日曜怒話

今日は閑話にするつもりでしたが予定変更です。9/20付神戸新聞朝刊より、

加古川市民病院、急患死亡で敗訴 現場に波紋今も

昨年四月に言い渡された一つの判決が医療現場に波紋を広げている。加古川市加古川市民病院が、心筋梗塞(しんきんこうそく)の急患に適切な対応をせず死亡させたとして、約三千九百万円の損害賠償を命じられた神戸地裁判決。医師の手薄な休日の急患だったことから、病院関係者は「医師不足の中で患者を受け入れている現状を考慮していない」と反発。救急患者の受け入れに慎重になる動きも出ている。一方、医療訴訟に詳しい弁護士は「過剰反応」と指摘する。(東播支社・田中伸明)

 「判決を理由に、救急患者の受け入れを断る医療機関は多い」-。姫路市消防局の担当者は打ち明ける。

 以前は、専門的な治療ができなくても重症患者を受け入れ、転送先が決まるまで応急処置をしていた医療機関が、受け入れに慎重になる例が目立つという。

 姫路市では昨年十二月、十七病院から受け入れを断られた救急患者が死亡した。担当者は「判決が、救急事情悪化の背景になったことは否めない」とする。

 裁判は、心筋梗塞への専門的な治療体制を持たない加古川市民病院の転送義務が争点になった。

 二〇〇三年三月三十日、男性患者=当時(64)=が息苦しさを訴え、以前かかっていた同病院を受診。対応した医師は心筋梗塞を強く疑い、血管を拡張するための点滴をしたが回復せず、来院の約一時間半後に他病院へ転送依頼。しかし、その後容体が悪化、死亡した。

 遺族側は、重症の心筋梗塞には管状の「カテーテル」を挿入する治療法が欠かせないと指摘。この治療ができない同病院は、ほかの医療機関へ男性を速やかに転送すべきだったのに、その義務を怠った-と主張した。

 一方、病院側は、当日は日曜で他病院の受け入れ態勢も十分ではなく、病院間の協力態勢も確立されていなかったなどとし、早急な転送は困難だった-とした。

 判決は、患者側の主張を全面的に認め、訴額全額の支払いを命じた。病院側は控訴しなかった。

     ◆

 判決は、病院の勤務医らの反発を呼んだ。

 交通事故の重症患者を受け入れている姫路市内の病院の救急担当医は「自分たちで対応できる状態かどうか、受け入れてみないと分からない。能力を超えた場合、近隣で転送先を探すのは難しい」と強調する。

 山間部の小規模病院の医師も「専門的な治療体制がより求められるようになれば、可能な限り患者を受け入れるへき地の診療が成り立たなくなる」と話す。

 近年の公立病院などでの医師不足は、訴訟や刑事訴追の増加が一因とされる。加古川市民病院の判決は、福島県立大野病院の産婦人科医逮捕などと同様、医師向けのブログなどで「不当」との批判が相次いでいる。

 こうした動きに対し、患者の立場で医療訴訟を多く手がけてきた泉公一弁護士は「判決は、証拠に基づいた極めて妥当な内容。医療側の過剰反応ではないか」と指摘する。

 「医療現場の事情についても判決は十分考慮した上で、病院側の過失を認定している。内容を精査せず、患者との対立をあおるのは医療不信を招く」と冷静な対応を求めている。

加古川の事件は何回か取り上げていますから怒りが収まりません。とくに、

 こうした動きに対し、患者の立場で医療訴訟を多く手がけてきた泉公一弁護士は「判決は、証拠に基づいた極めて妥当な内容。医療側の過剰反応ではないか」と指摘する。

 「医療現場の事情についても判決は十分考慮した上で、病院側の過失を認定している。内容を精査せず、患者との対立をあおるのは医療不信を招く」と冷静な対応を求めている。

この

    患者の立場で医療訴訟を多く手がけてきた泉公一弁護士
この弁護士のコメントに逆上しそうになります。泉弁護士がどれほどこの訴訟について知識があるか極めて疑問です。おそらくですが精一杯頑張って判決文を読んだぐらいでコメントしている程度であると考えられます。もちろんその判決文も「患者の立場で医療訴訟」の目でしか読んでいないでしょうから、とても「内容を精査」しているとは思えません。もちろんそういうお立場の方ですから、こういうコメントになるのはある意味当然ですが、一体このコメントに神戸新聞は何を期待しているか意味不明です。

記事全体の構成は加古川の事件の医療現場への深刻な影響を伝えています。それぐらいインパクトのある事件だからです。それを「患者の立場で医療訴訟」の弁護士の不勉強なコメント一つで打ち消す効果を狙っているのでしょうか。記事の構成上、そうとしか受け取り様がないのですが、打ち消し効果の対象である医師にとっては効果がないどころか逆効果の燃料にしかなりません。まあ、裏を読んで逆効果を期待しているのなら大したタマですけどね。

この判決の複雑さは判決文で現れた事実は氷山の一角です。原告側の弁護士はよほど辣腕であり、一方で病院側の弁護士はよほどボンクラであったらしく、訴訟にはこの判決のキモになる部分が影も形も残っていません。つまり消されてしまったという事です。ここでまず言っておかなければならないのは、医師、とくにネット医師は訴訟ではすべての事実など列挙されない事は既に常識です。

訴訟とは原告は被告に責任があるよう、被告は責任が無いように主張を組み立て、それに適合するように証拠や証言をちりばめるだけです。双方は自らに不利な事実は可能な限り伏せ、有利な事実は極限まで主張します。医師側が伏せたらすぐに「隠蔽」と非難されますが、訴訟においては極めて常識的な戦術であり、誰からも非難されることではないと言うことです。訴訟は綺麗事の世界ではなく、言葉の喧嘩の世界なのです。

被告原告の双方が主張する「事実」を本当にあったかどうかを認定するのは裁判官の心証です。つまり訴訟では本当にあったかどうかは問題ではなく、裁判官が事実が存在したかどうかを認めるかが問題になります。たとえばある事実があり、被告原告双方が知っていたとしても、訴訟において不利となれば、これを「無かった」と主張する事はごく普通に行われます。「無かった」を裁判官が心証で認めれば事実は法廷から消えうせます。法廷における事実認定とはそれ以上でもそれ以下でもありません。

今日は別に司法批判を行なうつもりではありません。そういうルールの下に訴訟は展開されるというだけの事です。判決は裁判官が事実と心証で認めた部分で判断されます。裁判官も人の子ですから事実と心証で認定した事に誤りがあるかもしれません。誤りがあるかもしれないので三審制があり、三審制があっても誤審は存在します。それが訴訟であると言うだけです。


加古川の事件が医師に与えた衝撃は訴訟で認められた事実部分だけでも十分衝撃的です。事実認定された部分に対する専門家としての議論はありますし、担当した医師が完璧な対応をしたかと言われれば、残念ながら一部に後日検討したら「こうするべきだったかもしれない」はあります。それでも専門外である医師が行なった処置としては満点ではないが合格点はつけてもよいんじゃないかと言うのが結論です。

合格点と言う評価は、休日の「多忙」かつ「手薄」な時間外診療のさなか、消化器の医師が循環器疾患の対応を精一杯行なったという点でのものです。平日の十分な体制で応援を期待出来る体制と休日では根本から違うからです。満点ではないが合格点であるのに責任を問われたのでは「やってられない」と医師なら誰でも感じます。

さらに加古川の事件の衝撃は上記した通り、合格点から満点に近づく事柄が事実認定されなかった点です。この事件に関してはとくに地元であるので、本当の真相の情報は複数どころでないルートで入手しています。訴訟でたとえ事実認定されなくとも厳然たる事実として存在します。それでも訴訟では事実認定されず、事実認定されなかったがために、その間の担当医師の懸命な努力は「無かったこと」にされています。つまり事実認定されなかった時間帯は医師は漫然と放置していたにされています。

そのうえで、病院側はその時間帯の事実認定に不熱心であった事も分かっています。これもまた事実で控訴すら行なっていません。医師側から見ると「病院は医師をディスポの様に切り捨てた」です。医師はそういう事実の「内容を精査」し「冷静な対応」を取るようになりました。こういう事は加古川だけの特殊性と判断する材料に乏しく、全国でも普遍性をもつ状態とも判断しています。

強いて特殊性といえば、裁判官が橋詰均氏である事、また鑑定にあたった医師が森功氏であったことぐらいです。かなりの特殊性ではありますが、これだけでは普遍性の判断を覆すものとして力不足です。「どうせ判決文など読んでいないだろう」と「患者の立場で医療訴訟」の泉弁護士は高を括ってコメントしたのかもしれませんが、判決文で事実認定された事柄だけではなく、事実認定されなかった真実まで含めて「内容を精査」して「医師向けのブログ」では「冷静に判断」しています。