団藤保晴氏の主張

当ブログにもコメントを頂いたことがある朝日新聞記者の団藤保晴氏のブログ「Blog vs. Media 時評」に医療崩壊と医師ブログ林立、勢いと隘路と題されるエントリーがあります。内容についてはお時間があれば程度なんですが、そこで取り上げられているテーマと言うか主張と言うか、私が気になるのは、

しかし、ブログの世界だけに止まって議論していて、行政まで変えられるはずがありません。メディアの力も借りてでも動かして行かねばならないことに早く気付いて欲しいと思っています。そして、その段階では匿名から実名に切り替わらねばなりません。私が扱っているオピニオンのページなど、新聞メディアで行政の無様さに対し真っ正面から発言をしていただくためには実名で登場してもらうしかないのです。

間違いとは言い切れませんが、どうにも違和感のある主張です。前段の

    メディアの力も借りてでも動かして行かねばならないこと
これに関しては医療崩壊の現状に直面している医師としては「手段を選ばず」とか「ネコの手でも借りて」の切迫感がありますから否定はしません。ブログを中心としたネットの発信力の増大は目を見張るばかりですが、まだしばらくは「マスコミ > ネット」の力関係は続くだろうからです。そういう意味でマスコミの力は借りれるものなら借りたいですし、ここで連日書いているのもマスコミの姿勢の変化を期待している一面があるとは言えます。

ただマスコミの力を借りるために条件を出されております。

    匿名から実名に切り替わらねばなりません
ここは非常に引っかかる部分です。そりゃ、匿名より実名の方が一般的に信用度があがるでしょうが、これが絶対条件であるという主張は個人的に首を傾げます。マスコミが文化人とか有識者として意見を珍重する作家や評論家の方もペンネームを用いられます。作家や評論家の中にも実名の方もおられますが、ペンネームの方もおられ、ペンネームの作家や評論家の意見を求める時に実名じゃないとダメだの条件があるとは思えません。さらに言えばペンネームの作家や評論家の実名を知ることで意見の信用度が上るとは思えません。マスコミも読者もペンネームの著名度でその作家や評論家の信用度を考えるだけで、実名があるかないかなどは誰も問題にしないという事です。

ネット上で意見表明を行なう時も匿名ではなくハンドルネーム(HN)で行なわれます。HNの著名度もペンネームと同様に、発表した意見の内容の質の評価で高まります。各ブロガーはそれぞれ工夫を凝らして情報発信を行なっていますが、その努力の積み重ねがブログの著名度およびHNの著名度につながっていきます。HNとペンネームの間はそんなに価値の差は大きいものなのでしょうか。ペンネームなら無条件に尊重し、HNなら無価値と断じてしまうのは如何なものかと感じます。

もちろん匿名であるブロガーが自らの意志で実名を公開して意見を問うのは自由です。そうしようと思われる方を止める気も否定する気もありません。問題はHNでは意見を聞く価値が無いとしている姿勢が問題かと考えます。ネットのHNによる匿名意見では情報価値を認めないと主張しているのと同じかと思います。

またHNの価値観はネット内のみの常識であり、リアル社会では別だと団藤氏は主張されているのだと解釈しています。ネットは異世界であり、リアル社会にデビューするにはリアル社会の常識で行動すべしみたいな感じです。ネットが異世界であると言う見方は完全な間違いではありませんし、そういう世界も確かにあります。しかしネット世界とリアル世界はかつてのように明瞭な区切りがある世界ではなく、どんどん重なり合う領域が増大しています。

ネット世界の動きがリアル社会に影響及ぼすことも今や椿事ではありませんし、リアル社会の動きももちろんネット世界に影響を及ぼします。二つの世界は独立したものではなく、一つの大きな社会になっているのが実情です。二つの世界に階級差があるわけではなく、どちらも同じ社会を形成する一つの世界なんです。この変化の速度は急激でネットに棲むものでもどれほど変化しているのかつかみきれませんが、怒涛のように進行しているのは間違いありません。

こういう風に考えている人間はネット内では少なくありませんし、私もそう考えています。そういう観点から考えると団藤氏の主張は違和感を拭いきれないものがあります。


実はここまでにするつもりだったのですが、確認のために団藤氏のブログをもう一度読み直してみると非常に興味深い主張が行われていました。

 往々、誤解されているのですが、マスメディアは「検察一体」のような、対外的に統合された組織ではありません。独裁者が全ての論調を指示できるY紙のようなマスコミもありますが、普通の会社はそれぞれに持ち場を分割して、各セクションにデスクがおり、その判断で取材、出稿します。デスク自身も毎日当番ではなく、輪番です。したがって全体の質を上げるためには、各セクションのデスクと取材者のレベルを少しずつでも改善していくしかありません。医療崩壊についてなら、この2年で随分変わりましたが、事故調問題が判っている記者は少ないでしょう。さらに言えば、論説は密室で議論して勝手に書いていらっしゃるので、一線記者からすると不思議な社説がしばしば現れます。

これは医療崩壊に対する新聞記事で勉強不足のものがあることに対する弁解です。ポイントは、

  1. 持ち場を分割して、各セクションにデスクがおり、その判断で取材、出稿します
  2. デスク自身も毎日当番ではなく、輪番
まず1.に関しては記事分野ごとに担当を置いているシステムである事と理解しています。私も新聞社の内部実情の知見に乏しいのですが、ここで主張されている「持ち場を分割」とはいわゆる社会部だとか政治部とかの事ではないと考えられます。たとえば社会部の中でもさらに細分して担当を置いている事かと思われます。その事自体は聞いても「そんなものだろう」と感じます。

2.はそういう細分した担当部署のデスクは輪番日替わりになっているということのようです。デスクの権限は大きいようで「その判断で取材、出稿」とされていますから事実上の最終責任者みたいな認識で良いかと思われます。おおよそですが、大きな部の中に多数の係があり、デスクとはその係長であり、さらに係長は日替わり制で責任を負っていると考えても大きな誤解ではないと思います。

どうも日替わり係長であるから勉強不足になる面が出て来るのは致し方ないとの主張と解釈して良さそうです。そのための改善法として、

    各セクションのデスクと取材者のレベルを少しずつでも改善していくしかありません
この少しづつの速度ですが、
    この2年で随分変わりましたが、事故調問題が判っている記者は少ないでしょう
団藤氏個人を云々しようとは思いませんが、ここに二つのポイントがある事がわかります。
  1. 医療問題に取り組むシステムに問題がある
  2. 改善速度は2年でこの程度である

つまりシステム上2年でこの程度の改善しか出来ないから「仕方が無い」です。実に素晴らしい見識で、そういう理由であれば何事も許されると言うのが新聞社の見解と考えてよろしいかと思います。間違ってもこれからは「システムの不備なら即座に改善せよ」とか「慣行に縛られず時代に即応せよ」とか「問題は待った無しであり、そんな悠長なことは許されない」みたいな記事は出さないと信じておきます。

そうそうもう一つ、

    さらに言えば、論説は密室で議論して勝手に書いていらっしゃるので、一線記者からすると不思議な社説がしばしば現れます
涙が出るほど素晴らしい主張で、事件が起こった時の社長記者会見で時に不思議な主張をされる方がおられますが、それもこれからは許容容認して頂きたいと思います。不思議な社説を新聞社挙げて容認しており、これも新聞社の大好きなフレーズの「自浄作用」でどうしようもないようですから、他の社のトップが何を言おうがお互い様レベルになると考えられます。

そうは言っても私は団藤氏のこれらの主張は基本的に理解しております。組織の実情とは往々にしてそんなもので、これに属する個人で出きる事など限られるのも良く分かります。理解はしますが、マスコミと言う巨大メディアが糾弾する社会的影響力は強大です。ペン先一つで名門企業が簡単に倒産しますし、個人などは赤子の手を捻るように社会から抹殺できます。そのために「第4の権力」とまで言われているのですから、自らを厳しく律する姿勢があってこそ社会責任を果たせるんじゃないかと思っています。

正直なところ期待はしていませんが・・・