で問題を引き起こす事になります。ここら辺の経緯がもう一つはっきりしないのですが、オーナーはクモワカを惜しんだようで、クモワカである事を伏せて(かどうかも不明)1956年8月に血統名である「丘高」の名で軽種馬登録協会に登録申請しこれを受理されています。しかし1958年に軽種馬登録協会は「丘高 = クモワカ」である事を突き止め、殺処分の出ている馬の登録の取消を通告してきます。オーナーの山本谷五郎は、

山本はこの処分に反発し、知事による殺処分通告を取り消すよう京都府に働きかけ、1959年3月に蜷川は「再検査の結果陰性と認められた」として取り消し通知を出した。

やっとこさ1959年3月に馬伝染性貧血の殺処分通告の取り消しに成功しています。これで一件落着と思いきや、軽種馬登録協会はクモワカは一度陽性と診断されており再発の可能性もあり登録は認められないとしたのです。この後は法廷闘争にもなり、これも一審ではまずクモワカ側が敗れ、二審係争中に馬主や競走馬生産者(たぶん軽種馬登録協会の協会員と思ってます)から声が上り、1963年9月にクモワカの正式の登録が認められ決着となっています。

事の発端は1952年夏の京都競馬場ですから、実に11年間もの長い争いであった事になります。クモワカを巡る伝貧事件を年表にまとめておくと、

年月 経緯
1952年夏 京都競馬場馬伝染性貧血を疑われる
1952年12月 京都府知事から殺処分通告
1953年初め 学術用研究馬に登録変更の上、北海道に移送
1957年1月 「丘高」の名で軽種馬登録
1958年 「丘高 = クモワカ」を理由に登録取消
1959年3月 再検査で陰性確認。殺処分取消。以後法廷闘争
1963年9月 軽種馬登録を認められる


クモワカの産駒は10頭ですが、都合35勝、その中には桜花賞馬のワカクモ(テンポイントの母)も含まれる事になります。オーナーの山本谷五郎の目は正しかったとしても良いでしょう。またオーナーの山本谷五郎の執念がなければテンポイントの母であるワカクモは生れず、もちろんテンポイントも生れなかった事になります。

ここからテンポイントの話に素直に雪崩れ込んでも良いのですが、なぜにオーナーの山本谷五郎がクモワカ保護にこれだけ熱心であったかの背景らしきものを今日はテーマにします。そうそうクモワカの画像はないかと探し回ったのですが、残念ながら私の手では発見できなかった事を遺憾とさせて頂きます。


血統

サラブレッドは「血で走る」と言われるほど血統が重視されますが、クモワカも華麗な血統があります。血統を全部辿ると膨大になるのでwikipediaで手軽に調べられた分だけ簡単に紹介しておきます。クモワカは父・セフト、母・月丘で、母・月丘の父はSir Gallahad、母は星若です。サラブレッドの血統学には疎いのですが、日本のサラブレッドの系譜で星若と言うか、星若の血統が大きな意味があるようです。星若はクモワカの祖母にあたり、テンポイントの高祖母になります。アメリカからの輸入馬で英名はIma Babyです。このIma Babyのさらに先(父系です)を手繰ると、

    Ima Baby → Peter Pan → Commando → Domino → Himyar → Alarm → Eclipse II → Orlando → Touchstone → Camel → Whalebone → Waxy → Pot 8O's → Eclipse
まだまだ続くのですがEclipseが遠祖であるぐらいで十分かと思います。EclipseからOrlandoまではイギリス競馬で活躍するのですが、Eclipse IIについてはwikipediaにも詳述は無く、単にイギリス産となっています。なんとなく種牡馬としてアメリカが輸入したんじゃないかと推測しています。Eclipse IIの子であるAlarmについても詳述は無く単にアメリカ産である事がわかるだけです。アメリカで足跡を残しだすのはその子であるHimyarからのようです。

たぶん時代でしょうがHimyarが主戦場としたのはアメリカ中西部に限られたようで、中西部では27戦14勝の成績を収めていますが、全米レベルでの能力比較は不明とはなっています。ただ産駒のうちDominoとPlauditがとくに秀で、とくにDominoは25戦19勝で「アメリカ競馬史上有数の快速馬」として知られさらに「黒い旋風 (The Black Whirlwind) 」と呼ばれたとなっています。おそらくDominoの活躍からと考えますが、Himyar系と言うのがアメリカで傍流であっても定着するようになったと見れそうな気がします。このDominoもまた種牡馬として凄かったようで、

産駒はわずか2世代20頭(うち1頭はすぐに死亡)だったが、その中の1頭コマンドがベルモントステークスに、キャップアンドベルに至ってはイギリスのオークスに優勝した。驚くべきは活躍馬の割合で、8頭がステークスウィナーになった。勝ち馬は出走した17頭中15頭であった。

Dominoの代表的産駒とされるのがCommandoで、ターフでは故障もあって9戦7勝ですが種牡馬としての実績がDominoに匹敵し、

残した産駒は4世代のわずか27頭しかいなかった。しかしこの中からコリン、ピーターパン、ケルトらが活躍し、1907年にはアメリカチャンピオンサイアーにまでなった。産駒27頭中出走馬は19頭、そのうち勝ち馬は16頭、ステークスウィナーは10頭。驚異的な質の高さだった。未出走のアルティマスも種牡馬として成功した。

Commandoの最優秀産駒は15戦無敗の名馬Colinで良いと思われますが、Colinは種牡馬と大成しなかったようです。クモワカに関係するのはPeter Panになります。Peter Panも凄い馬だったようで、ターフでは17戦10勝で、

アメリカでは1940年より、本馬を記念した重賞競走・ピーターパンステークスが施行されている。

さらに種牡馬としては

産駒は早熟傾向が強く、競走成績においては牝馬の方がより顕著な成績を残したが、牡駒も種牡馬となって成功を収め、特にペナント (Pennant) とブラックトニー (Black Toney) が多くの活躍馬を送り出した。2年連続のアメリ年度代表馬を受賞したペナント産駒エクイポイズ (Equipoise) を筆頭に、一時その父系は広がりを見せたが、今日では衰退している。しかしブルードメアサイアーとしても大きな実績を挙げており、母系にその血統が受け継がれている。

このPeter Panの子供がクモワカの祖母であるIma Baby(星若)になるわけです。


下総御料牧場

クモワカの華麗な血統の系譜を紹介しましたが、たぶんですが殆んどのサラブレッドは同じぐらい華麗な血統系譜を持っていると思います。理由は単純で種牡馬とか種牝馬になれるのは優秀なターフでの戦績を残したものか、その子供ぐらいに限られるからです。それ以外のサラブレッドは基本的に排除されるのが競馬の世界です。どの馬も先祖を辿ればそれなりに華麗な系譜をもっているだろうです。それでもクモワカの系譜は日本の競馬ではやや違う重みがあった気がします。

サラブレッドは血統が重視されるのですが、日本の競馬の草創期も外国の血統馬を輸入していたようです。しかしどうも長い間、血統馬を輸入はしても新たな血統を育てると言うか、広め定着させる点について日本は不十分な時代があったようです。この辺は技術とか、資金とか、文化的な背景もあったとは思いますが、そうであったと言われています。


草創期の状況は雲をつかむようなお話ですが、1906年に公認競馬が始まったとなっています。この時の馬券は黙認みたいなものだったらしいですが、1908年に賭博は好ましくないと馬券販売が禁止されてしまったようです。これで馬産地は大きな打撃を受けたようですが、当時の馬産は単なる競走馬だけではなく軍馬供給の面もありました。サラブレッドは軍馬になりにくい気がしますが、馬産地自体が衰退すると軍としても困るぐらいでしょうか。そこで1923年7月に旧競馬法が施行され、馬券発行を含む競馬が再開されたようです。

当時の競走馬育成のおもしろい所は、民間牧場ももちちろん育成していたのですが、官営牧場もあったというところです。この官営牧場も当初は民間牧場から供給されていた馬を育成したようですが、官営牧場も独自に競走馬を育成すべきだの声が高まったようです。そういう強化育成施設になったのが、

管轄からも名前からも皇室直営牧場がサラブレッドの育成をやっていた事になります。もちろん英国王室に立派な先例があるわけですから、それにならったってところでしょう。ここで画期的だったのは、従来は輸入先は欧米、とくにイギリスが中心だったようですが、この時に御料牧場が輸入したのはアメリカ馬だった事です。ここも正確でなく最初の1926年の2頭(種正、種直)、1927年の1頭(トウルソウル)はイギリスからだったようですが、次の1931年と1932年に6頭がアメリカからになっています。名前は、

星旗、星若、星濱、星谷、星富、星友

イギリスからの3頭もそうですが、アメリカからの6頭もその産駒は大活躍する事になります。これも理由はよく分からないのですがトウルソウル以外はすべて牝馬で、これら8頭の系譜は

牝馬の系統は日本の生産界に浸透し前述の8頭は今日、在来日本産馬の重要基礎牝馬群のひとつとして認知されている。

クモワカの祖母の星若(Ima Baby)は皇室の御料馬だったわけです。またそれだけでなく、下総御料牧場の産駒は当時の競馬界を席捲しただけでなく、その後の日本のサラブレッドの血の源流になったわけです。今でもそうですから、星若の孫のクモハタが活躍している頃には相当珍重と言うか、貴重品扱いされていた気がします。だからこそオーナーの山本谷五郎があれだけ執念を燃やしたんじゃなかろうかです。


ワカクモ
クモワカの娘ワカクモ
母のクモワカは伝貧騒動で登録がなかなか出来ず、その産駒も同様の扱いでしたが、1963年生れのワカクモから出生時から登録された馬になります。ワカクモは母のクモワカが2着だった桜花賞を制するなど活躍しましたが、通算では53戦11勝となっています。桜花賞馬なので一流とは言えると思いますが、非常に気の難しい馬で調教にも手を焼かされたとなっています。

そのためか快走する時と下位に沈む時がある程度分かれる結果になったようで、なおかつ期待されながら下位に沈む事が多かった戦績となっています。それが理由かどうかは不明ですが、クラシックホースにも関らずローカルレースへの参加が多かったともなっています。ワカクモは1969年に引退し繁殖牝馬となり1973年4月19日にコントライトを父としてテンポイントを生み出します。


はぁ、はぁ、はぁ、ここまででクモワカ編はやっと終了です。いつもながらの長い長いプロローグでしたが、明日はやっとテンポイントが登場してきます。