今年も、もうちょっと

クリスマスも終って、お正月までの数日は毎年の事ながら慌しい気分を味わっています。気分だけじゃなくて本気で忙しく、土曜日に休載明けを書いたものの既に煮詰まっています。せめて木曜か金曜ぐらいまで書いておきたいのですが、残り数日が非常な重荷に感じています。最後は今年を振り返るぐらいの定番ネタを使えるのですが、そこまでのつなぎに四苦八苦です。

そう言いながら、ポコッと話題が出てくるときもあるのですが、昨日から今朝にかけて悪戦苦闘状態です。何本か書きかけたのですが、どれも気に入らずボツです。切羽詰まってなんですが、プライベートの亡父の思い出話を上げさせて頂きます。



亡父が開業したのは1970年になるかと思います。開業の理由は亡祖父が強力に望んだ事(の割りには開業資金の援助はなかったとボヤいていました)と、勤務医としてのポスト問題であったと聞いた事が一度ぐらいあります。どうも開業医になるのは相当嫌であったらしく、この当時の思いでは殆んど語ってくれた記憶がありません。

これは亡父からと言うより、亡父の知人から断片的に聞いた記憶ですが、次期々々教授戦の前哨戦みたいな様相も一部あったとされます。これもどこまで信用できる話か定かではありませんし、さすがに美化している面もあると思っていますが、当時の医局の様相を知るものならある程度理解できるかもしれません。

なんと言っても医局制度が本当に華やかなりし頃のお話で、勤務医を続けると言う事は最終的に教授の椅子を争うと言う事に素直に通じた時代です。教授の退官年齢から逆算して、教授候補世代と言うのが出てきます。これは年齢だけではなく、その世代に有能な若手が固まっていたりもあったりするそうです。医局内の競争は研究と発表、もちろん臨床成績、さらにはモロモロも加味されたものです。

序列に関しては、目に見える肩書きと言うよりも、派遣される病院の格とか、そこでの地位を占める時期で発表されると言えば良いのでしょうか。もちろん日の当たる病院だけではなく、当時の事で物凄い病院にお勤め時期もあったりしてのローテーションですが、医局員には人事で示される位置で自分の序列が分かるという仕組みです。

亡父もある時期まで出世競争のトップグループにいたそう(そういう自負があったと伝えられます)ですが、開業前に派遣された病院が凄まじいところでした(私もなんとなく覚えています)。亡父としてはそこを勤め上げる事によって、次の異動に大きな期待を寄せていたようです。ところが次に示された病院とその地位は、同期のライバルの下と言うものであったそうです。同期のライバルと言っても大親友でもあったのですが、この人事を内示されて勤務医を続けることを断念したとされます。

椅子は一つしかなく分け合う事が出来ないのが宿命なのですが、この件については同期の親友医師も気にはなっていたようで、私が医師になった時に庇護者の位置に立ってくれました。もっとも亡父が死ぬのを追う様に亡くなったので、肝心な時にはいなかったと言うのは「まあ、しゃ〜ない」です。


とにかくドタバタと言う感じで開業に至ったようです。いつの時代でも開業すると言うのは一大事業です。それでも自慢じゃありませんが、物凄く繁盛していました。当時の医師不足は今とはレベルが違い、開業医への潜在需要がテンコモリあったと言えば良いでしょうか。その上で猛烈な働き者でした。家族に対する無愛想(疲れていたと思っています)とは裏腹に患者あしらいに長けていたと言われています。

さらに時間外診察を実に断らなかったのはあります。輪番も小児急病センターも無い時代でしたから、それこそ可能な限り全部診察していた状況です。連日5〜10人の時間外診察は当たり前で、多くなると20人以上みたいな日もありました。この時間外診察は当たり前ですが、時間内診察が多い時に比例して増えますから、時間外診察が多い時の不機嫌さは格別でした。

ほいじゃ繁盛していた外来がどの程度かですが、100人程度はヒマに分類されます。これも今から思えばですが、年末は大晦日まで仕事していましたから、300人とか400人とか500人は大げさではなく実話です。ピーク時は年間平均200人を超えていたはずです。

この100人外来ですが、亡父が平然とこなしていたので「小児科開業医なら当たり前」と思っていました。ところが実際に自分がやってみれば途轍もない数であるのが身に沁みてわかりました。私も開業してから既に9年目ですが、一般診察だけで100人を超えた日は未だかつてありません。亡父の時代の予防接種は集団接種だったはずですから、一般診察だけで100人をラクラク超えていたことになります。

一般診察より遥かに回転効率が良い予防接種を含めて100人超えても、正直なところへたばります。物を言うのも億劫になるとしても良いかと思っています。まあ、私の経営手腕では亡父の繁盛の1/3にこれから達する事があるのさえ疑問と感じています。


儲かったのは間違いありません。そりゃ、あんだけ働いて儲からなければ嘘でしょう。現在の基準でもウハクリでしょうし、ましてや当時の事です。さらに実に無趣味な人でした。無趣味は亡父に失礼なので、歴史とかは結構好きでした。旅行も好きで、家族旅行も良く連れて行ってくれました。ただあんまり忙しすぎて、稼いだ金で何かに打ち込むと言う事が殆んど出来なかったと見ています。

当時はゴルフブームが訪れかけていましたし、亡父も医師会仲間から誘われて始めようとしていました。確かゴルフセットも3セットぐらい購入していたはずです。3セットあるというのは、3回ゴルフを始めようとしたと言う事ですが、3回とも挫折し、ついにコースに出ることはありませんでした。かわりに運動として定着したのが犬の散歩です。

賭け事も好きでなかったようで、せいぜい時間潰しにパチンコをするぐらいです。これも地元でやるとうるさいと言うのがあり、神戸に出かけた時にたまにやるぐらいのものです。当時の娯楽の定番であった麻雀もルールを辛うじて知っているぐらいのものです。賭け事嫌いは亡父の血かもしれません。

食べものはうるさく、食べに行く店もこだわりが満点でした。亡父を知る人に言わせると、当時としては相当なグルメであったようですが、田舎ではさして出かけられる店があるわけでなく、忙しくなると出かける余裕もなく、それこそ「たまに」レベルになっていました。「たまに」レベルになると、新規開拓なんて余裕もなくなり、体力の衰えとともに出かけることも少なくなっています。

クルマも好きだったようですが、ベンツとかポルシェに走るわけではなく、開業してから自分のために新車を買ったのは二度で、ずっと中古車を乗り継いでいました。最後に買った新車は「いつかはクラウン」でして、妙に、はしゃいでいた記憶が残っています。しかし買ってから幾分もしないうちに最後の入院となり、殆んど乗る事はなかったと記憶しています。私が見た入院後のオドメーターは2000kmもなかったはずです。


これだけ全力で走り続けて、開業医を続けられたのは20年足らずです。1990年代の前半には天国に御召還です。そいでもってそんな医師生活に満足していたかと言えば、全然満足していなかったそうです。これは最後の入院生活の時に母が聞いた話ですが、勤務医に未練タラタラであったそうです。私が知っている亡父からは想像も付かないのですが、臨床より研究がやりたかったそうです。

この研究へのこだわりは私も聞いた事があり、私がなんとか医師になった時に何回か「研究したいなら研究をしろ」と聞いた事があります。亡祖父がカネにならない研究に大反対だったのが余程悔しかったようです。ココロは「お前が思う存分研究するぐらいは、家にカネがある」と言いたかったのかも知れません。

この点については、実に親不孝と言うか、上述した庇護者であった亡父の親友医師が「一日も早く後継者に仕立てることが、親友への報いだ」と信じ込んでいたせいもあってか、研究の「け」の字もないところで過ごす羽目になりました。開業医に研究は不要だし、もちろん博士号取得など時間の無駄であると判断されたようです。

私が研究に向いていたかどうかは、今となっては不明です。全然触れるポジションにいなかったので、研究とは具体的に何をするのか皆目見当がつかないからです。ですから皆様が「研究も楽しい」とコメントを下さると、自分が近づく事もできなかったものですから、妙に羨ましい気分になります。やっぱり向いてなかったかもしれませんけどねぇ。


私の事で寄り道してしまいしたが、私にとって亡父の思い出は「ひたすら怖かった」です。猛烈に多忙でしたし、元はかなり短気であったのは間違いないはずですから、思いっきりの大目玉を何度も頂いたものです。仕事に疲れ果てて余裕がなかったせいかもしれません。亡父が怖かったのは手もあがるのもありましたが、口も達者であった点です。

それこそ私の悪事を論理的にも暴き立てて、これでもかの容赦ない叱責が下ったものです。亡父自体は才子肌と言うより、刻苦勉励の努力型の人間でしたから、エエ加減な人間は許せない気持ちが強かった様にも今からは思っています。人間努力しないと報われるはずもないし、そもそも努力もしない者は報われるはずもないと言うところでしょうか。

子供だった私は何も言い返せる余地はなかったのですが、これにはちょっとした後日談があります。亡父にも負い目はあったのです。亡父に研究指向があるとしましたが、亡父が目指したのは京大です。それも入試の時と、専門課程に上る時の二度に渡って挑戦していますが、ついに適っていません。とくに専門課程に上る時には二度も挑んだそうですが、亡父の努力をもってしても京大の壁は厚かったと言う事です。

この挫折譚は、晩年最後の元気の時にポロッと話してくれました。人間は努力は大切だが、努力だけでは越えられない壁が確実にあると。その壁を越えるには努力に加えて、才能が必要だと。そして励ましの言葉だった思いますが、

    お前にはオレにはない才能があるような気がする。本当にあるかないかはわからんが、あるつもりで努力はやってみろ。それでダメでも人生だ。
残念ながら亡父の努力する才能を受け継がなかったのは遺憾とするところです。せめて自分の子供に隔世遺伝で伝わってくれている事を願うばかりです。もう少し生きていてくれたら、もっと違った話を聞く機会もあったかもしれませんが、子供心には向うところ敵無しの快調な人生を送っていると思っていた亡父の意外な側面を最後に少しだけ知った様な気がします。

だから努力は重視しても結果はさほど問わなかったのかもしれません。努力は必ずしも報われない事を知った上で、報われなくとも、それであきらめるのではなく、別の努力でこれを補っていくのが人生である事を知っていた様に今では思います。もっとも今になってやっと判ると言うのが、これまた人生なのかもしれません。


この歳になって思うのは、育児で男親と女親は役割が少々違うと感じています。これとて現在の親子関係になるとまた違うのかもしれませんが、直接子供に関与する部分において同じ役割とは言い難いように考えています。うちは娘だけですからとくにそう感じています。

女親は顔を見せ、男親は背中を見せると言えば格好良すぎるでしょうか。私は確実に亡父の背中を見ていましたし、追いかけていた部分は多々あったと思っています。自分の子供は私の背中をどう見ているのでしょうか。気になると言えば気になるのですが、考えたところで詮無い話です。

年の瀬はそんな事を思ってしまう季節でもあるように思っています。