日曜閑話18

今日のお題は「忠臣蔵」。やっぱり12月14日ですから、ちなみたいところです。現代のカレンダーにすると1月30日になるそうですが、それでも12月14日でしょう。

忠臣蔵といえば播州浅野家ですが、浅野家は秀吉と縁の深い家です。言うまでもありませんが秀吉の妻である北政所の実家ですから相当深いのは間違いありません。浅野家もまた秀吉の出世に伴って大きくなり、秀吉政権下では五奉行まで務めています。浅野家にとって幸運だったのは北政所が関が原の時に家康側についた事です。当主であった浅野長政も積極的に家康に加担し、長政の息子の幸長も出来物であったため、私が記憶している限り唯一と思っていますが、豊臣恩顧の大名の中で江戸期を大大名として生き延びています。

浅野長政は関が原の後隠居します。隠居時には本領とは別に隠居料を常陸真壁に5万石貰うことになります。この長政の隠居料が播州浅野家の始まりとなります。長政死後は三男の長重がこれを継ぐのですが、あとの変遷がちょいと複雑です。

事柄
1606 長政、隠居料として常陸真壁5万石を拝領
1611 二代長重がこれを継ぐ
1622 常陸笠間に国替え
1632 三代長直が継ぐ
1645 播州赤穂に国替え
1671 四代長友が継ぐ
1675 五代長矩、9歳でこれを継ぐ


目に付くのは藩が出来て40年足らずの間に二度の国替えが行なわれている事です。国替えはとくに江戸初期は頻々と行なわれていますし、浅野本家も紀伊から安芸への国替えをしています。国替えが行なわれる背景は様々で、功績として領地が拡大されたもの、逆に罰則として領地が削減されたもの、幕府の防衛上配置を換えたものなどがあります。播州浅野家の場合は領地の増減はほとんど無かったと考えて良さそうですが、とにかく国替えには費用がかかります。

最初の「常陸真壁 → 常陸笠間」の国替えの理由はよく分かりませんが、「常陸笠間 → 播州赤穂」は播州浅野家が積極的に運動をした傍証があるとされます。江戸期は一般的に東日本より西日本のほうが主要産業である農業が豊かであり、同じ石数であっても実収はかなり違ったとされます。三代長直は笠間では藩の経営が困難と判断し、幕閣に働きかけて播州赤穂への国替えに成功したと言われています。

5万石程度の大名の運動で幕閣が動くかどうかが基本的に疑問なんですが、浅野家も外様ですから江戸に近い笠間より、遥かに遠い播州赤穂の方が配置として好ましいぐらいは考えた可能性は有ります。ただ運動と言ってもやる事は莫大な賄賂を行う事ですし、その後の国替え費用、さらに国替えの条件とされたようである赤穂城の築城は大きな負担であったとは考えます。それでも長直の播州赤穂への国替えは結果として成功であったようで、主に赤穂の製塩業により豊かな藩を築きます。

ここでなんですが、赤穂の武士団の基本構成を考えてみたいと思います。石高は基本的に変わりませんから、長政が隠居料として藩を開いた時の武士団が播州赤穂の基本ではないかと思います。また真壁時代から笠間時代までは39年間ありますから、この間に新加入した武士もいるとは思いますが、播州赤穂に国替え後は財政逼迫もあり、そうそう新加入は無かったんじゃないかとも思います。

大石内蔵助の大石家の経歴を見ると、先祖は豊臣秀次にも仕えたようですが、内蔵助の曽祖父の代に浅野本家に仕え、夏の陣の功績で二代長重の永代家老として取り立てられています。四十七士全員を調べるのは手間がかかるのでやめますが、播州浅野家と言っても播州人が主導権を取っていた藩では無さそうに感じています。

問題の内匠頭長矩は四代長友が治世3年で急逝したために9歳で五代藩主になります。問題の饗応役ですが、計3度務めています。

年齢 役目
1682 14 朝鮮通信使饗応役
1683 15 霊元天皇勅使饗応役
1701 33 東山天皇勅使饗応役


実は長矩の祖父である長直も1668年に勅使饗応役を務めており、勅使饗応役だけで播州浅野家は3度も務めている事になります。饗応役のお仕事をwikipediaから引用すると、

饗応役(きょうおうやく)とは、江戸時代、天皇上皇・皇后より派遣されて江戸に下向してきた使者(それぞれ勅使・院使・女院使)を接待するために江戸幕府が設けた役職である。主に外様大名が任命された。御馳走役・接待役・館伴役ともいう。忠臣蔵で有名な浅野内匠頭吉良上野介への刃傷の際に勅使饗応役を務めていたことで知られる。

毎年正月には幕府将軍は、高家という旗本たちを派遣して京都の天皇上皇に対して年賀を奏上する。これに対して天皇上皇は、答礼として2月下旬から3月半ばにかけて勅使(天皇の使者)と院使(上皇の使者)を江戸へ派遣する。これが江戸時代の毎年の恒例行事であった。江戸へ下向した勅使と院使は江戸にいる間は幕府の伝奏屋敷に滞在するのだが、ここで御馳走をふるまったり、高価な進物を献上したり、勅使院使の行く先のインテリアを良くしたり、お話し相手になったりするのが饗応役である。

勅使饗応役に就任するのは、4万石から7万石前後の所領を持つ城主の外様大名、院使饗応役に就任するのは1万石から3万石前後の陣屋の外様大名であることが多かった。勅使と院使の饗応には莫大な予算がかかることから、幕府は余計な蓄財をさせない意味で外様大名ばかりを任命したのだが、武骨な大名が一人でつとめて天皇上皇の使者に対して無礼があったりしてもいけないので、饗応役の大名には朝廷への礼儀作法に通じた高家肝煎が指南役(口添え役とも)につくのが決まりであった。饗応役の大名はこの高家に対しても指南料として高価な進物を贈らねばならなかった。

赤穂藩が豊かになった代償として饗応役を務める回数が増えたとでも解釈すればよいでしょうか。ここでなんですが、

    饗応役の大名はこの高家に対しても指南料として高価な進物を贈らねばならなかった。
この指南料の多寡を巡って吉良上野介浅野内匠頭の確執が始まったというのが仮名手本忠臣蔵のストーリーですが、勅使饗応役だけで3回目の播州浅野家が、そんな初歩的なヘマをやらかしたかどうかはやはり疑問とされています。実はと言うほどのことはないのですが、内匠頭も上野介も有名な割にはその人物像がよくわかっていません。わかったように思っているのは仮名手本忠臣蔵の善玉内匠頭、悪玉上野介であって、本当はどうかはよく分からないとされています。

上野介が役目としていた高家は大名に礼儀作法を教える事です。元禄の頃には戦国期の荒々しさは既に消えうせ、大名の大きな仕事は江戸城内で行儀よく過ごす事になります。そのため儀礼を司る高家には特別の配慮がなされたとなっています。高家の不興を買って、殿中作法で恥をかかされたら大変と言う意識だそうです。そのために有力な大名は普段から付け届けを怠らず、高家のご機嫌を取っていたとされます。

そういう付け届けは結構な額になり、高家も小大名からはあくどく指南料を毟り取る事は必ずしも無かったの説があります。当時の賄賂の観念は現在とかなり違い、ある程度までは社交儀礼として当然とされていました。つまり公認であったという事です。一方で公認ではありましたが、度が過ぎるとこれは悪徳とされ、かなりの非難を浴びる性質のものでもありました。そのために、金に綺麗なところを見せておくのも重要とされています。

高家が饗応役の大名に指南料を求めるのは賄賂とは言えません。どちらかと言うと厄介な饗応役が無事勤まった事への謝礼です。あくまでも一説ですが、上野介は小大名への礼儀指南では報酬に淡白であったともされます。小大名から毟り取らなくとも、有力大名からの付け届けで十分豊かであったからだとされます。まあ、そういうところで評判を買おうとしたと言っても良いかと思います。建前上は武士が金に執着するのは好ましくないとする倫理もありましたからね。


勅使饗応役が3度目の播州浅野家と吉良上野介の間には客観的には確執が起こる余地は少ないと考えられています。それでも刃傷は起こっています。では理由はとなるとこれがサッパリ分からないのが真相とされます。内匠頭は即日切腹となり刃傷の理由となる事は具体的には書き残していません。また上野介も理由として書き残したものはありません。

内匠頭の人物像がよく分からないのは、忠臣蔵さえなければ田舎の小大名に過ぎないからだと考えています。つまり記録するほどの人物ではなかったと言う事です。赤穂藩自体は祖父の長直が築いた路線で豊かであり、内匠頭自体は治世と言っても何も具体的にする事はなかったかと思います。ただどうも短気であったんじゃないかの説はあります。短気と言うよりさらに激怒症の傾向があった傍証はあるとされます。

上野介の礼儀指南は金には淡白であったかもしれませんが、江戸期特有の意地悪は濃厚にはあったと考えます。江戸期では新人に意地悪をするというのが一つの文化の型としてあり、上野介もその例外ではないようです。上野介が普通に意地悪をしたのが内匠頭の癇にさわって刃傷に及んだのではないかと言う説があります。

もう一つ微妙な関係が、高家と大名家の関係です。高家は大名に礼儀指南を行なう立場で官位も高いですが、吉良家といえども旗本で4200石です。一方で大名の格は官位も重要ですが、やはり石高で評価されます。播州浅野は5万石の小大名とは言え、吉良家の10倍以上の大名で城持ち大名です。このプライドの関係はなかなか難しいらしく、内匠頭のプライドが妙なほうに働き、生来の短気から見境なく怒りを爆発させたというのは個人的に説得力はあります。


結局のところ理由不明で内匠頭が刃傷に及び播州浅野家は改易となります。異常に処分が早かったともされますが、勅使饗応という重要な場で幕府に大恥をかかせたとも見えますから、無茶苦茶とは必ずしも言えないかもしれません。その辺の評価はいろいろありますが、とにかく話は赤穂城開城に進みます。赤穂城開城になって大石内蔵助がようやく登場してきます。この時に大石が巧みに紛糾する家中をまとめ無血開城した手腕は一般的に称賛されます。

称賛はしても良いのですが、よく考えれば江戸期に改易となった大名は数多いですが、おそらく一家といえども籠城などに及んだところは無いと記憶しています。映画などでは大石がいたからこそ無血開城に漕ぎ着けられたとしていますが、おそらく大石がいなくても無血開城になったとも私は見ています。それぐらい当時の幕府の権威は圧倒的であったと考えられるからです。

それより大石はなぜ吉良を討とうと考えたのか、なぜ47人も同士が残ったのかに興味があります。江戸期の士風は戦国期の主君に忠義から、お家に忠義に変わったのが一つの特徴とされています。理由は様々あるでしょうが、主君といえども家を継ぐまで江戸屋敷で成長しますから、とくに国許の家来にとっては知らない人になっていたのは大きいとは思います。主君への忠義は主君との個人的な交流がないと湧き難いものです。

元禄期にどれほど士風が行き渡っていたかが少々疑問ですが、播州浅野の場合、内匠頭は刃傷事件の時に既に24年間の治世を重ねています。9歳で家を継いでいますから、比較的小さなときから主君として赤穂の藩士と交流していた事になります。ひょっとするとそこらあたりに、播州浅野家の士風として主君に忠義の空気が醸されていたのかもしれません。これもよく分からないところです。


大石が統率力のあるリーダーであったのは間違いありません。だから最後までついて行った武士があれだけいたと言えるのですが、大石が最初から仇討ち一本であったかどうかには疑問はあります。むしろ小さくなっても播州浅野家の復活に望みをかけていたのではないかと考えます。吉良への復讐は残党の結束力を高めるための方便であったようにも思っています。

幕府の空気は播州浅野の処分について、後になってチト拙かったの空気が出てきたのは信じてよいかもしれません。その微妙な空気の流れを大石は情報として得ており、かなりの確率で浅野家復活の可能性があると読んでいた可能性を考えています。もちろん元の5万石は無理でも、できれば1万石、それも難しければ5000石程度の旗本でなんとかなりそうの情報があり、これを信じて待っていたと考えています。

ところがその線は長矩の弟の長広が浅野本家に預かりになる事で潰えます。後世のドラマでは最後の望みが無くなったので、本来の目的である仇討ちに動いただけと軽く扱っていますが、浅野家復興にかなり本気であった大石は途方に暮れたのではないかと考えます。大石は仇討ちの同志脱落にかなり鷹揚な態度であったと言われています。もちろん去る者を追わずと言うか、引き止める理由も無いのですが、見方を変えると小さくなって復活するはずの浅野家のサイズに合わせていたとも考えられます。

それが土壇場でひっくり返り、同志結束のためのスローガンであった仇討ちをせざるを得なくなったんじゃないでしょうか。自分が煽って仇討ちに走らせていたので、今さらトンヅラするわけにもいかず、またスローガンと言いながら、それを真に受けた同志が仇討ち計画を着々と具体化させていたために引くに引けない状態に陥ったとも考えられます。

これもおそらく史実とは考えているのですが、大石が伏見でドンチャカ遊んだ一件です。これは吉良方の間者を騙すための策略と言われていますが、それにしても相当遊んでいたとの傍証があります。騙すためには派手に遊ぶ必要があったとも言えますが、浅野家復活有望の極秘情報がどこからあり、単に喜んでいたとも見れます。喜んでいたとの解釈はちょっとひどいので、仇討ち急進派への牽制と、遊ぶ姿を伝え聞いて脱落する同志が増える事を期待した面もあるように考えています。


閑話なので今日はこれぐらい遊ばせて頂きました。結局のところと言うほどではありませんが、赤穂事件は刃傷の真相も不明、不明の真相に対する集団復讐劇が起こった理由も不明と言うのが史実で確認できるところだと考えています。複雑なのは不明ではありましたが、何故か大評判になり、後世になって無数の尾鰭が創作されたところと考えています。やがて何が創作か、何が史実か分からなくなってしまい、極限の美談化がなされたのが忠臣蔵と考えています。

一つ言えるのは武士よりも庶民が赤穂浪士を称賛した事です。そこを検証するには元禄時代そのものを掘り起こさなければならなくなるのですが、時間も無いので休題にさせて頂きます。