フィールドワークのハイキング

2週続けて鉢伏山にハイキングに行ってきました。前回は義経道を下ったのですが、今回は六甲縦走コースを

    鉢伏山 → 旗振山 → 鉄拐山 → おらが山(高倉山)→ 栂尾山 → 横尾山 → 東山 → 板宿
縦走コースの前半部です。知る人は良く知っていますが、「おらが山(高倉山)→ 栂尾山」は350段ぐらいの急階段を先ず下り、そこから同じぐらいの急階段をまた登る難所です。正直きつかったです。感想としては義経が夜間に鉄拐山なり鉢伏山を密かに登って下りたは無理じゃねえかと痛感した次第です。ついでに言えば横尾山から東山の間にある馬の背と呼ばれる難所で転倒。右手を少し捻挫して難儀しております。キーボードを打つのも少々痛いです。


道の再検討

そういう訳で手軽に研究成果でお茶を濁しておきます。ここまでで大きな収穫は道の問題です。当時の道は、これまで

これを参考にしていましたが、まず白川道の位置付けを見直す必要がありました。須磨観光協会からですが、

このころまで山間の村々は須磨の海辺の村々よりもむしろ、長坂越えや古道越えの山道によって兵庫方面の諸村と結びつきが深かったようです。

しかし、1890(明治23)年に板宿から妙法寺川沿いに播州三木に至る道路(県道神戸三木線)が開通し、妙法寺谷筋の諸村は、海岸地方の村々と直結されることになりました。こうして、今の須磨区域にあった八か村は東の西代村とともに初めて結束しました。

県道神戸三木線は板宿から妙法寺に至る道ですが、住民の交通でさえ不便至極の道であった事がわかります。当時のメインルートは

  • 長坂越
  • 古道越
長坂越は長柄越と見なして良さそうです。もう一つの古道越なんですが、摂津名所絵図より

太井畑(たゐのはた) 鉄枴峯が西北の山中にして須賠より二十五町、これ摂播の界村なり。古は兵庫より夢野を経て山中へ入り、この田井畑を歴て播州へ出づる、これを古道越といふ。

太井畑は現在の多井畑です。古道越のルートとは、

    兵庫(大和田の泊)→ 夢野(会下山付近)→ 長柄越 → 妙法寺 → 多井畑 → 塩屋
おおよそこういうルートであったと推測されます。とくに古道越えとは塩屋方面に抜ける道を指していたようにも思えます。確かに長柄越でも古道越でも現在の海側の須磨はカットされます。結論として
    白川道はとても軍勢が通れる道ではなかった
こうしても良いかと推測されます。白川道が険路であるのに対し、長柄越や古道越は生活道路、つまり物資に運搬にも使える道であったと考えて良さそうです。つまりは荷馬も通れるのですから、軍馬も通れる道です。これに対し白川道は人ならともかく馬なんて到底通れない険しい道であったです。現在も深い峡谷の道です。

もう一つポイントは須磨の浜よりの村と山よりの村の関係です。明治期に白川道が整備されるまで交流が乏しかったとなっていますが、その後の交流を考えると歴史的対立とは関係無い様です。あくまでも地理的断絶であって、道が整備され交流が良くなれば一体化の方向に進んでいます。それぐらい白川道は通りにくい道であったと考えて良さそうです。

その延長線上で多井畑から須磨に抜ける道も同様であったろうも推測できます。現在は離宮公園のあるあたりから立派な道が多井畑に通じていますし、古地図でもその存在が確認できますが、これもまた当時は非常な険路で人がなんとか通れる程度の道であったのであろうです。そこを無理やり押し通って奇襲をかけるは机上では成立しますが、義経に与えられた時間は1日です。なおかつ基本的に知らない土地です。選ぶのなら普通に馬が通れる道を進軍路に選ぶはずです。

妙法寺から多井畑までの間は今は大規模なニュータウンが建設されて昔を偲ぶのが非常に難しくなっています。あえて推測するなら、妙法寺(寺のあるところ)付近は谷ですが、現在の地下鉄妙法寺駅付近まで登ればなだらかな幅の広い尾根筋に出ます。ちなみにその西側は名谷と言う谷でここも大規模なニュータウンとなっています。この尾根筋は多井畑と白川方面を結んでいると言えますから道があったとしても不思議ありません。いや、あったと記録はしています。

源平合戦当時の道(メインルート)を推測整理すると、

    福原 → 夢野(会下山)→ 長柄越(鹿松峠)→ 妙法寺
まずここまでがあり、妙法寺から白川道を下る選択は事実上なく、
  1. 妙法寺 → 多井畑 → 塩屋
  2. 妙法寺 → 白川 → 藍那
白川や藍那まで出るとなだらかな丘陵地帯に変わりますから、後は西側への通行の選択は広がるみたいな感じであったと考えます。たとえば古地図にもありますが、
    白川 → 布施畑 → 垂水
こういう道も出てくるわけです。こういう長柄越えから山中の道が発達した理由としてメインの西国街道の問題があったとされています。西国街道は古地図で言えば須磨から浜寄りに塩屋、明石と抜けて行くのですが、ここが山が迫り非常に通りにくかったのは事実です。現在でも山と海の非常に狭い間を国道2号線やJR、山陽電鉄が無理やり通っている感じです。古代や中世はなおさらで天候が悪くなれば不通になりやすかったのだと考えます。

そのためバイパス(脇街道姫街道)が自然に発達したのだろうです。バイパスの目的は兵庫・福原方面が起点になり播磨方面に抜けることがポイントになります。一方で浜よりの須磨は福原なり兵庫方面に道があればよく、わざわざ険しい山を抜ける道を必要性が乏しく「道があった」に留まった可能性を考えます。塩屋への西国街道も通れる時はちゃんと通れるからです。

前にやった考察で清盛が妙法寺に寺領を寄進したとの記録を引用しました。清盛は妙法寺にも参詣しているかもしれませんが、福原からなら白川道を通らずとも長柄越が最短ルートです。また清盛は舞子の方に別荘を持っていたとの記録もありますが、それなら古道越えで十分になります。当然ですが一の谷合戦当時の平家側も白川道や多井畑から須磨方面に抜ける道は「軍勢が通れない」の前提で防衛戦術を練る事になります。だから福原から西側の山側は通行不能の壁と考えられ、防衛拠点として塩屋が考えられ、さらに須磨浦公園の一の谷が想定されたんじゃないかと考えます。

白川道や多井畑から須磨に抜ける道が源平合戦当時に軍勢が通れない道だとすると、これまでの考察により義経が山田から藍那方面に進んだらしいので、

  • 義経:藍那 → 白川 → 妙法寺
  • 実平:藍那 → 白川 → 布施畑 → 垂水 → 塩屋
熊谷親子・平山季重の抜け駆けはこうでないかと考えています。実平は平家物語でも梅松論でも塩屋にいると書かれているのでそれに従っています。もう一つ行綱については考察中なのですが、本拠地の多田方面から完全な別働隊として有馬街道から山田方面に進出した仮説を考慮中です。


山の手の再検討

これは延慶本の検証です。これがまたカナばっかりで非常に読みにくい代物なんですが、山の手が出るところを拾って漢字混じりで書いてみると、

  1. 新三位の中将は、追い散らされたる事を面目なく思われければにや、福原へも返り給はで、駒の林より小船に乗り、福良の渡しをして、淡路の由良へ着き給う。舎弟備中守帥盛、平内兵衛清宗、明くる五日の日、おおい殿に参て、「三草山は、去んぬる夜の中ばかりに、源氏の軍兵に、散々に追い散らされ候ひぬ。なお山へ手を向けられるべく候む」と申されたりければ


  2. おほい殿大いに驚き給ひて、東西の木戸口へ重ねて勢を遣わさる。さて安芸馬の介よしやすを御使いにて、能登守のもとへいひつかわされけるは、「三草山の手、既に落とされ候なり。一の口へは貞能、家長をさし遣はされ候ぬれば、さりとも覚え候う。生田へは新中納言向かされ候ひぬれば、それ又心安く候。山の手には盛俊向かへとて候へば、山は一大事の所にてある由承り候へば、重ねて勢を差し添えばやと存じ候うが


  3. その勢七千余騎は義経に付け。残りは土肥次郎、田代の冠者両人大将軍として、山の手を破り給へ

延慶本の九巻に出てくる「山の手」はこの3箇所だけです。他は「やまのて」でも「山手」でも出てきません。まず1.は帥盛、清宗が三草山から逃げ帰って宗盛に報告しているのですが、宗盛のリアクションとして、

    三草山は、去んぬる夜の中ばかりに、源氏の軍兵に、散々に追い散らされ候ひぬ。なお山へ手を向けられるべく候む
三草山が落ちた事を踏まえて宗盛は山の手重視を言い出しています。これだけでは山の手が漠然としているのですが、次の2.には
    三草山の手、既に落とされ候なり
三草山をはっきり「山の手」と表現してあります。どうも山の手は鵯越道関連に限定した表現と思えず、もっと広く六甲山系の北側全般を指し示している様に思えます。とくに2.はもう一つ注目すべき点があり、「東西の木戸口」への加勢として東は「生田」としていますが西は「一の口」としています。これは一の谷口の意味を示している可能性を考えます。

もう一つ越中司盛俊はもともと「山の手」だった感じがします。そこに教経が「山は一大事の所にてある由承り候へば」はとして援軍に行っているので、三草山陥落の新事態に対応しての防備に見えます。盛俊の山の手がどこかですが、長柄越えの鹿松峠の伝承が残されています。

多井畑を通って塩屋へと通じる古道の途中にあり、源平合戦の時、平家の進軍に驚き一頭の牡鹿と二頭の雌鹿が飛び出してきた。平盛俊勢の武智武者所清教がこのうちの二頭の牡鹿を射止めた場所と伝えられる。盛俊は高取山の春日明神を憚り、鹿は神の使いであるとして傍の松に鹿の亡骸を寄せ掛けた。以来、ここを鹿松(かのししまつ)峠と呼ぶ様になった。今は鹿松(しかまつ)町の町名にもなっている。

この伝承がどれほど正しいかはありますが、盛俊勢が鹿松峠に展開していた気配をうかがわせます。そうなると「山の手 = 鹿松峠(長柄越)」も成立します。一の谷口が丸山一の谷の南方の防御線であり、山の手が長柄越も含む北方の防御の要として重視されていたんじゃなかろうかです。

ここで気になったのは教経です。平家物語でも一の谷までに六箇度合戦で猛勇振りを強調しているのですが、どうも一の谷合戦そのものではさしたる活躍をした形跡がありません。一体どこの山の手にいたのだろうです。盛俊の加勢に行ったらしいというか、その方面に教経がいたので平家物語に書かれていると思うのですが、合戦になると存在感が薄いものになっています。これ以上は、教経については正直なところ不明です。


そいでもって行綱です。行綱は玉葉

多田行綱山方より寄せ、最前に山手を落とさると

この報告は合戦の翌日に京都にもたらされた梶原景時の手によるものです。玉葉には義経、範頼と並んで行綱の功績が記されています。三人が並ぶと言う事は、これもヒョットして三人がある意味同格の御大将であった可能性があります。つまり大手軍、搦手軍の他に行綱軍がいたと言う考え方です。これは現在考慮中ですが、行綱が落とした山手とは六甲山系北側の確保じゃあるまいかです。

行綱が義経軍の露払いとして、先に六甲山系北側の義経軍進撃路の確保に成功したの意味があるかもしれません。それだけでなく長柄越の鹿松峠攻撃に大きな功績があったとも考える事も可能です。長柄越はここまで考えると吾妻鏡にあるようなウルトラ難所ではなくメインストリートになり、当然平家も守ってますから奇襲ではなく強襲になります。吾妻鏡にある義経勢ですが、

源九郎主先ず殊なる勇士七十余騎を引き分け、一谷の後山(鵯越と号す)に着す

「勇士七十余騎」ですがこれは関東遠征軍から引き抜いた武士たちとなっていますが、「騎」を本来の意味で数えれば千人ぐらいには容易になります。これだけではまだ奇襲規模ですが、行綱軍が2000人ぐらいいれば合わせて3000人ぐらいになります。3000人は当時としては立派な大軍ではないでしょうか。それだけの規模の軍勢で盛俊・教経が守る鹿松峠を攻撃し、これを撃破し一の谷に雪崩れ込んだです。もう少し想像を広げれば、延慶本では

その勢七千余騎は義経に付け。残りは土肥次郎、田代の冠者両人大将軍として、山の手を破り給へ。我が身は三草の山を打ち巡りて鵯越へ向かうべし」とて歩ませけり

ここについては義経の言う「我が身は三草の山を打ち巡りて鵯越へ向かうべし」の謎の説明が必要ですが、義経は搦手軍の小勢の別働隊で鹿松峠を攻撃したのではなく、搦手軍の主力を投入したんじゃないかとも見る事は可能です。だから平家の陣地は一挙に壊滅してしまったです。教経まで投入してもこれを支えきれなかったんじゃないかです。

後世には行綱の活躍は玉葉を除いて消されてしまっています。これは行綱だけでなく行綱軍自体の行動も同時に消されてしまっていると考えるのが妥当です。行綱の行動無しで義経の成功を書くと、平家物語になってしまうぐらいの考え方を現在はしています。たとえば行綱軍無しでは、強襲は無理で奇襲にする必要があり、鵯越は平家も守る必要がないと考えるぐらいの難所・険路にならないといけないです。



・・・てな事の話をハイキングで考えながら歩いていたら、滑って転びました。山用の靴も余裕で10年選手ですから、そろそろ買い換えた方が良さそうだと痛感した次第です。