マスコミ本位制の落日

福島大野病院事件の判決に関する関連記事の批評を書こうかと思ったのですが、どうにも食欲がわきません。もっとも私が書かなくとも多くのブログがこれを取り上げ批評しているので、私が書いても屋上屋を架すだけで意味が乏しいように感じています。本当は面倒なだけですが、視点を変えてマスコミ論でお茶を濁したいと思います。

ネット以前の情報価値はマスコミがすべて決定していたと考えます。マスコミが情報のすべてを収集したうえで価値を決定し、それを無条件に受け取るのが情報への態度であったと言う事です。それが一番手軽でしたし、それ以外に情報源があるわけでもなかったので「便利だ」とばかりに受け入れてきたと言えます。

ところがネットが猛烈な勢いで普及してきています。ネットがこれだけ普及したのは色々な理由はあるでしょうが、「新たな情報源である」の見方が大きいかと思います。「新たな」とはマスコミと別ルートの情報源であるとの意味があり、また情報源であるだけではなく誰でも手軽に情報発信者になれるというのも大きいと考えています。ネットも初期は愛好者のためのものでしたが、今やそんな規模でも内容でもないのは周知の通りです。

ネット情報の大部分は匿名情報です。匿名情報と言うのは基本的に信用性が低く、ネットで情報を得るものは玉石混交の情報の中で信用できる情報を見つけだし判断する能力が求められるようになります。情報を発信するものも同様で、自分の情報に信用を得てもらうための努力と工夫が求められます。そういう信用を得る手段の一つとしてソース重視が出てきます。

ソースだけが信用を得る手段の全てではありませんが、ソースがあれば信用性が高まります。初期はこのソースとしてマスコミ情報が珍重されましたが、いつしかマスコミ情報さえ信用できるかどうかの疑問が出てくることになります。マスコミ情報にもかなりソースが怪しいものや、発信する情報自体にかなりのバイアスがかかっている事を知るようになったからです。情報ソースとしての価値に必ずしもの絶対性がなくなってきているということです。

これは大きな変化です。例えとしては、通貨が金本位制から変動相場制に移行したぐらいの変化になります。これまでマスコミ情報と言う絶対の基軸があったのに、マスコミ情報さえ相対的に価値が変動するものとして位置付けが変更されたという事です。マスコミ本位制から、情報の変動相場制に変ってきているといえばよいのでしょうか。

市場評価の中に放り込まれたマスコミ情報には厳しい価値判断が行なわれます。マスコミ本位制時代にはマスコミが「シロといえばシロ」「クロといえばクロ」で話が終わったのですが、変動相場になればマスコミ情報とて「本当にシロなのか、クロなのか」の価値判断も普通に考えられる事になります。これはマスコミ本位制時代には事実上マスコミしか情報源が無かったのが、ネットと言う別経路の情報源が成長すれば起こる必然の過程とも見る事が出来ます。

マスコミ本位制から変動相場制に情報判断が変化と言っても、かつてのニクソンショックみたいにある日を境にゴロッと変るものではありません。徐々に人々の価値観が変っていき、ある日ふと気が付けば全く変っていたみたいな変化です。こういう変化はしばしば渦中にある者は気が付かないことがあり、一番気が付いていないのはマスコミだと考えています。

マスコミの意識の中は今でもマスコミ本位制です。幾分は意識してはいるようですが、世の情報はあくまでもマスコミ本位制です。ネット情報の台頭はあくまでもマスコミ本位制を脅かす存在であり、ネットからの防衛が考え方の基本になります。マスコミの意識ではマスコミ本位制は今でも厳然と続いていると言う事です。

マスコミ本位制を守るという観点に立てば、台頭するネット情報を抑えこみ叩き潰すのが正しい選択になります。しかしこれは前提としてマスコミ本位制が続いている事が必要であり、さらにネット情報を抑えこみ、叩き潰せる事が可能がないとなりません。しかし時代は確実に変動相場制に動いていますし、この日本でネット情報を抑えこめるとは思えません。中国ほどの強権を揮っても十分と言えませんし、やるなら北朝鮮ほどの強権が必要です。ネットにはそういう得体の知れないしたたかさがあります。

マスコミはマスコミ本位制でなくなっても情報強者であることは間違いありません。マスコミが目指す道はマスコミ本位制時代に時計の針を戻す事ではなく、変動相場制に移行しても相対的強者である道を選ぶべきだと考えています。ニクソンショック金本位制を放棄したアメリカのドルは、その後も世界の基軸通貨の地位を譲っていません。これは金と言う裏付けがなくともドルは信用できるという価値や地位を築いてきたからです。

この情報の価値判断への大きな変化に対し、あくまでもマスコミ本位制の感覚で情報発信を行なえばマスコミの相対的地位はますます下がります。マスコミに求められるのは信用があり価値ある情報発信です。発信する情報の信用や価値が高まれば、マスコミの地位は相対的に高いものになり、マスコミ本位制時代ほどの絶対性はないにしろ、一定の情報発信者の地位を保つ事ができるはずですし、その力は十分にあるはずです。

ネットリテラリシー、情報リテラリシーが浸透してきた時代に人が求める情報は事実のエッセンスの情報です。歪曲したり操作した情報に対する嫌悪感は相当なものがあります。マスコミ本位制の時代には情報の検証方法が無かったので鵜呑みしていましたが、変動相場制に移行すれば、そんなバイアスのかかった情報を非常に低く評価することになります。人が書くものですから一定のバイアスは出るでしょうし、専門分野に関しては解説も必要になるでしょうが、「あざとい」ほどのものはすぐに見抜かれます。肝心なことは事実のエッセンスの情報はマスコミ本位制を信奉する人間でも歓迎するはずです。

もちろん今でもマスコミ本位制の情報発信の信奉者は多数派です。しかし情報判断が変動相場制に移行した人々は例外とは言えない数になっています。また変動相場制に移行する人々は増えこそすれ減りはしません。さらに言えば変動相場制の価値観の人間はある比率に達すれば、一挙に多数派になる性質を秘めています。流れは目に見えて変動相場に傾いています。まだ臨界点に達していないでしょうが、相当なレベルにまで増えています。

そういう目で見れば福島大野病院事件関連の記事の中には、マスコミ本位制の意識の発露でしかないものが散見されます。当然のようにこれに対する反発と言うか批判があるわけですが、私が見て回る限り、記事批判への熱気は相当醒めてきています。マスコミから見ると「記事に納得した」と喜んでいるかもしれませんが、私には到底そうには思えません。そういう記事そのものへの興味と関心が薄れかけているように感じます。どこかで聞いた言葉ですが、

    ネットにさえ興味をもたれなくなったら、マスコミは終わり
この言葉が現実化しているんじゃないかと思います。ネットで引用されるのはマスコミ記事の事実のエッセンス部分だけになり、主張とか考察部分には冷ややかな評価しかしないのが「常識」の時代の扉が開いて来ているようにも見えます。とくにマスコミ本位制に基づく主張とか考察部分は、批判の対象にすらならない時代の到来です。

情報提供者としてのマスコミが滅ぶ事はないとは思いますが、この先も従来のように情報をマスコミ本位制で統制支配できると考えているのなら、次の時代までは生き残れないと考えています。時代が変わればその時代に適応した情報提供者が生き残り、また時代を読んだ新たな登場者が次世代の覇権を握ります。盛者必衰の理はマスコミとて例外で無いという事です。

この事に気がつくマスコミは幾つあるのでしょうか、かえって心配したくなるほどの状況に私には見えます。時代の大きな流れに逆らって生き残った者を私は殆んど知りません。