平井山本陣考2・諸国古城之図のモトネタは?

ちぎれ雲様の

浅野家文書のみを証に他にいろいろな角度から掘り下げて検証することなく国史跡指定を受けた三木市の歴史・文化行政には疑問を感じます。

これがどうしても気になっているのですが、問題は浅野家の諸国古城之図の正確さに関わってくると思っています。まず市教委の実地調査で裏付けられたのは小さくないと思っています。実地見聞については行ってないので云々できませんので、諸国古城之図自体についてムックしてみます。とりあえず広島城HPの企画展 浅野文庫諸国古城之図の世界からですが、

 浅野文庫とは、旧広島藩主浅野家から寄贈を受けた和漢古書・絵図類で、広島市立中央図書館が所蔵しています。「諸国古城之図」はそのうちの代表的な絵図で、江戸時代中期に藩主の軍学研究のための教材として作成されたと言われます。東北から九州に至る各地の古城を描いた絵図177枚からなり、それらの中には、豊臣秀吉伏見城武田信玄躑躅ヶ崎館など、歴史上有名な城はもちろん、一般にはあまり知られていない城も収められています。

  江戸時代には各地で城絵図が作成・収集され、特色ある城絵図が作成されましたが、「諸国古城之図」はその美しさ、数や精度の面で注目されており、同時に製作された「諸国当城之図」と共に日本屈指の城絵図集として知られています。

 今回の展示では、「諸国古城之図」の多くを展示し、特色ある戦国時代の城の姿はもちろん、絵図に秘められた制作意図や時代背景を紹介したいと思います。

自分のところの企画展ですから、ある程度持ち上げる部分があるにしろ諸国古城之図に高い評価を与えています。一方でwikipediaには、

軍学に精通していた安芸広島藩第7代藩主、浅野重晟の命によって作成したと思われている。諸国古城之図の一部の絵図は現地を踏査していなものもあり、原本の粗図を写したものある。

少々疑問を差し挟む記述になっています。私は玉石混交ぐらいに考え、正しいものも少なくないが、そうでないものも混じっているぐらいでみます。今日の問題的には平井山本陣が正確かどうかになります。

諸国古城之図の製作を命じたとされる浅野重晟は1743年生まれ、1763年に藩主となり1814年に亡くなっています。浅野重晟が作成を命じたのなら1763年以降と考えるのが妥当と思われます。三木落城が1580年ですから、秀吉の平井山本陣は落城から程なく引き払われたはずです。以後は三木が合戦の舞台になることはありませんでしたから、合戦から180年以上も経てば引き払われた平井山本陣は再び樹木に覆われた元の里山に戻っていたと考えて良いでしょう。そんな状態で仮に浅野家の調査員が実地調査を行っても、あまり捗々しい成果があげられると思いにくいところがあります。さらに言えば地元の伝承では、ちぎれ雲様より、

三木合戦当時、秀吉の本陣跡が平井山にあったとする話は私も子供のころから地元民として親からも地区の古老からも十分聞かされ、その場所についても地元では「城の下」と呼び、その場所は隣の細川村と接する断崖がすぐ後ろに控えておりました。

18世紀後半であっても、浅野家の調査員が訪れても従来の比定地の方を案内する可能性が大です。ここでwikipediaで気になるところは、

    諸国古城之図の一部の絵図は現地を踏査していなものもあり、原本の粗図を写したものある。
平井山本陣についても原本があったんじゃなかろうかと考えています。では原本はってところですが、そんなものが簡単に見つかれば苦労しません。それでもそれらしきものがありました。元画像の精度の問題があるのですが、
諸国古城之図 播州三木城攻撃図
諸国古城之図も播州三木城攻撃図も描かれている平井山本陣は基本的に同じとみなして良いと判断します。


播州三木城攻撃図と軍学

播州三木城攻撃図が何者かについて調べるのに少々難儀したのですが、山鹿素行武家事紀にあることが判りました。武家事紀には三木合戦も書かれており、同じ絵図も確かにありました。武家事紀が書かれたのはお手軽にwikipediaより、

素行が赤穂藩に配流中の延宝元年(1673年)の序文がある。

素行がいつ序文を書いたのかなんて不明ですが、三木落城からおおよそ100年後、諸国古城之図の100年前ぐらいに播州三木城攻撃図は描かれたと考えられます。素行が平井山本陣を描くにあたって資料としたのは、

  1. 素行が自ら調査した
  2. 素行の弟子が三木で調査した
  3. 素行がさらなる原本を入手していた
1.と2.に関しては100年後の浅野家と同様の問題が生じると考えられます。そうなると素行が原本をどこかから調達した可能性が出てきます。素行は軍学者として有名な人物ですが山鹿素行の履歴考より、

 1636(寛永13)年、15歳の時、甲州流兵学甲陽軍鑑」の著者・小幡勘兵衛景憲に甲州流武田流兵学を修める。甲州流軍学は、勝利を得る方策は「武略・智略・計策」であり、これを「よき軍法」、その軍法を実際に生かす為に「よき采配」、「よき法度」が必要と説く。武田信玄の軍師・山本勘助を学祖として祀り上げている。この頃、孔子の「大学」の講釈を行ない、評判を得、既に一家をなす。将軍家光にその才を認められ登用の話があったが家光の死去により叶わなかった。

 1637(寛永14)年、16歳の時、江戸町奉行大目付を勤めていた小幡の弟子の北条氏長兵学を学ぶ。北条は、小幡兵学に加えて倫理的要素の強い兵法を説いた。呼び名も「兵法」ではなく「士法」としていた。オランダ人から当時の西洋の砲術・攻城法についても聞き出している。他方、天照信仰に傾倒し、日本浪漫主義に傾倒していた。素行は、20歳になるまでに門弟中で上座になって居り、次のように評されている。

    「素行之に從學すること五年、諸弟子その上に出づるものなし」

ちなみに素行は軍学だけではなく朱子学神道・歌学も学んで、いずれも抜群の才能を示したとなっています。軍学以外のことは興味がある方は調べてもらえば良いのですが、21歳の時に山鹿流軍学の塾を江戸で開いています。当時から軍学は流行していたようで、具体的にどんな事を教えていたかの詳細まで存じませんが、やはり過去の実戦についての講義はあったというか重要であったと思います。三木合戦も過去の実戦のテキストとして用いられ、素行が学んだ時期から平井山本陣の図は存在していたとしてもおかしくありません。素行も三木合戦を講義に取り上げていた可能性は十分ありますから原本の入手ルートは、

  1. 小幡景憲から
  2. 北条氏長から
  3. 二人の講義の記憶から自力で作製
小幡景憲は1572-1663年の人ですから、三木落城時に8歳になります。もちろん小幡景憲が三木合戦に参加しているはずもありませんが、三木合戦参加者から直接話を聞く機会はあったはずです。これは「あったはず」というより、軍学者として「聞いたはず」レベルだと思います。三木合戦は当時の政治的には秀吉が関わった以外に問題となるような合戦ではありませんから、聞く方も聞かれる方もとくに隠し立てするような内容があるとは思えないので、実戦談から平井山本陣の図を描いた可能性は出てきます。

軍学小幡景憲甲州流軍学から始まったと見て良いと思いますから、素行の播州三木城攻撃図の原本もそうであり、諸国古城之図の原本もそうでなかったかと私は判断します。小幡景憲も評価の難しい人物ではありますが、三木合戦の平井山本陣の図については、実戦経験者から詳しく話を聞く機会もあったでしょうし、個々の武功についてはともかく、陣地の様子については虚偽を創作する必要もありませんから、市教委の実地調査で絵図の正しさを確認された現在の平井山本陣比定地が正しい気がします。


地元伝承再考

以前に地元伝承は合戦初期に仮であっても従来の比定地を本陣とした時期があったと推測しましたが、よくよく考えなおすと逆じゃなかったかと考えだしています。三木合戦の初期は平井山本陣は前線でした。前線である証拠に別所方から本陣直接攻撃(平井山合戦)を受けています。こういう直接攻撃を予期し、撃退できる地勢と規模をもつ本陣が求められたとして良いかと考えています。それが現在の比定地です。

これが合戦の中期から後期になると三木城包囲網は狭まり、平井山本陣は前線ではなくなったと考えて良いと思います。そして後期になるほど秀吉軍の活動は三木城の南側で活発化します。ここが一つのポイントですが軍勢の動きが活発化したところに主将である秀吉が滞在する時間は長くなったはずです。わざわざ城の北側にある平井山本陣から城の南側まで毎日通勤するのは時間の無駄です。また秀吉も陣頭指揮の重要さを良く知っている武将として良いからです。城攻めの最終段階は

    宮の上の砦 → 鷹尾城 → 新城
こう進んだのは事実と見て良いかと思いますが、その作戦の指揮を秀吉は城の南側で執っていたはず、軍勢としての本陣機能は城の南側に移されていたぐらいの状態を考えます。では平井山本陣がどういう役割を果たしていたかですが、兵糧や物資の集積基地として働いていたと考えるのが自然です。後方基地に役割が変わった時に山上の本陣では不便です。兵糧や物資をわざわざ山の上に運び上げるのは労力の無駄です。そういう兵糧や物資は平井山本陣の北側の谷間に保管されていた考えます。

補給基地を管理するのであれば現在の比定地(平井山ノ上付城)よりも従来の比定地(平井村中村間ノ山付城)の方が便利そうに思います。ここで少し飛躍しますが、後方基地化した平井山本陣の指揮を執っていたのが竹中半兵衛ではなかったかと考えています。軍勢としての本陣機能が城の南側に移った時に問題となるのは北側で不測の事態が起こった時への対応になります。それが出来る能力があり、秀吉も信頼が置ける武将として半兵衛は適任と思います。

機能としての本陣は秀吉と主要幕僚がいるところになりますが、場所としてというか呼び名としての本陣は平井山であったとも考えています。その平井山本陣も初期は山の上にありましたが、後期には山の麓に機能の中心が移動していたぐらいを仮説として考えています。でもって地元伝承はこの最終的な平井山本陣の位置を伝えているんじゃないでしょうか。