御用学者の御高見

前政権時代から行われ医療にも深刻な影響を及ぼしている規制緩和ですが、それに対しての政府側の立場に立つ学者の御高説が2006.12.14付の神戸新聞9面の「争論」に掲載されていました。非常に興味深い内容でしたので転載させて頂きます。形式は一問一答形式で、それなりに長いので適当に区切りながら私の見解も入れさせて頂こうと思います。

学者は早稲田大学大学院教授川本浩子氏。略歴は、東京都生まれ、オックスフォード大大学院終了、銀行勤務を経てマッキンゼー東京支社勤務、2004年退職。著書に「官製市場改革」(共著)などとなっています。

一部に規制緩和の達成感も出ているが。

「規制改革を含めた構造改革には1980年代からずっと取り組みが行なわれてきた。高齢社会という新たな課題を乗り切るためには経済成長が絶対必要。そのためには規制改革を通じて競争を促進し、生産性を向上させていくほか方法はありません。」

冒頭部はこの学者の規制緩和への基本姿勢が述べられていると考えます。ごく単純に解釈すれば「規制緩和はまだまだ足りない」とすれば良いようです。もっとも「高齢社会という新たな課題」と述べられていますが、こんな事はとうの昔に予測されていたことですが、この学者にとってはごく最近噴き出した「新たな課題」ととらえているようです。

特殊法人の民営化、金融の自由化などはかなりしたのでは・

「郵政は民営化の枠組みは示されたが実現するのは10年後。道路公団は株式会社になっただけで民営化に値しません。金融も破綻しても淘汰しないで救済するという競争政策上不徹底な仕組みが残っています。」

「政府の総合規制改革会議が営々と努力を重ねてきたにもかかわらず、労働、医療や教育、農業部門はほとんど改革が起こっていない。交通、エネルギーなどももっと競争を促進し、国民に提供するサービスの改善につなげる政策が必要です」

前段に述べられている郵政民営化ですが、道路公団はまだしも、私如きの愚か者には未だに郵政民営化がどうして必要だったのかサッパリ理解できていません。ただそれに続く金融不安を防ぐためであったと考えられる金融機関の救済策には不満がタラタラあるようなので、郵政を完全に民営化し、これが破産して会社ごと吹き飛ぶような競争が望ましいと解釈しても誤解では無さそうです。

後段は規制緩和が遅れている部門の具体的指摘がなされています。槍玉に上がっているのは労働、医療、教育、農業となっています。私は経済学者では無いのでどんな規制緩和をこの学者が望んでいるのかは正確にはわかりませんが、報道などからの情報からおおよそ次のようなものが考えられます。キーワードは「競争の促進」と「生産性の向上」です。

  • 労働

      高賃金が生産性を阻んでいると考えます。もっと長時間低賃金で労働者が働けば生産性は向上し、競争力が向上するとの考えであると思います。そのためにはホワトカラー・エキザンプションを広範囲に導入するのは当然以前の事だと考えます。また能力給を徹底すれば年功で高給をもらっている労働者をすべて駆逐できますし、無能と判断すれば速やかにリストラする事は生産性の向上に直結します。労働市場は買い手市場であるためもっと買い叩いて人件費を下げるべしの主張と推測します。


  • 医療

      これは分かり安い。混合診療の大幅導入による自由競争の実現です。良い医療を提供するものには高価な報酬で報い、質の悪い医療に対しては報酬を大胆に削減する。もちろん患者側も良い医療のためには高額の医療費が必要ですし、資産がなければ受けられない医療が出てくるのも競争社会では当然という事でしょう。


  • 教育

      規制緩和推進の張本人の一人が堂々と実行している事でしょう。超エリート教育の実現だと思います。規制緩和論者が考える社会では、一部の超エリートがすべてを考え判断し、超エリート以外のその他大勢は黙ってその指導に従う世界を理想としています。それを実現するための学校間競争、エリート教育が激しい競争の元に展開される教育だと考えます。
  • 農業

      輸入の完全自由化であることは論を待ちません。莫大な補助金で維持されている国際競争力がゼロに等しい農業など規制緩和論者にとっては無駄の極致です。

規制緩和は弱者に厳しいと批判されるが。

「真の弱者が誰であるかを見極めなければなりません。改革への批判は弱者の仮面を被った強者の論理である事が多い。例えば今、労働市場で規制を強めて、労働条件を正規雇用者にそろえようとうい動きがある。これを単純にやれば企業にとってコスト上昇の要因となり、結果として非正規雇用者の雇用機会を狭める恐れがあります。長期雇用で守られている正規労働者という強者だけではなく、若者や女性への影響も十分に考えて制度の議論を進めるべきでしょう。」

分かったような分からんような理論展開ですが、まずこの段での主張の基本は「改革への批判は弱者の仮面を被った強者の論理」である事はわかります。続いて例を挙げての主張になっています。例は労働問題のようです。この学者が労働問題で槍玉に挙げているのは非正規雇用者を正規雇用に切り替える事のようです。

正規雇用が良いか非正規雇用が良いかは労働者の立場によって異なるかもしれませんが、常識的には真面目に働こうと思うものは正規雇用を望むと考えます。正規雇用で長期の収入が保証されてこそ、家や自動車のローンを組むことが出来ますし、種々の生活保障も充実します。その仕事に打ち込みたいし、その会社で頑張りたいと考えているのにワザワザ正規雇用の道を断って非正規雇用を選ぶ人間はいないと思います。一方で企業は雇用者は出きれば非正規雇用の割合が多いほうが望ましいと考えます。非正規雇用者のほうが人件費は低水準に押さえ込めますし、必要なくなれば容易にリストラできます。正規雇用者となれば解雇するだけでも一騒動になります。

だから生活の安定のためにも労働形態は正規雇用のほうが望ましいと考えるのが我々愚民ですが、この学者はそれこそが「強者の論理」と一刀両断にしています。理由も明快で「非正規雇用者の雇用機会を狭める」です。この学者の主張では、強者は正規雇用者、弱者は非正規雇用者であり、弱者の非正規雇用者に優しいのが規制緩和であるという論法のようです。

まったく恐れ入る論法ですが、さすがに学者らしく主張は見事に首尾一貫しています。最初に規制緩和の目的として、企業の競争の促進と生産性の向上を据えています。この二つの目的は何者にも優先するという大前提を定義しています。少し言い換えれば経済成長の為に企業活動を阻害する要因を取り除く事が正義であると定義しているといえば良いかと思います。

そういう定義からすれば正規雇用者になりたいというのは規制緩和の目的からすれば敵であり、正規雇用者の存在は規制緩和の目的からすれば排除すべき対象という事になります。正規雇用者は非正規雇用者に較べても人件費が高く「企業にとってコスト上昇」という害悪を招きます。ところが正規雇用者の身分保障は厚く、排除するにも手強い難敵です。こういう存在こそが規制緩和の目的にとって「弱者の仮面を被った強者」であるという理屈です。

皆様よくわかりましたか。話は続きます。

格差を広げるとも。

「格差を示すジニ係数が拡大した主因は高齢化です。ムード先行の格差というあいまいな問題設定ではなく、貧困問題をどうするかなら、具体的対策も取れます」

「世界を見渡せば、現在の日本の貧困レベルはどのレベルかという客観的視点も忘れるべきではないと思う。ただ、公教育が劣化したために結果的に貧しい人のチャンスを奪い、格差社会になってしまった面があります。これをどうするか。公立学校間、教師間にも切磋琢磨を促し、サービスの質を高める教育改革が大事です。公教育を底上げしなければ格差問題は決してなくなりません」

「格差問題は、実は競争社会を嫌う既得権益者が自分たちの権益を温存したいために協調している面はないですか。抵抗勢力の巻き返しとしてつかわれていませんか」

おそらくもっと長いインタビューを編集したので生じているのでしょうが、どうにもこの一節は論理についていくのに困難を感じます。しかし情報が紙面分しか無いのでここから読み解きます。

まず上段は格差社会を示す数値であるジニ係数の拡大は高齢化であると断定しています。断定するのは勝手なんですが、そうなればその他の年代では格差社会は生じていない事になります。ワーキングプア生活保護者の増大も「ムード先行」の幻想であるという事になります。

そこまで上段では断定しておいて、上段の最後から中段の冒頭で貧困問題がある事を認めています。貧困問題はいつの時代でもあったことで、格差社会を示すジニ係数の拡大が高齢化によるものであるのなら、今になって貧困問題がとくに問題化することは無いとは思うのですが、この学者の主張は格差問題を貧困問題に中途半端に置き換えながら続きます。

貧困問題ではさらに比喩が銀河系まで飛んでいきます。しばしば強弁を行なう論者の用いる手法に国際比較があります。国際比較を持ち出す手法が悪いとは言いませんが、強弁論者では自分の主張に沿う部分だけ都合よく切り出して限定的に使用します。ここでの使い方もその典型です。

    「世界を見渡せば、現在の日本の貧困レベルはどのレベルかという客観的視点」
なぜ貧困問題だけが国際比較で語られなければならないかの論拠は不明です。北朝鮮スーダンソマリアなどの貧困層との「客観的視点」なんてどうして必要かと思います。

一国の内の貧困問題は国内での相対比較によるものです。所得の分布で下位に入る一定の層を貧困層と呼びます。逆の富裕層もまた同じです。所得の分布がなだらかであれば富裕層と貧困層の差は小さく、その逆であれば大きくなります。また国の経済力で所得のパイの大きさは決まりますから、富裕層の富裕具合、貧困層の貧困具合は当然異なります。

貧困問題は中途半端に論じられた後、教育問題に話題は移ります。中断はここに費やされています。まず現在の教育の問題点を提示しています。「公教育が劣化」です。この事には私もさして異論はありません。では劣化した公教育をどう改善するかの具体論が必要となります。この学者は「公立学校間、教師間にも切磋琢磨を促し、サービスの質を高める教育改革」としています。

教師が切磋琢磨してもらうのは子を持つ親として嬉しい限りですが、公立学校間の切磋琢磨はどの範囲を指しているのでしょうか。高校や大学では既に行なわれています。そうなれば義務教育である小学校や中学校に広げるという事でしょうか。学校間で切磋琢磨すれば必然的に優勝劣敗は生まれます。全部が勝ち組になる事はありえ無いと言う事です。勝ち組学校は勝ちに乗じて優秀な教師をかき集められる事になります。優秀な教師をかき集めるのも切磋琢磨に入るでしょう。一方で負け組学校にはカス教師の巣窟になります。どうもこの学者の教育改革は義務教育時代から人生の勝ち組、負け組を綺麗に色分けしたいようです。

下段も編集されすぎて真意が分かり難いのですが、「競争社会を嫌う既得権益者」って誰の事を具体的に指し示すのでしょうか。これまでの主張で具体的に上がっていたのは正規雇用者です。後は規制解除が出来ていないと槍玉に挙げられた教育、医療、農業、交通、エネルギーの関係者でしょうか。漠然としすぎて私にはよくわかりません。

「官」の役割は。

「民間で効率よく運用できるなら任せてしまい、官は市場活動のチェック機能に徹するべきです。ところが、日本はチェック機能がきちんとできていない。わずか700人しかいない公正取引員委員会など、官の中でも必要なところは増強すべきです。省庁間で人員を流動させれば公務員数の削減とは抵触しません。情報を公開して官邸が指導すれば省庁も従うでしょう。」

耐震強度偽装問題も検査を民に任せたのが間違いではなく、民をチェックする事を官が怠ったのが原因です。ライブドア事件規制緩和のせいにするもお門違いで、ルールを整備し、きちんと監視する能力を取引所が持っていなかった事が問題です。これらをもって規制改革に反対したり、競争政策にブレーキをかけるのは本末転倒です。競争がないと人間はだめになるし、消費者を守るのも競争です。これまでの改革路線を強化しない限り日本のしょうらいはありません」

公正取引委員会の人数が少ない事を槍玉に挙げていますが、ついで言えば会計監査院も増員が必要でしょうね。ただし人員をどっかの官庁から引っ張ってきて頭数をそろえる論法には恐れ入ります。この手の学者は自分の事は棚の上の方に上げる傾向が強く、自分の仕事以下と見なしている仕事はバカでも出来ると考えています。

職掌により専門が違えばおいそれとは仕事が出来るものではありません。それぞれの分野の専門家になるためにはそれなりの経験とトレーニングが必要です。コンビニのバイトを雇うように頭数をそろえれば良いというものではありません。コンビニのバイトだって最低限の経験は必要です。言っちゃ悪いですが、大学院教授といわれても「大学の教師」ですから、この手の論法で言えば同じ大学だから理学部であろうが、工学部であろうが、医学部であろうがすぐにも員数合わせで教授が出来て当然と思いますし、教授といっても教師の一種ですから、高校でも、中学でも、小学校でも幼稚園でも明日から「先生」ができて当たり前になります。

耐震偽装も相当な強弁と感じます。「民をチェックする事を官が怠ったのが原因です」とは素晴らしい論法ですが、ではどうやって民をチェックするのか具体策が欲しいところです。設計図を一枚一枚チェックしなおすのなら二度手間ですから民は不要です。やるとすれば抜き打ちで一部の設計図をチェックするぐらいですが、この辺は統計論になるのでしょうが、ある程度のチェック機構を作る費用効率はどんなものなのでしょうか。

さらに言えば民が耐震偽装を行なって被害者が出たとき、責任は民の検査機構になります。今回の耐震偽装で問題になったのは、こういう事件が起こったときの国の責任問題です。官が認可したのなら官の責任となって国からのもっと十分な補償があったはずなのに、民であったが故に被害者は二重ローンを強いられています。とくに大規模マンションなどは被害も大きい上に、購入者は建築物の良否を見分ける事は不可能に近いことです。だから最終責任を官にすべしの提言があの事件後にみられましたが、そんな事はこの学者には無関係のようです。

最後に「競争がないと人間はだめになるし、消費者を守るのも競争です。」は嘘ではありません。第二次大戦後に生まれた社会主義国家がその理想とは裏腹に崩壊していったのは、政治的腐敗もありましたが、競争の過度の排除による社会の停滞も一因とされています。だからある程度の競争原理が社会には必要な事は理解します。

ただ過度の競争は社会に歪をもたらします。過度の競争社会の勝者はほんの一握りです。ほんの一握りの成功者が勝利の果実を独り占めする社会が望ましいものなのでしょうか。一握りの勝者以外は累々たる敗者の群れしかありません。激烈な競争社会では一度敗者の烙印を押されれば終わりです。敗者復活戦はありえないのです。勝者は相手に打ち勝つ事によりますます強大となり、敗者になったものは持てる物のすべてを失うのが競争社会です。

この歪は現在でも確実に現れています。現首相のスローガンの一つである「再チャレンジ」です。こんなものは従来なら政府がわざわざ音頭を取らなくても当たり前のものでした。それが今の世の中では政府の重大課題となるほど問題化していると考えられます。つまり現在では、再チャレンジする事が困難な世の中に確実に移行しているという事です。

常に勝ち組の属し、負けた経験のない学者の御高見は良く分かりました。たしか現首相もほぼ順風満帆の政治人生だったはずで、つねに勝って当たり前の人のような気がします。ただしこの世のの中にはこの学者の御高説の競争に勝ち抜けない人間の方が多い事を忘れない方が良いと思います。つまり圧倒的多数派がこの政策の敗者になるという事です。その報いは遠からずあると私は思っていますが・・・。