全国学力テストの雑感

色んな批評と言うか批判もあるものですが、申し訳ありませんが自分の子どもがそういう時期を済んでしまったので、それこそマスコミ記事でチラチラ横目で読む程度の関心しかありません。そういう訳で知識は不十分なので雑感です。


本来の目的はなんだろう

まずそもそもなんのためにやっているのだろうです。たぶん文科省が行っている教育の成果を確かめているぐらいに考えています。対象は小中の様なので、義務教育の成果みたいなものです。教育もなんらかの目的・目標を定めてこれを達成するのも小中レベルでは必要ですから、文科省が設定した基礎学力面の目標達成度をテストしているぐらいです。おおよそこんな見方でも的外れではないと考えています。

教育も人相手のもので、とくに子ども相手では、これだけの内容をこの手法で教えれば「覚えられるはず」とやってみても、それが計画通りになるかどうかは未知数の部分があります。もちろん教わる方の子どもにもムラがありますが、教える方の教師にもムラはあり、それもこれも勘案して期待している成果(テスト結果)があるはずです。これが期待通りなら申し分はありませんが、期待ハズレなら修正のための資料になるぐらいです。

事は基礎学力ですから、全国で一定のレベルは必要で、そのために全国レベルでテストを行っているのだろうです。


妙な受け取り方があるようです

テスト結果の公表で色々論議があるようですが、聞いていて珍妙と思ったのは、

  1. オラが県の成績が全国最下位なのは屈辱だ
  2. ウチの県はかれこれが全国平均に及んでいない
気持ちはわからなくもありません。そりゃ全国最下位と聞かされて喜ぶ人はいないでしょう。ただ良く考えなくとも、「屈辱だ!」と頑張って全国最下位を脱したら、必ずどこかが代わりに全国最下位になります。全国平均だってそうで、仮にテスト成績が正規分布していたら、どうやっても半分は平均点以下です。都道府県は47しかありませんから、これを47人で構成されるクラスで例えると、
  1. クラス内で最低点を取るのは誰も許さない
  2. 全員が平均点以上を取らなければならない
実現不可能な目標である事は誰でも理解出来ます。ただそういう使い方をされている首長クラスの方がどうにも散見されます。きっと算数は苦手だったんだろうと思っています。


相対評価とは集団の中での自分の位置を表す評価です。それこそクラスで何番とか、学校で何番みたいな評価の方法です。これは競争試験では有用な評価です。受験がわかりやすいですが、あれも単純化すれば上から順番に合格と言う椅子に座れます。受験を競う集団の中で、上位にいる事が必要であり、そのためには相対評価がわかり易い指標になります。

絶対評価とは個人の能力そのものをある基準に副って評価するものです。喩えとして運転免許試験が良いかもしれません。運転免許はクルマの運転が出来る能力があるかどうかをテストしているものです。ある基準以上であれば合格となり免許が与えられます。運転技量も上手に越した事はありませんが、F1ドライバー並の技量があるからと言って、特別な免許を与えられるわけではありません。基準にさえ合格すれば誰も合格と言うシステムです。

国学力テストは基礎学力を調べるという趣旨からして、扱いとして相対評価として見るのではなく、絶対評価として見るべきものだと思っています。目標点以上を残せば、後はギリギリでも満点でも同じと見るです。受験用に相対評価が欲しい人は、それはそれで業者の模試なりを受けて評価してもらえれば十分かと思います。

あえて全国学力テストに競争要素を持ち込むとしても、これも絶対評価で行うべきです。そうですねぇ、大学の評価のように優良可不可ぐらいが適切だと思います。これであれば

  1. うちの県が不可なのは屈辱だ
  2. もっと優の数を増やしたい
他の都道府県との比較はどうやっても出てきますが、自分の県の成績は他の県と連動していませんから、すべての都道府県が目標を達成するのは実現可能な物に転じます。ポイントはテストしているのはあくまでも基礎学力と言うところです。基礎学力は習得しておいて当然として悪いとは思えません。


基礎学力とはなんだろう

教育は基礎学力の習得だけないと言う考え方があります。間違ってはいないと思いますが、基礎学力の習得は小中レベルでは必須と考えています。つまり基礎学力の習得だけが教育では無いとしても、基礎学力の習得を怠ってはならないと考えます。基礎学力は不十分であるが、その他の面での教育成果があるから帳消しみたいな主張がありましたが、これはポイントがずれている気がします。二択で考える問題ではなく、両方を身につけるのが教育だろうと言うところです。

ここでなんですが、基礎学力の捉え方に温度差があると思っています。あえてモロに言いますが、基礎学力に対して受験学力はあります。受験学力は基礎学力がないと養えませんが、基礎学力だけでは受験学力に及びません。基礎学力の位置付けは学力のあくまでもベースであり、この上に受験学力を花咲かせるもよし、受験学力を必要としない世界を目指すも良しです。それさえも身につけないでヨシとするのはやはり問題だと思います。

この学力テスト否定派の教育関係者が評価しないといけないのは、学力テストではなく学力テストの内容と存じます。もっと言えば基礎学力とはどれほど必要なのかです。現在の全国学力テストのレベルが基礎学力を評価するのに高すぎるのか、適切なのか、低すぎるのかです。この点が一番重要です。ここの議論を抜きにしてテスト有害論を展開されても評価がしにくくなります。

仮にレベルが適切ないし低いのであれば、ここで成績が悪いのは教えるサイドに問題ありとされても不思議とは思えません。他の教育面でカバーしているからヨシなんてドンブリ勘定は堪忍して欲しいところです。基礎学力はあくまでも基礎です。基礎ですが、基礎がないとこの上に積み上げる事は出来ません。その基礎を不十分なままで放置するのは、基礎の上を伸ばしたいと考えている子どもにハンデを与えているのと同じと私は考えます。


感想

今日は綺麗事で基礎学力だけで良い者と、その上に受験学力を花咲かせるものに二分しましたが、現実には後者の路線の方が圧倒的多数です。花は咲くかどうかは別にして路線としてはそちらに向かわせたい親が多数です。そりゃ、芸術とか運動とかの才能依存系の分野で身を立てるのがどれだけ大変かを知っているからです。たとえそっちの天分がそれなりに見えても、まず向かわせるのは受験学力養成路線です。

私も自分の経験、自分の子どもの経験を踏まえて思うのですが、学校の教育方針は不思議なところで、「みんな平等」が極度に重視されます。必ずしも悪いとは言えないのですが、重視するあまり競争排除に偏りすぎた面があると思っています。競争は勝者と敗者を作り出し、とくに敗者を作るのは子どもには宜しくないと言う趣旨には反対しませんが、義務教育が終わった途端に競争原理の中に放り込まれるのが現実です。平たく言えば高校受験です。

親はそれを良く知っています。親でなくとも成人なら全員がそれを知っています。知っているからこそ、学校の「みんな平等」路線があっても、あれは学校内のファンタジーと扱っています。無邪気に乗っかっていたら、高校受験時に冷や水の嵐に見舞われるだけだからです。そういう表面上のファンタジーと本音の現実が渦巻くのが初等・中等教育の一つの側面とも思っています。

ファンタジーが行き着くところまで行ったのが「ゆとり」路線であり、今はその反動期だと思っています。ただファンタジー世界であっても、昔からの学力の基本である「読み、書き、算盤(算数)」ぐらいは身に付けてもらいたいと学校に期待しています。それぐらいはどんなファンタジー設定でも、公教育の最低の目標と思っています。