浄土と言っても宗教のお話ではありません。聖地を越えるネーミング募集の続編としての浄土ですから、その点は誤解無いようにお願いします。
あの時にはたくさんの意見を寄せていただきましたが、私の受けた印象としては、やはり聖地を越えるのは浄土しかないと感じます。他の意見も秀逸なものが多数あったのですが、聖地と言う言葉を踏まえ、さらにそれを越え、関連性を失わず、なおかつ意味深なのは浄土が一番と考えます。ただ、ここで気になるのはお弟子様の意見です。
浄土は複数あると変な感じがします。また歴史的経緯からいっても、舞鶴はやっぱり聖地という呼称が似合っており、別の名称に変わるのには違和感があります。
ここは聖地を格上げし、その下に「霊場:崩壊確定&有名化」、さらにその下に「札所:崩壊進行形」というのを作るのがよろしいかと。
”あぁ最近霊場指定されたあそこね”、”うちのとこは最近札所になったんだ”なんて会話が交わされる時代が来るかもしれません。でもまさか88カ所札所巡りなんてのは誰もやらないとは思いますね(2年前の夏休みには金木病院とか恐山とか見てきた私が言うのも何ですが)。
浄土に対する異論は2ポイントあり、
- 浄土が複数は違和感がある
- 聖地として定着している有名どころを浄土にするのも違和感がある
精神的物質的に何らの潤いを感ずることのない穢土に対して、浄土とは清浄で清涼な世界である。このような清浄の世界は正しく仏の国である。したがって、浄土とは仏国である。
『維摩経』には「その心浄きに随って、すなわち仏土浄し」といい、また『心地観経』には「心清浄なるが故に世界清浄なり、心雑穢(ぞうえ)なるが故に世界雑穢なり」とあるように、世間の清浄であることは心による。すなわち、国土の浄不浄はそこに住む人の心によって決定づけられる。
そこで、真実の浄土は仏の住居する処であり、成仏せんがために精進する菩薩の国土である。この点で、浄土は仏土である。しかし浄土は仏土であるが仏土は必ず浄土ではない。仏の教化対象の世界も仏土であるから、凡夫の世界も仏国でありうる。よって、仏国とは仏の住まいし、また教化する世界のすべてをいうから、浄土は成仏を目標とする菩薩の世界である。
このような浄土について種々に説かれる。それらの中でも阿弥陀仏の西方極楽浄土は有名だが、この外に阿閦仏(あしゅくぶつ)の東方妙喜世界、薬師仏の東方浄瑠璃世界、釈迦牟尼仏の無勝荘厳国など知られている。その意味で、浄土という語は一般名詞であり、固有名詞ではない。
お手軽ですが、なかなか意味深な事が書かれています。
- 浄土とは清浄で清涼な世界
- その心浄きに随って、すなわち仏土浄し
- 心清浄なるが故に世界清浄なり、心雑穢なるが故に世界雑穢なり
-
国土の浄不浄はそこに住む人の心によって決定づけられる
-
浄土という語は一般名詞であり、固有名詞ではない
次は聖地との関係です。ここが難しいところですが、単純には浄土は聖地のさらに進んだところと定義するのは一つです。ただそんな定義では浄土が余りにも増えすぎますし、聖地の言葉の意味が軽くなりすぎます。そこで聖地と浄土は序列として並ぶのではなく、並列関係に近いもを考えて見ます。これまで聖地認定された場所は、幾つかに類型化されると考えています。具体的には、
- 病院が聖地
- 住民が聖地
- 病院も住民も聖地
-
病院:聖地
住民:浄土
ニュアンス的には聖地であるだけなら、病院内の改善により聖地を脱却する事は不可能ではありませんが、浄土であれば既に医療者の手の離れた状態になっていると言えます。浄土にある病院はこれから存続が難しくなるでしょうし、浄土にある聖地となると、完全にフラグが立つ状態とも考えられます。
難点として聖地を越えるネーミングにはなりませんでしたし、細部のツメが甘いところがあるのですが、これぐらいを叩き台にしておいてご意見を下されば嬉しいところです。