ちょっと古い記事なんですが、魚拓で保存してくれていた方がおられたので引用します。2008.6.13付Ashahi.comより、
番組改変訴訟、市民団体側の逆転敗訴確定 最高裁判決
NHKの番組が放送直前に改変されたとして、取材を受けた市民団体がNHKなどに損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第一小法廷(横尾和子裁判長)は12日、200万円の支払いをNHK側に命じた二審・東京高裁判決を破棄。市民団体の請求をすべて退ける判決を言い渡した。市民団体側の逆転敗訴が確定した。
取材を受けた側が番組内容に抱いた「期待と信頼」が裏切られた場合に、放送事業者や取材した制作会社が賠償責任を負うのかが争点だった。第一小法廷は、「編集により当初の企画と異なる内容になるのは当然のことと国民に認識されている」と述べたうえで、「期待と信頼は、原則として法的保護の対象とはならない」との初めての判断を示した。
問題となった番組は、01年1月に放送した「ETV2001 問われる戦時性暴力」。旧日本軍の性暴力を民間人が裁く「女性国際戦犯法廷」を開いた「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」(バウネットジャパン)が、取材を受けた際の説明と異なる番組を放送されたことで「期待権を侵害された」などと主張し、NHKと下請け制作2社に賠償を求めた。
第一小法廷は、取材を受けた側の「期待と信頼」が例外的に保護される場合として、(1)取材に応じることで取材対象者に格段の負担が生じる(2)取材者が「必ず一定の内容、方法で取り上げる」と説明した(3)その説明が、客観的にみて取材対象者が取材に応じる原因となった――の全条件を満たしたときに認められる余地があるとした。
そのうえで、今回のバウネットの場合を検討。「戦犯法廷」は取材とは無関係に予定されておりバウネット側に格段の負担はなく、取材担当者も「必ず一定の内容、方法で取り上げる」とは説明していないことから、バウネット側の「期待と信頼」は法的に保護されないと結論づけた。原告が主張したような「期待権」という言葉は使わなかった。
裁判官5人のうち、4人の多数意見。横尾裁判官は「報道の自由の制約につながるもので、期待と信頼が法的保護に値すると認める余地はない」と述べ、一切の例外を認めないとの意見を述べた。
二審判決は「NHK側が国会議員などの意図を忖度(そんたく)し、当たり障りのないよう番組を改変した」などと評価したが、第一小法廷は、この評価を含む二審の判断を取り消した。今回の不法行為の有無を判断するために必要がないため、「忖度したか」についてはそれ以上具体的な言及はしなかった。(岩田清隆)
な〜んとなく記憶にある事件の訴訟で、放映直前に有力議員が放映内容にチョッカイを出したとか、出さなかったが一時期話題になっていたんじゃないかと思っています。今日は訴訟になった放映問題そのものではなく、出来るだけ一般論的に解釈して行きたいと思います。
これはテレビですが、とにかくある目的の記事を書くので協力して欲しいと取材依頼があったと言う事になります。マスコミ側は「○○の方向性で報道します」と被取材者に約束しています。当たり前ですが、約束された被取材者は、そういう内容になると期待していたら裏切られる事になります。訴訟は期待を裏切ったので賠償せよとの趣旨です。
この訴訟では有力議員の圧力云々がバイアスになってわかり難くなっていますが、よく考えれば普通にある事と思われます。最近の例で言えば24時間テレビの自宅分娩放映の件です。あの時は番組予告と自宅分娩者のブログ(mixiだったかな)から番組内容が漏れ、関係各方面から多くの抗議が寄せられ、抗議の結果「どうやら」放映内容が編集された「らしい」になっています。
24時間テレビの件も書きようなんですが、
- テレビ局は自宅分娩シーンを含めて放映すると約束していた
- 被取材者(自宅分娩の家族)は当然放映されるものと期待していた
- 関係各方面から圧力がかかった
- 番組内容が改変された
今日のテーマも「対マスコミ防衛策」ですから、シチュエーションを変えて考えて見ます。仮定の設定は
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邪悪な意図を持った取材
それでも取材が始まれば相手の意図ぐらい読めそうなものだとも言われそうですが、シナリオ取材の実態を元法学部生から的確でコメントを頂いています。
テレビ屋さんは画をとらなければならないので、現場にお越しいただけますが、新聞記者様は電話取材以外で遭遇したことがありません。
テレビ屋さんのシナリオ取材の場合には、カメラを廻して気持ちよく色々言わせてくれる間に、素材に使うための一言をなんとかして言わそうとする記者の質問でだいたいシナリオは見えてくる気がします。
でも、手を替え品を替え何度も声を掛けられるうちに根負けして言っちゃう。予定の一言ってやつを。
カメラが廻る前から含めて3時間ずっと、そのシナリオは現実とずれているって説明を続けていても、違う質問に対してぽろっと言葉が出る。テレビが欲しい一言が。
3時間のうちの一言を狙われるのですから、現場の対応では限界があります。それに耐え抜けると自信を持って言える人は多くないと思います。ましてや相手の意図と言うか、誠実さ風にコロリと乗せられてベラベラしゃべってしまうケースもありうるかと思います。
こうやって必要なパーツが集まれば報道されるわけですが、やはり「期待と信頼」を裏切られたと感じるわけです。しかし最高裁判例で編集権は認められています。ほいじゃ、泣き寝入りかと言えば、最高裁もわずかな救済の可能性を提示しています。
かなりハードルの高い条件で、「必ず一定の内容、方法で取り上げる」なんて「言った、言わない」の水掛け論の極致になり、どちらかと言うと被取材者側に一点であっても曇りがあれば、ほぼ認められないに近いと考えます。その辺が、
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――の全条件を満たしたときに認められる余地があるとした。
マスコミの編集権の強大さがわかって頂けたかと思います。彼らが窮地に陥るのは「誰が見ても明らかな捏造」だけです。カケラの様な根拠があれば、それを幾らでも膨らます事が出来るのが編集権であり、それを彼らは「高度の創作性」と自負しています。取材を受けるとはそういう相手と対峙する事になります。個人で対抗できる事は本当に限られています。
昨日提案した防衛策ですが、
これすらやらないよりマシ程度のものであるのは認識しておいた方が良いと思います。せいぜいベトナム戦争の最前線に、ヘルメットを被るぐらいの意味ぐらいしかないかもしれません。ネットは個人でも情報発信は可能ですが、個人でマスコミに対抗できるほどの情報発信をするには、地道な努力とネット世論が加担してくれる僥倖が必要です。
昨日から考えていたのですが、信用とはどこに置いて判断するかです。末端の記者だけを見て信用が置けるかどうかの命題です。末端の記者個人の中には、能力も、人間的にも十分に信用が置ける者は少ないはずだと考えています。マスコミの構成員すべてが悪辣と思ったりなんてしていません。それでも取材に赴いて来た記者だけから報道機関まで信用できるかと言われれば疑問です。
業務と言うか記者が属している報道機関を利用するないし利用される場合には、やはり報道機関の信用に重きを置きます。いくら記者個人が信用できそうでも、組織の所属員は組織の論理に拘束されます。記者も組織の一員である限り最後の価値判断は「個人の信条 < 組織の論理」になるだろうからです。そうならない記者はどうなるかと言えば、組織に居場所がなくなるだろうからです。
また組織の信用は、直面している記者が信頼を裏切ったとしても、組織の信用にかけてリカバリーするだろうの期待もあります。
かつてのマスコミ、とくに大マスコミは文字通りの金看板の信用があったと思っています。大マスコミの看板に傷をつけるような事は絶対にしないであろうの信用です。こういう信用の金看板はお金に換算できないぐらいの価値があり、お金でも買えるものではありません。うちのような零細診療所でも看板の信用性を高めるのに四苦八苦しています。
看板の信用性を高めるには近道は無く、地道な努力の結晶としか言い様がないのですが、逆に悪評が立てば、容易なことでは拭い様がなくなります。たとえば私も属している日医には「開業医の利権団体」「医療での暴君的な圧力団体」などの悪評がビッシリ貼り付いています。実際もそういう面が多々あったのは否定しませんが、お蔭で地方の医師会まで同じように思われるのが現実です。
ですから根本と言えば大げさですが、対マスコミ対策なんて話が出るのは、そこまでマスコミ全般、これがたとえ大マスコミであったとしても信用の金看板が下がっている事になります。今さらと言われるかもしれませんが、マスコミを無条件に擁護する声が少ないのもその辺にあると考えています。
それでもかつての金看板の名残はまだまだありますから、マスコミ批判は起こりますが、これはあくまでも「信用できるはずのマスコミなのに」の暗黙の前提が生き残っているためだと考えています。マスコミの信用性が残っているので、報道被害と言う話が出るわけで、もう何段階か信用が下がれば、報道被害そのものが成立しなくなると言う事もありえるわけです。
言論の自由との兼ね合いがあるので、あくまでも私見ですが、編集権の付与のための十分条件に堅実な信用が紳士淑女ルールであっても欲しいところです。情報発信者と言ってもピンキリなのですが、より強い発信力を持つもの、とくに情報発信を職業として行なうものには求めたいと思っています。つうか、編集権は堅実な信用があってこそ本来は成立するものじゃないかとも考えています(信用を犠牲にして、読み物的な面白さで勝負するものは除きます)。
最高裁が言論の自由の担保に幅広い編集権を認めたのは広い意味で理解出来ます。一方で編集権を行使する者は、その行使に信用の裏付けが常に求められるのではないかとも感じています。信用の裏付けが薄くなった編集権を行使された情報は、当然のように信用自体が低下する相関関係です。
既製マスコミが発信する情報の信用に揺らぎが出ているのは、長年に渡り、発信した情報の検証が十分に行われなかったための一種の堕落に感じないでもありません。それがネット時代になり曲がりなりにも検証が可能になってきたのが大きな変化と捉えています。検証され、監視され、批判を受けた時にどう対応するかが、次世代の商業マスコミのサバイバルのポイントになってくる、いや成って欲しいと考えています。
既製マスコミがリニューアルして次世代にも生き残るのか、それとも劇的な新旧交代が地すべり的に出現するのかは、これから見物できると期待しています。いずれにしても、情報発信者が狭義のマスコミに限定される時代は終わりを告げようとしています。無数といってよいほどの個人が自由に情報を発信できる時代に対応できる事が次世代マスコミに強く求められそうです。