医師当直問題とパンドラの箱

まずはwikipediaより、

 プロメーテウスが天界から火を盗んで人類に与えた事に怒ったゼウスは、人類に災いをもたらすために「女性」というものを作るよう神々に命令したという。

 ヘーパイストスは泥から彼女の形をつくり、パンドーラーは神々から様々な贈り物(=パンドーラー)を与えられた。アプロディーテーからは美を、アポローンからは音楽の才能と治療の才能を、といった具合にである。そして、神々は最後に彼女に決して開けてはいけないと言い含めて箱(壺ともいわれる 詳細は後述)を持たせ、さらに好奇心を与えてエピメーテウスの元へ送り込んだ。

 美しいパンドーラーを見たエピメーテウスは、兄であるプロメーテウスの「ゼウスからの贈り物は受け取るな」という忠告にもかかわらず、彼女と結婚した。そして、ある日パンドーラー(エピメーテウスという説もある)はついに好奇心に負けて箱を開いてしまう。すると、そこから様々な災い(エリスやニュクスの子供たち、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などなど)が飛び出し、パンドーラーは慌ててその箱を閉めるが、既に一つを除いて全て飛び去った後であった。

 最後に残ったものは希望とも絶望とも、未来を全て分かってしまう災い(予兆)ともいわれる。それによって人類は希望だけは失わずにすんだと言われる。こうして、以後人類は様々な災厄に見舞われながらも希望だけは失わず(あるいは絶望することなく)生きていくことになった。

 この神話から、「開けてはいけないもの」、「禍いをもたらすために触れてはいけないもの」を意味する慣用句として「パンドラの箱」という言葉が生まれた。パンドーラーはその後、エピメーテウスと、娘ピュラーと、ピュラーと結婚したデウカリオーンと共に大洪水を生き残り、デウカリオーンとピュラーはギリシャ人の祖といわれるヘレーンを産んだ

有名な神話ですからご存知かと思いますが基礎知識として紹介としておきます。このパンドラの箱の喩えは様々に使われます。大きく分けて2つで、

  1. ある事態をキッカケに思わぬ悪い事態の展開になること
  2. ある問題に触れる事が悪い事態の展開が予想されること
僻地の産科医様が文字起こしされた4/14付の参議院厚生労働委員会の一節にこういう下りがあります。梅村聡議員の質問部分ですが、

 これあの、会社を経営されていたとお聞きしましたけれど、例えば銀行から企業が融資を受けるときもこのモノを単価いくらで売るのかと。どれくらいの収益が出るのかという計画を出さないと銀行はお金なんか貸してくれないんですよ。うどん屋さんでうどん一杯いくらで売るんですかと。いや、それはいえないよ企業秘密だからと。

 それで融資なんか受けられないわけで、ですから私が三つ目の観点として先ほど労働基準局の方に反論として本当の正しい働き方、それによる医療の提供の仕方。これによることでパンドラの箱をあけることになるかもしれませんけれど、いままさにここに切り込まないと、国民負担の問題にもつながってこないんです。医療費を増やすということにもつながってこないんです。

 ですからここは労働基準局からいうと今の制度の中でのしくみということを仰られますけれど私はここは勇気を持ってパンドラの箱を開けて議論をする時が来ていると思いますが、それに対して舛添大臣が取組むつもりがあるのか、そのパンドラの箱を開ける決意がおありになるのかどうか、最後にお答えいただきたいと思います。

この質問部分の簡単な背景説明ですが、医師当直問題を労基法に少しでも近づけて運用すれば、勤務医の待遇改善にはつながるかもしれないが、病院経営を圧迫し医療費増大の要因になる危険性を含めての質問です。もちろん医師自体が労基法運用を満たすだけの人数に遥かに不足していますから、医療体制の大幅な変更も必要になるという意味も含んでいるとしても、そんなに間違ってはないでしょう。

ここで使われたパンドラの箱の意味ですが、「ある問題に触れる事が悪い事態の展開が予想されること」に近い意味で使われているように感じます。こういう意味での用法はしばしば使われますし、例えば長年に渡って論議のタネであった自衛隊憲法9条の問題などはそれに近いかもしれません。

ただなんですが、神話でもそうなんですが、存在の知られたパンドラの箱は必ず開けられるものだと考えます。神話では好奇心でしたが、現実社会では好奇心に加えて必要性からです。また神話では開けてみるまで人間は中身を知りませんでしたが、現実社会では内容も開けた時に生じる問題点もほぼ分かっています。つまり存在が認識された時点で封じ込める事は非常に難しくなるのがパンドラの箱だと考えます。


医師の当直問題は時間外勤務の問題に波及し、医師の絶対数の不足が露呈します。これまで医師が5人程度でも、「人数が確保されたので、24時間365日体制を取ります」なんて記事がよくありました。よく考えなくとも5人程度の人数で24時間365日のカバーなんて、普通の状態で可能なわけがありません。体力的な問題は医師の気合でカバーしてきたのが実情ですが、経営的には本当は莫大な時間外手当・休日手当が発生します。

たとえば5月なら1ヶ月に744時間のカバーすべき時間があり、このうち正規の勤務時間は160時間ほどですから、残り580時間ほどの時間外手当・休日手当を支払わなければなりません。あくまでも概算ですが、時間外手当の割増率は平均で37%ぐらいになり、休憩時間も考慮に入れると時間外1人体制でも、正規勤務に換算して690時間程度の時間給が発生します。

690時間と言えば5人分の正規勤務時間に匹敵するほどの長さですが、これが当直になれば200時間弱程度の負担で済むのが当直問題の一つの側面です。もちろん時間外勤務の上限問題もあり、それらをすべて封印してきたのが当直問題におけるパンドラの箱です。少しまとめると、

  1. 時間外手当の出費削減
  2. 時間外勤務時間の上限回避
  3. 上記の項目の効果による医師数節減
これが問題にならずに封印されてきたのは医師が気にしなかったからです。問題とも考えず、封印された条件で働く事が医師であると誰も信じ込んできたからです。今だって信じ込んでいる医師は少なくありません。誰も知らないパンドラの箱は、安全に封印され続けてきました。

ところが当直問題におけるパンドラの箱の存在は既に知られています。存在が知れた箱の封印を続けることは神話でも、実社会でもほぼ不可能です。必ず開けられるとしてよいでしょう。もう少し言えば、神話のパンドラの箱は内容は何か分かっていませんでした。内容が分かっていないからこそ好奇心から開けられたのですが、実世界のパンドラの箱を開けると言う意味は少し違うように考えています。

実世界のパンドラの箱は物理的な箱ではありません。存在を知られていない、もしくは存在に無関心である事が封印された状態であり、これが開けられるとは、内容が流布され、その内容が問題視される状態だと考えます。そう考えると医師当直問題のパンドラの箱を開ける、開けないの論争自体が無意味であり、既に開け放たれ、中身は飛び散ってしまっているとする方が適切かと思います。

神話のパンドラの箱は封じ込められていた禍が世の中に広がり、今もその禍に人間は奔走させられているとされます。医師当直問題のパンドラの箱から飛び出したものに、どういう対策を行なうかが注目されます。どうにもなんですが、その対策は魑魅魍魎が蠢く世界のように感じて寒気がしてならないのが不思議です。神話のパンドラの箱の中身への対策が永遠に解決しない問題であるように。