医師の不足感を考える

ほんの2年前まで厚生労働大臣だけではなく総理大臣まで力説していた医師の偏在ですが、私は無かったと考えています。2年前になると自信はありませんが、少なくとも新研修医制度施行前は無かったと言っても良いと考えます。無かったは本当は適切な表現ではなくて、実際のところは都道府県レベルでも偏在はあり、市町村レベルでも偏在はありましたが、偏在が原因による不足感は無かったと言ってよいと思います。

不足感はどの病院にもありましたが、これは程度に差こそあれ全国共通の現象であり、どこも均等に不足感があり、勤務医はどこに勤務しても同じような不足感を感じていましたから、さして不満も感じず働いていたと考えます。それ以外にも要素はありますが、かつては、

    どの病院もほぼ均等に医師が不足していた
ここで都道府県格差をなぜ感じなかったかですが、ほぼ全国を支配していた医局人事のためだと考えます。医局の支配権が圧倒的であった頃には、勤務医を行なうというのはイコールで医局人事に従うでありました。当然といえば当然ですが、勤務医は医局の派遣病院間を異動するだけになり、派遣病院の医師数は医局がそこそこ均等にしますから、どこに勤務しても均等の不足感を味わう寸法です。まったく均等でなくとも許容範囲内の格差といえばよいでしょうか。

人間は足りないことより、差がつくことのほうが敏感ですから、どこに勤務しても同じように医師不足感を感じれば、病院の勤務医の仕事はこんなものだと思い込むものですし、どこも同じなら案外不満は出ないものです。医局人事の功罪自体は長くなるので深くは触れませんが、医師の均等配置に関しては、医師個人の意志を押し潰すという負の面と引き換えに保っていただけではなく、医師個人にも不足感を感じさせないでいたと言えるかも知れません。

このマジックにより勤務医からさして不満が出ていなかったのですが、不満が出ないことを「満ち足りている」と誤認したところがあります。OECD諸国で最低レベルの医師数で、日本は一級の医療レベルと、低価格の医療費、そして世界でもダントツのアクセスの良さを達成したと誤認していたところです。少しでも頭を使えば分かることですが、クオリティ、コスト、アクセスが並立するはずもなく、並立したように見えたのは「世間知らず」の勤務医が猛烈に働いて支えていただけのことです。

その証拠にクオリティ、コスト、アクセスの並立と言う世界医療の奇跡が起こった医療体制ですから、これを参考にして導入したいという国があっても良いはずですが、どこも参考にすらしていません。そんなカラクリがあるにも関らず、医師は満ち足りているし、誰も不満を言わず余裕綽々で仕事を行なっているとし、足りないどころか余ることをひたすら心配していた状態が日本でした。

この誤認が頂点に達したのが新研修医制度の導入かと考えています。この制度には表の狙いと裏の狙いがあるのですが、裏の狙いは勤務医の人事権を握っている医局を弱体化させ、勤務医の人事権を厚労省が握るという政策です。おそらくですが、満ち足りている医師は医局と言う装置がないと勤務病院を探すのに悲鳴を上げるはずだの計算だったかと思います。

医局さえ弱体化させれば、医師は勤務場所の斡旋を求めて厚労省に泣きつき、厚労省は医師の願いにより官製医局を設立し、医師の人事をやがて一手に掌握できるはずだの戦略であったと考えます。新研修医制度の導入は狙い通り医局の弱体化を招きました。ここまでは計算通りでしたが、重大な誤認が発覚することになります。医師は満ち足りてなかったのです。

医師は満ち足りていたわけではなく、満遍なく不足していただけの事だったのです。医局の弱体化により医局人事の強制力が低下すると、一部の医師が希望病院に自分の意志で異動する現象が起こります。言っておきますが、ほんの一部の医師がです。その結果起こったことは、満遍なく不足していた状態から、

    破滅的に不足した状態
    不足した状態
    そこそこ足りた状態
こういう風に偏在が進むことになります。これまで満遍なく不足していたので、医師が希望すれば勤務は容易であったということです。ここで「医師が余る状態」を設定しなかったのは、医療費削減政策では医療経営的にそれは不可能だからです。医療も経営であり、余計な医師を雇う余力はどこにも無いという事です。別に経営に余裕があっても余分な人間は雇わないのは経営のイロハです。つまるところ厚労省が期待した就職に困る医師の出現は起こる余地など無かったということです。

もう一つ重要なことがここで起こっています。こういう偏在が生じたことにより、不足に格差がはっきり見えたことです。医局支配時代も不足はしていましたが、派遣病院のどこに行っても同じように不足していたため麻痺していた不足感が、はっきりと感じるようになったことです。人間は格差の無い不満は耐えられても、格差のある不満に対しては敏感です。

同じ激務であってもどこに行っても変わり映えしないとなれば、「そんなものか」と思いますが、目に見える格差として病院で差があれば、見の振り方を考えます。医局のタガは緩んでいますから、その気になれば選択枝は幾つもあります。格差の下のほうの病院であると自覚してしまえば、上を目指そうという気持ちに医師でもなります。

なんだかんだと言っても、医局の弱体化によりフリーで移動を行なった医師数は全体からすると大した数ではないと考えています。あくまでも憶測ですが数%程度だと考えています。どう多く見積もっても10%は超えないと思います。しかしその程度の数の医師が自由な意思で勤務先を選んだだけで地方医療は青息吐息どころか、瀕死の状態に陥るところは今や珍しくありません。それぐらい満遍なく不足していたということであり、ほんの少しの移動で足りないから破滅的に足りないになったと考えます。

不足感を持ったというのは重大な意識変化です。不足感は充足への願望につながります。言い換えれば自分の病院より充足しているところがあれば、そのレベルへの充足が欲求として生まれ、さらにはより充足している病院への移動願望が生まれます。不足感は持たせないようにするのには膨大な時間がかかりますが、持つようになるのは短期間で十分であり、持てばまず消えることはありません。医師が労基法に敏感になったのも不足感に起因しているところは小さくないと考えています。不足感が無い時代は誰も労基法なんて関心すらなかったからです。


医師が不足感を濃厚に感じた構図は、基本的に不足していた事実を前提として、

    厚労省が医師人事掌握の野望実現に動く → 医局弱体化 → 一部の医師が自由に動くことによる偏在形成 → 医師が目に見える格差を実感する
医師が満ち足りているの誤認から始まった厚労省政策でしたが、結果として残ったのは医師の不足感の表面化です。実態として不足しているのを実感として感じさせる意識の変化です。もう起こってしまった事はどうしようもありません。もう一度不足感の無い状態に戻すのは、時間を逆流させるぐらい困難なことです。発端である新研修医制度をどういじろうが、取り戻せるものではありません。たとえ完全に元通りにしても、覆水は盆には返らないと言う事です。

今となってはそういう変化が良かったのか、悪かったのかは不明です。もしも新研修医制度の妄動が無くとも、実態としての不足感は年を追うごとに厳しくなっていましたから、どこかで炸裂したかと考えます。それが早くなっただけと考えれば、罪ばかりでなく功もあったとは言えますから、長い目で見ればgood jobであったかもしれません。回る因果の糸車状態みたいな感じです。

もっとも新研修医制度を諸悪の根源みたいに考えて、それをいじくりまわす事により事態の解決を考えようとする周回遅れの方々は笑えます。新研修医制度は引き金であって、事態の展開は不可逆性の大きな変化を引き起こしているのです。これは新研修医制度と言う引き金の形をどう変えても対処できない変化と考えています。どういう時代が次に来るのか、良いか悪いか分かりませんが、新時代の扉は開け放たれ、そこに既に突入してしまっています。