知的訓練が十分為されている読売

オリジナルの全文は新之助のblog様の日本の改新 膨張中国の抑制必要にありましたからリンクしておきます。記事自体は1月10日讀賣新聞朝刊にあったそうです。全文を読んでの感想がまず必要ですが、中国の膨張が識字率と知識層の増加により自壊する云々は説として拝聴できても、これを他者に吹聴する気は起こらなかったぐらいです。それとこの記事は対談と言うか、インタビュー形式だったようで、

山崎正和(やまざきまさかず)氏 劇作家。大阪大教授、東亜大学学長などを歴任。演劇、小説、詩、音楽などジャンルを超えた幅広い評論でも知られる。雑誌アステイオンで「神話と舞踏---文明史試論」を編集中。76歳

 聞き手 文化部 植田滋

おそらく記事自体を書いたのは聞き手である植田滋記者であると考えて差し支えないと思われます。問題の個所ですが、そこだけ切り出すと妙な誤解を生むので、問題の個所を含む小見出し該当部分全体を引用します。

知的社会の中核育てよ

 一方のアメリカは、他の文明が移植・混交して「雑種強勢」した点で、ローマ帝国に似ている。しかも近代的な自由を生んだ「諸国家併存」の西欧文明が移植された。文明というのは雑種強勢すると生産力を増やす。それゆえ今後は、中国も開放を進めて、欧米の後を追うべきだろう。

 日本も実は、東洋にありながら西洋型の国。仮名を使うために社会が縦につながり、支配階層はたびたび交代した。江戸時代には各藩が地方を世襲支配したように、半ば諸国家併存が実現した。社会の体質からいって、中国よりもアメリカに近い。とすれば、日本はまずアメリカと協調するのが自然だろう。

 その上で日本がどのような社会を目指すべきかといえば、もはや「知識基盤社会」しかない。製造業などで新興国に抜かれても、日米は第4次産業とも呼ばれる知識産業を強めていくことができる。何も抽象的な話ではなく、農業にしても医療にしても、頭脳を投入して産業として発展させるということだ。

 アメリカは知的生産力が衰える気配がなく、その中心をなすアメリカの大学は世界で圧倒的に強い。英語が国際語になっているという強みもある。中国には弱みががある。知識を持つほど自由にものを言いたくなるのが知識人であり、中国が知識産業を強くしようとすれば、自らの足をすくうことになる。

 これに対し、日本は知識基盤の弱さが心配される。日本は戦後、一貫して「高学歴低学力」の人間を増やす教育制度を広げてきた。平等を追求するあまり、小中学校での落第・留年を一切なくした。教室で寝ようが騒ごうが、上の学校に入れる。その結果、分数の足し算ができず、常用漢字が読めない大学生が大量に生まれてしまった。

 となれば、教育制度を改め、「知識社会のコア(中核)」となる人間を育てていくほかない。基礎学力を徹底的につけるために小中学校での落第・留年を認め、高校無償化する金があるくらいなら、やる気のある生徒のための奨学金を充実させるべきだろう。

 もう一つの心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ。ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり、「責任を持って情報を選択する編集」が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある。

とりあえず馴染みの薄い定義を持ち出されています。日本の将来は「第4次産業」が担うべきだです。ほいじゃ第四次産業って何かとググってみましたが、どうやらまだ明確な定義づけが定まっていないだけでなく、第五次産業と言う言葉まで踊っていました。ちょっと古いのですが2003年8月付法律文化から引用してみます。

 第4次産業は、事実情報を扱う。事実情報とは、第1次・第2次産業が扱う商品に関する情報や世界に存在する有体的存在物に関する情報である。旅行会社・情報検索会社など、コンピュータを使ったものの多くが、この分野の事業に属する。

 第5次産業は、創造情報を扱う。創造情報とは、頭脳が生み出す商品である。科学が生み出す仮説・理論など教育機関が担当しているものがこれだ。ここが本来の知的財産の本拠地である。第2次産業の特許権は、もはや知的財産の王者ではない。特許は有体物を離れて存続し得ないため、モノ製造が中国などへシフトするとき、特許を知的財産戦略のメインに据えてはならないのだ。徹頭徹尾100%の知的創造商品の生産こそ、知的財産戦略の中核とすべきである。その商品は、有体物を対象とせず、企業の直接部門も間接部門もすべてが知的情報システムで成り立っている。これが第5次産業の本質である。また、芸術・音楽・絵画・映画・アニメなど、いわゆる右脳が担当する分野の商品もある。ソニー・コンピュータエンタテインメントSCE)や任天堂などの事業がこの分野に属する。創造情報はこのように科学の分野と芸術の分野とに分かれるが、いずれも商品となるのは、外界の存在物ではなく、イマジネーションの創造情報と言えよう。頭脳が創造したもので、金銭的価値あるものである。これが現代の典型的なサービス産業が扱う商品である。

これは反町勝夫氏(誰かはまったく存じません)の分析ですが、どうも山崎正和氏の第四次産業は、反町勝夫氏の第五次産業に近いのではないかと考えられそうです。どう考えても反町氏が分類する第四次産業では、とても将来の日本を支える産業基盤になりそうにないからです。

一般論として思うのですが、定義が普及していない、もしくは定まりきっていない用語にはもう少し注釈が欲しいところです。まあ、私のブログだって医学用語の略称がボンボン出てくるではないかと言われれば、それまでなんですが、このブログでは方針として「ググって下さい」にしています。やりだすとブログが解説だらけになってしまうからです。しょせん個人ブログですし、探せば決まった定義が発見できます。

読売記事の場合、私程度の知的レベルで難解だったのは「第4次産業」ぐらいでした。だから欲しかったのですが、ここは私が勉強不足なだけで、読売記事を読まれる読者の方々は第四次産業と聞けば、明瞭に産業のイメージが形成されるのでしょうか。もしそうであるなら、ここでのイチャモンは遺憾とさせて頂きます。

ついでですからもうちょっと違う書き方の第四次産業、第五次産業の定義も紹介しておきます。これはニューヨークの遊び方様の第四次・第五次産業が支えるニューヨークの地域社会と経済からですが、

第四次産業(Quaternary Sector)とは?

The quaternary sector is said to be that of intellectual organization in a society such as government, research(scientific research, etc), cultural programs, Information Technology (IT), education and libraries.

〔和 訳〕

第四次産業とは社会における知的組織で、政府、調査機関、文化団体、IT(情報関連産業)、教育組織、図書館などが含まれます。)

■第五次産業(Quinary Sector)とは?

The quinary sector is thought to be related to the quaternary sector, but includes only the senior management levels, or the highest levels of decision making in a society or economy. Top management in non-profit organizations, media, arts, culture, higher education(universities, etc.), healthcare, science and technology and government are all included in the quinary economic sector.

〔和 訳〕

(第五次産業とは第四次産業に関連した産業分類であるが、社会や経済における上級管理職または最上位の意思決定者のみが含まれます。NPO団体、メディア、芸術、文化、高等教育、ヘルスケア、科学技術や政府などの上級管理職などは全て含まれます。)

こんなのを読むと余計にイメージが混乱しそうです。つうのは、定義と言うかイメージがはっきりしないと山崎氏の主張を理解しにくくなるからです。文句を言っても仕方が無いので、おそらく知的創造物を産み出す事によって、これを商売にするのが山崎氏の「第4次産業」であるぐらいに今日は理解しておきます。

山崎氏の主張は第4次産業育成のための手法論が展開されていると解釈します。ごく単純にはどうやったら、そういう産業が効率的に育成できるかです。重視されているのはどうも学校教育のようです。これについてはあんまり語りたくないのですが、何故にこの手の論者は、学校教育ですべてを完結させようとされるかはいつも疑問です。この辺は学校観の違いですから、この辺で置いておきます。これも一つの意見ですから。



さて寄り道をしましたが、いよいよ問題個所です。まず感じるのは、どうにも全体の構成で浮いている感じが禁じ得ません。言ってみればそこに入る必然性が非常に乏しいと感じます。いや全体の構成からして不要の段落としても差し支えないと思われます。もうちょっと言えば、無くとも全体の文章にはまったく影響がありません。

文章の中で結末部と言うのは色んな役割を果たします。全体の構成により変わりますが、結論部として存在する事が多いですし、結論部の後の補足みたいな時もあります。あえて言えば、今回は結論部ではなく補足部とするぐらいは解釈可能です。補足部と言っても、文章全体からすると、第四次産業育成のための学校教育変更と言うか、充実の結論の補足です。

それが何故こんな形であるかです。この記事は上記した通り、聞き手が読売記者であり、書いたのも読売記者と判断できます。問題個所をよく読んで欲しいのですが、

     もう一つの心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ。ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり、「責任を持って情報を選択する編集」が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある。
このうち間違い無く山崎氏が発言しているのは、
    「責任を持って情報を選択する編集」
ここだけです。後はすべて記者が書いたものです。後は信用の問題になりますが、「」付の引用部以外の記事がどれほど信用が置けるかです。山崎氏の他の主張の部分から推測しても、この部分の主張はかなり浮いていると感じるとしましたが、どうにもここでマスコミ万歳が出るとは信じ難いところがあります。山崎氏の事もまったく存じ上げませんが、知的訓練を受けた人間がマスコミをこう評価するとは思えないからです。

どうもですが、微妙にニュアンスが違う言葉を組み替えた気がしてなりません。私が推理する限りでは、

読売記事 実際の山崎氏
ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。 ブログやツイッターで発信する者の中には、十分な知的訓練が受けていない者もいる
これが新聞や本の軽視につながり、「責任を持って情報を選択する編集」が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。 そういう情報を「責任を持って情報を選択する編集」する能力が弱くなれば、国民の知的能力や、関心の範囲が狭まる危険性がある
ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある マスコミはそういう雑多な情報に負けない発信力を持たねばならない


これぐらいならマスコミへの叱咤激励として、またネットでの情報発信への苦言としてありうる範囲と思います。どう考えてもブログやツイッターを一網打尽に貶める発言したとは想像し難いですし、ましてやここまでマスコミを無邪気に持ち上げたとも考えられないからです。


さて問題個所の読み方の注意なんですが、

    知的訓練を受けていない人発信する楽しみを覚えた
ここが「が」ではなく「は」であれば全員を指しますが、「が」のために全員ではない事になります。この全員ではないが一部少数なのか、大部分なのかの解釈が出来るかどうかですが、この文章の前に、
    もう一つの心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ
こういう続きで読めば、なんとなく多そうに感じる人が多いように思います。もっとも「悪貨は良貨を駆逐する」とか「箱一杯のリンゴの中に腐ったリンゴがひとつあったら、早く取り除かないと周りのリンゴも腐っていく」のようにごく少数であっても問題視されるという見方も成立するかもしれません。ただ少数でも問題視するのであれば、
     もう一つの心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ。マスコミの程度の悪さにより、知的訓練を受けていない記者の発信が為されている。これが新聞や本の堕落につながり、「責任を持って情報を選択する編集」が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。ネット時代では、マスコミを盲信しない社会にしていく必要がある。
これも成立してしまうのですが、きっと読売には知的訓練が不足している記者はゼロだと確信されているのだと思われます。ブログやツイッターに存在するのは私も否定しません。しかし一方でマスコミに存在しないとはとても思えないのですが、如何なものかと思わないでもありません。もちろん記者の中には優秀な方や、熱意と誠意に溢れた方も多数おられるでしょうが、すべてそうだはどんなものかと言うあたりです。

個人的には論説委員辺りが一番危なそうな気がしてなりませんが、自意識の問題の部分もありますから、話としてはそれで収まるのかもしれません。「が」の解釈はともかく、問題個所の解釈で明瞭なのは、読売の主張が、

    読売記者は十分な知的訓練が為されており、その記事には知的訓練に基いた権威がある。
こう受け取っても曲解とは言えないと思います。このフレーズは今後に十分活用出来そうなので、しっかり覚えておく事にします。