お客様は神様です

国民的歌手

三波春夫氏(以後敬称は略させて頂きます)は国民栄誉賞も受けた大歌手です。三波春夫のキャッチフレーズの一つに国民的歌手がありますが、これはある意味掛け値なしで、戦後の国民的2大イベントでも東京五輪音頭(競作ですがたぶん一番有名)、世界の国からこんにちは、さらには万国博覧会音頭(てなものもあります)を歌い上げています。

リアルタイムで知っている世代なんですが、とにかく三波春夫が舞台に登場すればパッと明るくなるオーラがあったのは確かです。歌唱力については浪曲師出身の鍛え上げられた声で、それこそ朗々と、晴れやかに歌う姿は絵になりました。

三波春夫は大歌手ではありましたが、大御所としてふんぞり返る方向には決して進まず、新しい試みに積極的と言うか、面白がってチャレンジしていったのも書き加えておいて良いかと思います。有名なので言えば、ルパン音頭もそうですし、銭形マーチなんてのもあります。大御所的な大歌手と言うより、大エンタテイナーと評価した方が適切かもしれません。

ここで在りし日の三波春夫YouTubeを出しておきたいのですが、東京五輪音頭も、チャンチキおけさも、世界の国からこんにちはも、ルパン音頭も程度の良いものが少なく、wikipediaが、

1999年12月31日、第50回NHK紅白歌合戦へ10年ぶり31回目の出場を果たすが、この回が生涯最後の紅白出演となった。この時に歌った『元禄名槍譜 俵星玄蕃』は、60年にも及ぶ三波春夫の歌芸の集大成とも言われる。

この名演かどうかは確認ができなかったのですが、


お客様は神様です

三波春夫の全盛期はテレビ台頭期から黄金時代に重なるのですが、三波春夫自身はテレビ出演より舞台を重視した様に勝手に思っています。もちろんその後の有名歌手のように「テレビに出ない」なんて頑ななものではなく、紅白なんて31回も出場していますが、真骨頂はやはり舞台であるぐらいの感じでしょうか。

三波春夫の姿勢は大御所歌手と言うよりエンタテイナーとしましたが、誤解無い様にしてもらいたいのですが「真の芸人」であったとも思っています。劇場に来てくれた観客を喜ばすのにいかなる苦労も努力も惜しまず、いかに満足してもらって帰ってもらえるかに全力を傾注したです。これは私の勝手な想像ですが、テレビでは”one of them”の存在ですが、舞台では”only one”であるの意識の差もあったんじゃないかと思っています。

そういう三波春夫が残した最大のフレーズが、

    お客様は神様です
この有名なセリフはwikipediaより、

「お客様は神様です」(おきゃくさまはかみさまです)とは、1961年頃に三波春夫宮尾たか志の対談の間で生まれた言葉である。

三波春夫が本当に元祖なのかはひょっとして異論もあるかもしれませんが、三波春夫が使ったので広まったのは確実とは思います。とくに有名になったのは、これもwikipediaより、

この三波の言葉「お客様は神様です」を流行らせたのは三波の舞台を観たレツゴー三匹である。

レッツゴー三匹だけではなく、数限りない芸人がこのセリフを数々の場所で使ったのは記憶しています。ここについてはさらに詳しい情報があり、三波春夫オフィシャルサイト「お客様は神様です」についてにある「三波春夫著『歌藝の天地』
1984年初刊2001年文庫化いずれもPHP研究所」より、

あれはたしか、昭和三十六年の春ころ、ある地方都市の学校の体育館だった。
司会の宮尾たかし君と対談の際にこんなやりとりがあった。

 「どうですか、三波座長。お客様のこの熱気、嬉しいですね」
 「まったくです。僕はさっきから悔やんでいます」
 「!?」
 「こんないいところへ、何故もっと早く来なかったんたろう、と」

ここで、お客様はどっと笑ってくれる。ここまでは、昨日通りの対談内容。
すると、宮尾君はたたみかけて、

 「三波さんは、お客様をどう思いますか?」
 「うーむ、お客様は神様だと思いますね」

ウワーッと客席が歓声の津波!私ははっとしたが、宮尾君もびっくり。客席と私の顔を見比べて、

 「カミサマですか」
 「そうです」
 「なるほど、そう言われれば、お米を作る神様もいらっしゃる。ナスやキュウリを作る神様も、織物を作る折姫様も、あそこには子供を抱いてる慈母観音様、なかにゃうるさい山の神・・・・・・」

 客席はいっそうの笑いの渦。その翌日から、毎日このパターンが続いて、どこもかしこも受けまくった。宮尾君は、お父さんが落語家であり、本人も研究熱心だから、司会者としても一流。漫談もうまい。

こうやって生まれた「お客様は神様です」ですが、有名になりすぎて三波春夫の意図するものと違った広まり方をしたのに悩んでいたとされます。これも、三波春夫オフィシャルサイト「お客様は神様です」についてからですが、

三波春夫にとっての「お客様」とは、聴衆・オーディエンスのことです。客席にいらっしゃるお客様とステージに立つ演者、という形の中から生まれたフレーズです。三波が言う「お客様」は、商店や飲食店などのお客様のことではないのです。

さらに生前の三波春夫の言葉として、

「歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って、心をまっさらにしなければ完璧な藝をお見せすることはできないのです。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです」

現在流布されてしまった「お客様は神様です」は三波春夫の考えるものではなく、レッツゴー三匹を始めとするお笑い芸人によるギャグの方が定着してしまったぐらいにすれば良いでしょうか。


神の解釈

三波春夫が想定した神とは日本の八百万の神々と私は考えています。ここで宗教論をする気は無いので出来るだけアッサリしておきたいのですが、日本の神々は多神教の神々であり、多神教の神々は人間性が豊かで、なおかつワガママです。慈愛の神もいるかもしれませんが、多くは恵みももたらす代わりに、機嫌を損ねると災厄をもたらす存在です。そういう日本の神々への祭事は大雑把に言えば、

    神に御機嫌よくして頂いて、恵みを頂く。
恵みの神として祭りに招待させて頂き、みんなでおもてなしをするです。何が言いたいかですが、招待されている神は「おもてなし」を期待して望まれており、招待した側の人間は神の期待する「おもてなし」を提供するです。期待された「おもてなし」が受けられれば神は満足するです。これを三波春夫は講演を聴きに来た客を神に喩え、三波は「おもてなし」をする人間に喩えたと見ます。

ここでのポイントをもう一つあげますと、神たるものは期待しているものが決まっているのと、「おもてなし」に協力するです。三波春夫の、

    「まったくです。僕はさっきから悔やんでいます」
     「!?」
    「こんないいところへ、何故もっと早く来なかったんたろう、と」

これはシチュエーションからリップサービスの部分もあるとは思いますが、ある程度本音もあると思っています。神である客が三波春夫の芸に一途に期待している時とそうでない時では違うの意味です。舞台とは演者と客の共同作業でより深い満足感が得られるものであり、神である客の準備が万全であるなら演者のモチベーションは否が応でも上るです。

こういう現象は三波春夫以外でもあるとは聞きます。ミュージシャンのベストステージは必ずしも大舞台であるとは限らないです。案外、小さな劇場とかホールでなされる事がしばしばあるとされます。さらには地方の鄙びた公演であったり、ほんの街角のステージであったりもするとされます。ベストステージの条件とは、会場や観衆の数とは必ずしも言えず、客の質で決まるです。

そんな事は決して書き残していないと思いますが、三波春夫を以ってしても、どうしようもない客相手の公演もあったと思っています。もちろんあれだけの大歌手ですから少々の質の低さなら、持ち前の芸でカバーしてしまうでしょうが、「それでも」はきっとあったと思います。もちろん三波春夫はその失敗を客に求めず「今日の神(客)は手強かった」として精進のタネにしたとは思います。

だからこそ質の良い神(客)に恵まれた公演は、芸人として至上の喜びに浸れたと思います。これは演じる三波春夫だけではなく、これを見に来た客にとっても同様です。


主客の関係

客を神としてしまうと話がややこしくなるので、客を主客の「客」と考える方がわかりやすいかもしれません。主は訪れた客を誠意を尽くしてもてなします。客はもてなしに対し誠意を持って応えるのが礼儀です。誠意に誠意で応える事により、もてなしは完成し、客はもちろんの事、主も深い満足感に浸れるです。もてなしは主と客の共同作業であると言う事です。

商売でも同様で、客は商店に物品・サービスを期待して訪れます。それに対し、店側はその期待に応えるもてなしで応えます。ここで重要なのは、客が求めるものは、その店で可能なものであると言う事を予め心得ているです。決してコンビニで高級レストランのフルコースを望んだり、中華料理屋で上握りを注文するようなアホな事はしないです。店は客の注文に対して、その店で応じられる精一杯の事を行ない、客がそれに満足する関係とすれば良いでしょうか。

店もまた商売ですから「客様は神様です」ですが、それは店の能力をちゃんとわかっている客に対するものです。それを心得ない客は神であっても恵みの神ではなく疫病神です。さらに疫病神が店の他の恵みの神に迷惑をかけるようなら、これを叩き出す事さえあります。店にとって大事な神は、疫病神ではなく恵みの神だからです。

主客であろうが商売であろうが、客は神ではありますが、神であっても疫病神であれば退散を念じられる存在になると言う事です。「お客様は神様です」は客が恵みの神であればこそであり、どんな神であっても歓迎するわけではありません。もう少し言えば、客を神としてもてなす価値があると判断するのは客ではなく主であり、店であると言う事です。


実世界は厳しい

店が客を神と認定するシステムの一つに京都の老舗とかにあるとされる「一見さんお断り」はその一つかもしれません。あれは神と認めた客の紹介であれば信用出来るであろうのシステムと思っています。紹介する客も自分の信用を賭けての紹介であり、紹介に失敗すればその店の神としての認定を失うかもしれないの方式です。(そんな凄い店とは縁がありませんが・・・)

とは言え、どんな商売であってもそんな敷居の高い商売が出来るわけではありません。これを断れない客商売は現実に存在します。それが何であるかは書かなくても良いでしょうが、そういう商売ではやむなく相手にします。とはいえ対応としては「触らぬ神に祟りなし」みたいな厄病神に、嫌でも触るみたいな状態になります。

なとんか厄病神が荒ぶらないように細心の注意を払って取り扱い、厄病神がの暴威を揮わないようにやり過ごそうです。そういう行為はその場では良いとしても、もともとが触れば祟る厄病神ですから、結局のところ厄病神の増長漫を助長してしまいます。

増長に増長を重ねた厄病神がどうなるかですが、わかりやすいのはモンスターと呼ばれる一群の人々と思えば宜しいでしょうか。モンスターも1人や2人のうちはまだなんとか対応できても、群れになるとそのコミュニティを喰らいつくし、荒廃させます。それでもって自分に責任だとか、問題であるとは少しも考えていません。なぜなら神だからです。

むしろ「なんで壊れたんや」と不満をさらにぶちまけるになります。「さっさと代わりを持って来い」の時もあります。「自己中心的」なんて言葉がありますが「的」ではなくて「自己中心」そのものであるぐらいが適当です。神とはかくも厄介な代物であると思っています。


あとがき

今日はちょっと尻切れトンボなのですが、下書き段階では「とある話」にからめるつもりでした。そのための延々たる前書きが今日のエントリーです。ただ最終段階でチト下品と言うか、三波春夫の気高い「お客様は神様です」の精神をダシにするにはもったいないと思い削除した次第です。そういう意味で未完成品かもしれませんが、御容赦頂きたいと思います。