訴訟の風景

とある体験者及び進行形体験者から聞いたお話です。誰から聞いたかを書いても、大きな差し障りになるものではないのですが、今日は伏せておきます。該当する訴訟の名が出れば、話がかえって混乱しそうだからです。

訴訟は民事です。民事も色々あるのでしょうが、裁判の風景として、毎回、被告側と原告側が丁々発止で終始論戦すると言うのはあまりないそうです。そんな裁判もあるのかもしれませんが、多くは書類の交換に終始するそうです。書類の交換時にそれなりのやり取りもあるのかもしれませんが、見ている分には被告・原告の弁護士と裁判官がゴニョゴニョっと話し合ってオシマイみたいな事が多いそうです。

えらく平和そうですが、論戦は交換されたり提出されたりする書類の中で火を吹くものだそうです。民事訴訟も一皮剥けば「言葉の喧嘩」であると、亡き774様(勝手に殺したらあきませんね)が喝破されていましたが、まさに「その通りだ」の実感のこもった経験談を聞かせて頂きました。

用語が不正確な点は御容赦頂きたいのですが、被告・原告双方は自らの主張を書面にて提出します。訴訟の展開は、相手の主張のうち、自分側に不都合な個所を論難し、自らの主張に基く見解と、それに対する釈明を求める事になります。これは相手が出したくない情報を引き出そうとしたり、主張の矛盾点をさらけ出そうとする戦術も含まれているとはされています。

ただ裁判では即答を求められません。求釈明のポイントを探したり、逆に釈明の内容を考えるのは、次回の裁判まででOKと言う事になります。ここも法廷戦術として色々あるそうで、たとえば隠し玉的な証拠をひそかに握っていれば、それを出すときに効果が上がるように布石するというのもあるそうです。そこまで凝った戦術は珍しくとも、自分の主張の筋が通るように釈明や求釈明にも工夫が凝らされるという寸法です。


それでもって書面の内容ですが、これが凄まじいものだそうです。それこそ「そこまで言うか」「喧嘩売ってるだけやないか」「なんちゅう厚顔しい」の内容に、素人なら脳天に血が逆流してしまう代物だそうです。まあ、弁護士は読みなれていますから、「やはり、ここまで主張する手で来たか」ぐらいで平然としたものだそうですが、素人には精神衛生上、非常に宜しくないそうです。

私なんか奈良県知事のお言葉だけでも、しばらく寝つきが悪くなりましたから、あんまり読むような経験はしたくないものだと痛感しています。とにかく慣れていない人間は迂闊に読むと大変な心理状態になってしまうとの事です。


さて、ちょっと引いて考えたいのですが、何故にそんな状態になるのだろうです。裁判とはそんなものだと納得してしまうのも一方ですが、構造的な側面が確実にあると考えています。

訴訟も問答無用でいきなりのケースもあるでしょうが、一般的に民事の場合、訴訟以前に交渉はあるはずです。そこで話し合いが決裂したので訴訟になるケースが多いと考えています。訴訟以前の交渉時には、ある程度、一般常識の範囲の言葉の応酬であろうと勝手に考えています。これもシチュエーションは様々としても、当事者同士で妥協点をなんとか探ろうとするのが訴訟前の交渉と考えられるからです。

これが訴訟となると言う事は、交渉が完全に決裂した状態と考えても良いと思います。決裂の程度も様々でしょうが、訴訟が始まった時点では妥協不可能の距離があるとして裁判に臨んでいる事になります。そういう状態で行われる裁判の基本構図は、自分の主張を100%正しいと主張し、相手の主張を取るに足らないものとして否定するのが基本姿勢になるんじゃないかと考えます。

つまり決裂時の主張を裁判官に訴え、どちらの主張に理があるかを裁定してもらうのが訴訟であると言う事です。自分の主張をより強く主張するために、相手の主張を貶める作業が同時に行われるために、上述した素人なら脳天に血が逆流するような書面が作成されると考えると話がわかりやすくなる様な気がします。


そんな事は訴訟の常識だと言われそうですが、それでも見えてくるような事もあるような気がします。医療訴訟に限らずかも知れませんが、原告としていわゆる敗訴になった側の方々が、しばしば怨念の塊になられている事を散見します。これについては、長年の間「絶対に勝つ」と信じ込んでいたのが満たされなかったためもあるかもしれませんが、裁判の過程に於ても怨念は助長されていた可能性もあると思われます。

訴訟前はそれなりの低姿勢で妥協点を探っていた相手が、訴訟になると主観として「ある事、無い事、罵詈雑言を撒き散らす」と感じてしまうのは避け難いように思います。言い方を変えれば、訴訟中は相手方から怒りを燃やすエネルギーを注入され続ける訳ですから、これにより最後は変質してしまう事も十分に考えられます。これで相手を恨まなかったら余程の聖人君子みたいな感じです。


もう一つですが、ここまで単純化するのは問題かもしれませんが、民事訴訟に於ては論点が整理されます。双方の主張の相違点がもたらす問題点の抽出です。裁判とはそれに対する、被告・原告双方の主張の整理の趣があります。絶対に無いとは言いませんが、双方の主張の繰り返しの中で問題点について妥結する事は珍しいように思います。

ここも実は微妙で、訴訟中に双方の主張が近づくケースもあって良いわけであり、その結果が和解と受け取る事もできますが、そこについても詳しく無いので、それなりで置いておきます。

論点と言うか、問題点と言うか、争点については双方の主張はまとめられても、基本として法廷の場で深々とディスカッションされるものではないと考えています。ある争点について被告が「Aである」、原告が「Bである」として譲り様がなければ、訴訟の主張に於ては終わりの様に思えます。そりゃ、どちらもそれが絶対に正しいと決めているのですし、そこが妥協できずに決裂し訴訟になったわけですから、そうなります。

争点と双方の意見が集約されるまでに様々な過程があるにせよ、それ以上は何も起こらないと言う事です。次に起こるのは裁判官による裁定になるわけです。


そういう状況で「真実を求める」とは一体なんだろうと思ってしまいます。こういう訴訟において真実は一つではなく、二つのように思うことがあります。被告が考える真実と、原告が考える真実です。二つの真実は裁判官が最終判定を下しますが、裁判官が判定を下しても、原告なり、被告にとっては死ぬまで自分の真実こそ真実であると思い続けるんじゃないでしょうか。

社会的には裁判所の判断が最終結論であったとしても、これを個人が心情として認めないのは完全に自由です。外形的には賠償金とかを払うにしても、求めていた自分の真実が変わるとは思えないからです。

自分で書きながら、あまりに暗くて、重くて、やりきれない気持ちになりました。どうか巻き込まれませんようにと祈るばかりです。