刈谷豊田産科医時間外訴訟

事情を知っているのでかえって書きにくいのですが、告訴を起した医師は私程度か、もうちょっと労基法に詳しい人物であり、現在の勤務医の環境に静かな怒りを燃やされている方です。静かと言うより「激しい」かもしれません。ただ誤解無いようにお願いしたいのですが、仕事はキッチリされます。現役の産科医ですから、やらなければならない仕事はもちろんの事、キャラからなのかそれ以外の仕事まで抱え込んでしまう性分です。

産科医が激務であるのは説明の必要もありませんが、とりあえず刈谷の病院の給与と言うか時間外手当の支給に目を剥く事になります。まあ、「目を剥く」とは言いましたが、どこでもありがちな年棒制というやつで、最初は時間外手当が深夜休日以外にはまったく支給されず、この産科医の抗議で「月に50時間以上(階級によって違うけれど)の時間外手当なら支払う」と改定されたなんて経緯でした。

月に50時間の「みなし残業」もそれで給与が増えるというものでなく、従来通りの給与(むしろ減ったらしい)で名目だけ時間外手当が出来上がったみたいなものだったそうです。まあ、刈谷と他所の違いは書類で明示したか、裏でやっているの違いぐらいでしょうか。細かいその他の事情は色々あるんですが、これに対し積極的な行動を取ることになります。

そこで基本情報のまず収集です。時間外手当と言えば抑える基本は、36協定の有無と労基法41条3号の宿日直許可です。でもって労基署に情報公開を要求したら案の定「無し」です。いつも思うのですが、労基法にブラックな病院は運用どころか基本から抜け落ちているのが判ります。ただ医師以外の36協定はあったらしく、これを病院に開示を要求したらなんと黒塗りであったというから驚かされました。

他にも告訴に必要な資料を可能な限りそろえ、告訴状を用意してまずは労基署に相談です。これが去年の夏のお話です。用意周到な事に入職時から小まめに必要情報の確保に努めていたのもあります。

ここでなんですが、例の記事はこの時の告訴が報道されたものではありません。労基署はいきなり告訴状を持って訪れても、ほぼ100%受理しません。すべて相談と言う形で流すのですが、告訴状を用意したのは「本気の相談だぞ」のパフォーマンスと言うか、これも約束事のようなものです。その時の幻の告訴状の内容です。

2009年4月に愛知労働局に請求した情報公開資料によれば、被告発人 刈谷豊田総合病院 病院事務長、病院管理部長、人事企画室、病院長らは、労働基準法37条に定める時間外賃金の支払いを免れるため、刈谷労働基準監督署長の許可による当直許可が存在しないにもかかわらず、当直料と証して給与支払いを行い、かつ管理職については、経営者と一体と見なせる要件を満たしていることが必要であるにもかかわらずいずれにも該当しない勤務医すべて(研修医に関しては就業規則に明記までされている)に時間外手当を支払わないばかりか、そもそも医師との間に36協定が存在しない(刈谷労働基準監督署による情報公開による情報入手であった)資料時間外労働を行わせ、共謀して違法な通知および違法な給与支払いをおこなったものである。4月より上記につき、文書にて(提出資料)指摘をしたところ、36協定がない事実を隠蔽したまま、事前契約書にないみなし時間外勤務として違法な時間外労働時間を含める不利益変更を行おうとたくらみ、大変悪質であると考えられる。また。休憩時間として1時間以下の時間しか設定せず、連続して勤務を行わせている実態がある。以上の事実を知りえたため、違法行為としてここに記す。


これで告訴こそ受理されませんでしたが、労基署は動く事になります。労基署の監査が入ると大騒ぎになるのですが、早速の病院側の反応は告訴した産科医を放逐する事。もちろん表立ってやれば犯罪ですから、医局に根回しして人事異動の形で放逐です。ここは医局を弁護しておけば、病院から医局に要請が入り、部長が医局に呼びだれる段取りになります。そこでの顛末ですが、

「長々と顛末を話したら、
 教授、先生のことグッジョブだって。
 産婦人科医の鏡だって。
 おまえはナニ指くわえてみてたんだって」

ここで労基署がスムーズに動けば話はさしての新聞沙汰にもならずに終わったかも知れないのですが、ここから七転八倒が続く事になります。滑り出しは順調だったようで、労基署からの連絡で、

  • 当院には当直許可があったのか?

      当直許可以前に、届けもなかった。
      当直“料”として扱うことはありえない。
      また実態として通常業務の延長であるために、
      今後も当直許可を当該基準監督署から出すこともない。


  • 時間外手当はもらえますか?

      それはもう、勧告を出すことはすでに決定しています。
      あとは当直中の分の判断だけですね!

このあたりでは労基署は「さすが労働者に味方」と拍手していたのですが、私は一抹の不安を持っていました。なんつうても相手はただの病院ではなく、地元のメガ企業グループの一員です。いや地元どころではない日本のメガ企業グループの一員です。黙って叩かれっぱなしで終らないと思っていたら、不可解な動きが労基署に生じます。

あくまでも不可解なだけで、メガ企業グループの影響力が行使されたかどうかについては一切不明です。それまで前向きに対応していた労基署担当者が突然異動になります。それだけでなく後任者は

「当直は当直だもーん」(←おいおい。当直許可ないのに)
「医者の業界ばっかりじゃないでしょ!?そんなに手が掛けられないの」
「恵まれてるジャン!仕事があるんだから」


でもって時間外手当の支給(みなし50時間以上の分)は、「調整手当」の名目で幾分かは産科医には支払われたようなのですが、それ以外の医師には寸志程度のものでお茶を濁すの挙に病院側は出ます。さらに労基署の担当は変わるのですが、次の担当者がなかなかで、例の医師の宿日直の是正の通達に対し、

「あれは過労死が出たときの一時的なお触れで関係ない。」
と鼻で笑ったうえに、
「もう調査する気ないし、あんた関係ないじゃん!
 もう退職したんでしょっ!!!!!」

ちなみに産科医は刈谷トットと退職させられています。労基署がこれ以上動く気がないとなって思いついたのが「各都道府県労働局の労働基準部監督課」です。さらさらと経過を書いていますが、ここまでに断続的に産科医による労基署詣が延々と続いており、この辺りで話は今年の6月になっています。

それでも、なかなか話のラチが進まないと判断し、ついに弁護士を立てる決断をする事になります。そこでの弁護士の判断ですが、

「これは多分、内容証明のやり取りくらいでパパっと済んじゃうと思う。
 応じなかったら相当のアンポンタンだよね。」

弁護士は、企業側の労働関係も取扱う事もある弁護士さんなのだそうですが、そういう弁護士が見ても「そもそも争う余地なし」みたいな内容であったと言う事です。それでもって内容証明で病院に送られた一部を紹介しておきます。

 実務上解釈準則となる通達によれば、宿日直は、所定労働基準監督署長の許可を受けた場合であって、当該労働者の本来業務は処理せず、構内巡視、文書、電話の収受又は非常事態に備えて待機するもの等であって常態としてほとんど労働する必要がない場合に限り、割増賃金の支払義務を免れることになります。

 しかし、通知人は、曜日や時刻等に関わらず発生する緊急帝王切開や経膣分娩を当直・日直のときでも所定労働時間と同様に行ってきました。貴院産婦人科は、平成21年度の分娩数は1000件を超えるほどの多数であり、多忙を極める貴院において、通知人は、分娩のみならず回診などの通常業務も、当直・日直の勤務中に行ってきました。

 このように、本来的業務を所定労働時間と変わらず行ってきたという勤務実態からすれば、当直・日直の時間は、時間外割増賃金、深夜割増賃金および休日割増賃金支払いの対象となることは明らかです。

 裁判例においても、本件と同様の事案について割増賃金の支払義務を認められております。

病院がアンポンタンかどうかですが、結果は御存知の通りアンポンタンでした。「当院には労基法違反は存在しない」と頑張られたのです。論拠は調整手当を払ったから話は決着しているとの趣旨です。

ここの事実関係が少々複雑なのですが、話は何をもめているのかになります。調整手当として病院側から支払われたのは当直時間以外の時間外手当と考えてよいようです。問題は当直時間中の時間外手当です。病院側は「当直時間は当直料を支払っているから労基法問題は存在しない」としていると考えてもらえれば良いかと思います。

告訴状の一部を引用しておきます。

  1. 名目上、宿直・日直勤務とされていても、原則として割増賃金の支払義務があり、例外的に「監視又は断続的労働に従事する者で、使用者が行政官庁の許可を受けたもの」である場合に限り、割増賃金の支払い義務を免れる(労基法41条3号)。宿直・日直については、さらに労働基準法施行規則23条に規定があり、「使用者は、宿直又は日直の勤務で断続的な業務について、様式第10号によって、所轄労働基準監督署長の許可を受けた場合」に限り、労働者を、法第32条の規定にかかわらず使用することができると定めている。

     そのため、所轄労働基準監督署町の許可を受けていない限り、使用者は、割増賃金の支払い義務を負う。


  2. 原告は、平成21年4月1日付で、愛知労働局に対して、行政機関の保有する情報の公開に関する法律に基づき、被告が宿日直勤務について所轄労働基準監督署長の許可を受けているかどうか調査したところ、断続的な宿直又は日直勤務許可申請書及び許可書は、申請がないため存在しないとの回答を得ている(甲5)。


  3. したがって。被告は、宿日直について所轄労働基準監督署長の許可を得ておらず、割増賃金の支払義務を負う。

他もいろいろ書いてあっておもしろいのですが、私はここだけでも十分なように思います。書いてあることは非常に簡明で、宿直・日直が給与の上でも宿日直手当で済むには、許可が必要であると言う事です。その許可が労基法41条3号によるものです。労基法41条3号の許可がなければ、いくら使用者側が就業規則で「当直です」とがんばったところで、これは単なる時間外労働になります。

労基法41条3号の宿日直許可があって初めて、「この時間は当直業務」「この時間は日常業務」の切り分け論争が可能なのであって、宿日直許可がなければ、いくら強弁しても単なる「時間外勤務」です。これは9/22付中日新聞の記事からですが、

 刈谷豊田総合病院は就業規則で、時間外労働となる深夜勤務は通常の八割増、休日勤務は四割増の賃金を支払うと規定。だが宿直、日直にはこれを適応せず、半年の勤務期間中、計八十四万円の当直手当を払っただけだった。医師は昨年九月末に退職。割増賃金を計三百六十四万円と算定し、差額を求めている。

つまり病院側が払ったのは、無許可の宿日直手当「84万円」であるわけです。後は「(無許可ながら)当直時間だから払う必要はなく、労基法違反も存在しない」としている事もわかります。

私の狭い知見ですが、労基法違反は訴訟沙汰になってしまえば使用者側より労働者側の言い分が強く認められる部分はあると感じています。今回も病院側の言い分を認めてしまえば、無許可の宿日直でも使用者側が「当直だ!」と規定さえすれば賃金を払う必要はなくなってしまいます。そんな言い分が法廷で果たして通用するかどうかが見ものです。

後は告訴状を引用しませんでしたが、奈良産科医時間外訴訟と同じで、当直時間中の勤務実態も通常勤務である事をしっかり指摘しています。端的な証拠を一つ挙げておきますと、これは刈谷の病院の産婦人科のページからで、まず分娩件数ですが、

    平成17年度 534件
    平成18年度 657件
    平成19年度 824件
    平成20年度 909件
    平成21年度 992件

分娩件数の曜日分布もグラフで示されており、

もう一つこれは直接は関係ないかもしれませんが、これは病院概要に記載だけされているもので、
    ハイリスク分娩管理加算
これも取得しています。参考資料にある「基本診療料の施設基準等及びその届出に関する手続きの取扱いについて 保医発第0305002号」よりますと、ハイリスク分娩管理加算の「病院勤務医の負担の軽減に対する体制がとられていること。」として、

  • 病院勤務医の負担の軽減に資する具体的計画(例:医師・看護師等の業務分担、医師に対する医療事務作業補助体制、短時間正規雇用の医師の活用、地域の他の保険医療機関との連携体制、外来縮小の取組み等)を別添7の様式13 の2の例により策定し、職員等に周知していること。


  • 特別の関係にある保険医療機関での勤務時間も含めて、勤務医の勤務時間を把握するとともに、医療安全の向上に資するための勤務体系を策定し、職員等に対して周知していること。(例:連続当直は行わないシフトを組むこと、当直後の通常勤務について配慮すること等)

職員であり、ハイリスク分娩管理加算の直接の対象者である原告の産科医は、こんな加算について聞いた事も無かったのは言うまでもありません。ちなみに当時は実質産科医8人体制であったと聞いています。一種のブラックジョークみたいなものです。

個人的には請求があった時点でトットと支払った方が病院のキズは小さかった様に思います。原告側の弁護士も通常の企業側感覚として、「こんなものを争った方が、かえって損だ!」と当然のように「判断するはずだ」と考えていたと思われます。でも刈谷は正面から争うつもりのようです。病院側のレトリックが大変楽しみです。