キュレーション

GW中にチト話題になったお話。

これを読みながら思い出したのが、ジャーナリストである佐々木 俊尚氏が提唱している「キュレーション」です。キュレーションと言っても理解は生煮えなんですが、私の理解としては「選別者」ぐらいで受け取っています。単なる選別者であれば従来のマスコミとの違いが難しくなってしまいますが、従来のマスコミだって立派なキュレーターであると理解しています。

この世には有象無象の情報が膨大にあり、ネット時代になりこれもまた有象無象の情報発信者が増えています。簡単に言えば様々な情報が満ち溢れる時代になっています。そこから自分にとって役に立つ情報をいかに拾い上げるかは大きな命題です。すべての情報を受け止め、そこから自力で選別するなんて事は事実上不可能です。そんなに情報収集と選別にばかりに時間を費やすわけにはいかないからです。結局のところ、ある程度の「まとめ」を利用する事になります。そうでもしないと手に負えないからです。

ネット前の従来のマスコミがわかりやすくて、新聞・テレビに取り上げられた情報が極論すればこの世のすべての情報だったわけです。まとめ者としてマスコミにそれだけの信用を置き、マスコミ情報さえあれば大丈夫みたいな感じでしょうか。今だって新聞なりテレビが取り上げる(取り上げたものをネットに載せるも含めて)と言うのは大きな影響力があります。あれは新聞・テレビが取り上げたと言う点に大きな価値を認めているからだと思っています。

佐々木氏の言うキュレーションとは、情報がこれだけ多くなっている時代には従来のマスコミだけでは拾いきれない有用な情報があり、これを従来のマスコミに代わって拾い上げる人物、もしくは機関の台頭を念頭に置いたものと見ています。ネットの普及による情報量の増大と、それを集めての情報発信は従来のマスコミ情報と違う情報の側面を見せてくれる事が確実に大きくなっていると感じています。


情報リテラシーも良く使われる言葉ですが、リテラシーの手法の中に

    誰が発信したか?
これは莫迦にならない比重があります。発信者だけで盲信するのはリテラシーとして危険ですが、どこの馬の骨かわからない人物の発信より、信頼の置ける人物の発信の方がどうしたって重きが置かれます。新聞やテレビの情報発信の影響力が大きいのは、発信する新聞社やテレビ局の信用と言う金看板が重いからです。

ネットでは私も含めて匿名発信者は多いですが、匿名発信者は「誰が」の信用は無に等しいところがあります。それでも発信した情報を信用してもらうために内容勝負となるわけです。これもネットの情報発信法として確立しているソース主義です。発信者の信用はなくとも、内容は信頼の置けるソースに基づいているから中味を信用して欲しいぐらいでしょうか。そういう努力を積み重ねて匿名であっても「なんとなく」の信用を得ていこうです。

私の考えるところでキュレーションとは、信用が十分でない発信者による情報に信用の裏書を与える役割もあるはずです。つまり、

    誰がその情報を信用したか?
信用のない発信者の情報の価値を考える時に、誰がその情報を信用しているかもリテラシーでは出てきます。無名の発信者であっても、それを信用できる人物、機関が裏書を与えれば「評価すべき内容かもしれない」に転じるわけです。無理やり喩えれば、レビューアーの審査を通って発表された論文には一定の価値が置かれるのと似ています。レビューアーの信頼が高いほど、受理され発表された論文に信用が置かれ、情報の元ソースとして尊重されていくです。


ここをもう少し論じれば、役割としてキュレーターの信用が重要と言えます。既製マスコミへの批判が出るのは、従来絶大な信用が置かれていた既製マスコミの手法に疑問を抱かれてしまった点です。「社会の木鐸」「公平無私」とは必ずしも言えないところが様々に指摘され、かつての無条件の信用の反動現象が起こったと見るのが妥当と考えています。

この既製マスコミへの批判をどう考えるかがポイントです。たしかに既製マスコミが偏った情報選別を行う批判はありますが、これを馬鹿正直に受け取って「選別は悪だ」とすれば見当違いになると考えます。選別は必要であるのはある種の大前提です。そうでないと個人では到底受け止めきれないからです。既製マスコミの選別が批判を受けたからといって、アンチテーゼとして選別をやめるでは批判に応えたことにはならないと見ます。

既製マスコミへの批判は「選別が悪い」ではなく「選別法が悪い」が根幹だと考えています。これに附随して記事の脚色法が非常に偏向している事があるぐらいでしょうか。氾濫する情報を誰かがピックアップして欲しいの需要は間違い無くあります。求められているのは玉石混交の中から玉を拾い上げる鑑識眼であり、既製マスコミは鑑識眼への信用をかなり落としているぐらいの見方です。

どの情報が本当に価値があるかの鑑定への欲求は潜在的に大きいはずです。既製マスコミへの信用が揺らいでいる時代ですから、いかに既製マスコミと差をつけて信用できる鑑識眼、選別眼への権威を確立する事が求められていると私は考えています。これが非常に難しいので、既製マスコミの没落がこれほど言われても、未だにこれに取って代わる新たなメディアが生れて来ないと思っています。



もう一つ、非常に気になったのがマジックワードの「市民」です。市民と書くと何か特別のグループみたいな印象を持たされそうですが、「国民 ≒ 市民」です。いわゆる「みんな」であり「誰でも」と変わらぬものと考えます。それだけ広い対象ですから、これまた市民が発する情報とはイコールとしてネットに無数に存在するピンキリ情報と変わらないと言う事です。

別に市民だからといって高潔な良識的な発想をするわけではありません。醜悪な排他活動を行うのも市民ですし、ヘイトスピーチをばら撒くのも市民です。狡猾な詐欺商法を展開するのも市民です。モンスターと称される一群の人々も言うまでもなく立派な市民です。そういう一連の人々は「市民でない」と強弁するのは無理があるでしょう。

なんちゅうか、マスコミ以外の情報発信者を拾い上げて「市民のための情報発信でござい」と言う発想はチト古臭すぎる発想と感じています。そこにキュレーターとしてのポリシーと信用がなければ単なるゴミ箱と見なされます。そもそも個人の情報発信を手助けする発想の時代は終わっている気がします。その手の企画は5〜6年前に失敗したと記憶しております。

乳母日傘で手助けしなくとも情報は発信されます。求められているのは、これをいかに情報として選別して拾い上げ、まとめ上げ、権威としての信用が得られるのかが問われていると思っています。もちろんですが、主宰者がどんな発想で、何をされようと御自由です。冒頭のリンクで主宰者が「提案がない」としてしきりに議論を打ち切りたがっていたので、提案らしきものを書いてみただけです。