エミの青春:父の怒り

 今日は市内の乗馬クラブ対抗の障害飛越。

 「エミ、覚悟しときなさい。今日のお父ちゃんは愚痴りまくるわよ」

 結果は目に見えてて、うちのクラブじゃ優勝を争うどころか、完走が出来るかどうかレベルだものね。

 「わかってますよ。エミもちゃんと付き合います」

 普段のお父ちゃんは温厚と言うより、大らかで楽しい人。怒った顔を見る方が珍しいぐらいで、エミなんか一度も怒られた記憶がないくらい。競技会で勝てないのも、そもそも馬も騎手のレベルも段違いなのはもちろんだけど、とにかく慎重なのよね。口癖のように、

 『馬は楽しむもんで、怪我するもんやない』

 そんなことじゃ、永久に甲陵に勝てない気もするけど、指導が丁寧って評判はあるのはあるんだ。だからこういう時はお母ちゃんと一緒に聞き役に回ってあげるんだ。前はウンザリしてたけど、今のお父ちゃんは違うよ。エミにとって一番大切な人。


 でも今夜は違った。明らかに違った。目が完全に据わってる。どれだけの怒りを体の中に溜め込んでるのがわからないぐらいのオーラが出まくってる。こりゃ、愚痴じゃなくて怒鳴りまくるんじゃないかと思ったのだけど、

 「お母ちゃん、エミ。悪いけど乗馬クラブは終りや」

 ここまで苦労して作り上げた、お父ちゃんの城を終りにするって、どういうこと。

 「今日ばかりは、勘弁できんかった」

 いっつもしてるように思えないけど、

 「オレがいくら侮辱されても、オレさえ我慢すればエエこっちゃ」

 その代り、愚痴をこぼしまくるけど、

 「あいつはお母ちゃんとエミを侮辱しよった。これだけは絶対に許せん」

 黒田は、

 『馬は血統や。駄馬は駄馬しか生まん。お前のとこの子みたいなもんや』

 こう言い放ったみたいなのよ。お父ちゃんは駄馬って言葉が大嫌いだけど、

 「お母ちゃんのことを駄馬と言っただけやあらへん、エミまで駄馬って抜かしよってんや。あん時にマシンガンもってたら、ハチの巣にしてやったのに」

 それと乗馬クラブをやめるのとは関係ないと思ったけど、

 「黒田のとこと名誉を懸けて団体戦をやる事に決まった」
 「えっ、甲陵と」
 「そうや。馬のハンデはないように貸与馬戦や」

 貸与馬戦なら、馬のハンデはなくなるけど、騎手の差が大きすぎるんじゃ、

 「種目は障害飛越、それも大障害のAや」
 「大障害だって!」

 大障害ってのは障害飛越でも最高難度で、それのAともなったら、世界選手権やオリンピッククラス。

 「そんな無茶な」
 「お母ちゃんとエミを侮辱されて引き下がれるかい」

 でもさぁ、でもさぁ、賭けるのは名誉じゃない。

 「そうや、別にこのクラブを直接賭けてるわけやない。ただやけど、負けたらクラブの名前がクソ駄馬クラブに変えなあかん」
 「クソ駄馬クラブ!」
 「お母ちゃんとエミの名誉懸けて戦って、そんな不名誉なもんは受け入れられん」

 なんて無茶苦茶な。

 「悪いが勝ち目無しや」

 そうとしか言いようがないけど。そしたらお母ちゃんの顔色が完全に変わってた。

 「いえ必ず勝ちます。正義が悪に負けることなどあり得るはずがありません。石に噛りついても勝ちます」

 お父ちゃんが寝た後もお母ちゃんは興奮が収まらないみたいだった。

 「お父ちゃんは、お母ちゃんのため、エミのために無謀な勝負をあえて受けたのよ。これは黒田に直接リベンジする機会を天から与えられたに違いないわ。お母ちゃんはね、どんな手段を使ってでもお父ちゃんに勝たせてみせる」
 「そりゃ、勝ちたいけど甲陵相手に大障害で団体戦だよ。そもそも大障害飛べる騎手すらいないじゃない」
 「問題はそこよね」

 そこじゃなくて、そこに尽きるんだけど。この団体戦の噂はクラブ内にも広がったのよね。お父ちゃんはさっそく百六十センチの垂直障害を作ったけど、あれは障害と言うより壁じゃない。

 「お母ちゃん、あれを飛ぶっていうの」
 「見ときなさい、うちの人なら飛んでみせる」

 お母ちゃんの願いも虚しく、うちの馬じゃ、あれを飛び越える障害とさえ思えず、ただただ壁があると思って回避するばかり。あの高さじゃね。レストランでもこの話題で持ちきりなんだけど、

 「これでクソ駄馬クラブになるのは確実ね」
 「ならへん可能性が思いつかへんぐらいや」
 「看板やったら、うちの倉庫に隠しといたらどうやろ」
 「あんなボロ看板、新調したらしまいやんか」
 「ほんでも、クソ駄馬クラブに名前が変わってまうで」
 「あんまり嬉しないな」

 誰一人うちが勝つ予想なんて・・・する訳ないか。その時に調理場に目をやったら、お母ちゃんが包丁握りしめてプルプル震えてた。全身から、

 『悔しい』

 このオーラが噴き出てるように見えたぐらい。目から涙がポロポロ落ちてるもの。そしたら、いきなり調理場から包丁握りしめて出て来て、

 「うちの人は勝つ。必ず勝ってくれる」

 あれは魂の絶叫だった。お母ちゃんの声はエミの心にダイレクトに響いた。そうや、お父ちゃんがお母ちゃんとエミのために受けてくれた勝負じゃない。娘であるエミがお父ちゃんの勝利を疑ってどうするんや。エミも絶叫した。

 「お父ちゃんが負けるもんか」

 そうや負けるもんか、お父ちゃんが負けるもんか、

 「でも相手は甲陵やで」

 エミはもう完全に切れてた。

 「お父ちゃんが負ける言う客に出すもんはあらへん。帰ってか」

 お母ちゃんとエミの剣幕と、そんなお母ちゃんが握りしめていた包丁に恐れをなして、お客さんは固まってた。そこからお母ちゃんと二人で悔しくて、悔しくて、ひたすら泣いてた。

 「お母ちゃん、お父ちゃんはきっと勝つ」
 「そうよ、この日のために生きてきたようなもの。お父ちゃんはやってくれる。今度こそ、あの日のリベンジをするのよ」
 「そうや」
 「一度ぐらい勝ってもイイじゃない・・・」

 騒ぎを聞きつけた父ちゃんがこの場を宥めて回ったんだけど、ユッキーさんとコトリさんが残ってくれてた。なんとなく帰りそびれたみたい。そこからだけどいきなりお母ちゃんが、

 「少し聞いて欲しいことが・・・」

 エミも驚いたけど黒田との因縁話を始めちゃったの。これはエミも聞くだけで辛い話だったけど、お母ちゃんも気を使ったのかエミのことを伏せようとしてたみたいだから絶叫しちゃった。

 「うちは知ってるんや。うちはお父ちゃんの子どもやない、本当は黒田の娘だって」
 「憎い黒田の娘のために自分の夢を売ってもたんや」

 二人は静かに聞いてくれたんだけどお母ちゃんはいきなり、

 「お願いです。どうか代表として出てくれませんか」

 こう言って土下座したんよね。これはエミも意味が分かった。万が一でも甲陵に勝つチャンスがあるとすれば、この二人が出場しときのみしかないって。エミも急いで土下座した。

 「ちょっと待ちいな」
 「このクラブで大障害を飛べる可能性があるのは、コトリさん、シノブさん、ユッキーさんの三人しかいません」
 「買いかぶり過ぎや」
 「いいえ、あなた方の技量はうちの人も仰天してます」

 エミは心の中でお願いをし倒してたの。この三人が出てくれたら、勝てる可能性が完全にゼロから、わずかでも出てくれるじゃない。お父ちゃんとお母ちゃんがあれだけ苦心惨憺して作り上げたこのクラブを失ってはいけないと思ったのよ。そしたら、

 「コトリ、やろうよ」
 「なに言うてるんや、大障害やで」
 「飛べばいいだけじゃない。矢も飛んで来ないし、槍で刺されたり、剣持って追いかけて来る奴もいないんだし」

 変な喩えだな、

 「でもシノブちゃんはあの調子やで」
 「なんとしても引っ張り出す」

 そういえば、ここのところシノブさんが来てないけど、

 「さあ社長も、奥さんも、エミちゃんも立ってえな。とりあえず団体戦は三人やから、シノブちゃんがウンと言うてくれんと試合にもならへんやんか。ちょっと時間もらうで」

 夜にお母ちゃんに、

 「あの三人なら勝てる可能性はゼロじゃないかも」

 そしたらお母ちゃんはじっと天井を睨んだ後、

 「ひょっとすると救世主かもしれない」

 そうあって欲しい。