格差社会と社会不安

古来栄華を極めた王朝も最後は社会不安で倒れています。倒れた原因は種々に分析されていますが、結論は「○○により社会不安が醸成されて・・・」になっていることが大部分です。次期王朝は前王朝の倒壊の原因となった不安因子を除去して作られますが、それでも末期になると「××により社会不安が醸成されて・・・」と同じような経過をたどっています。○○とか××は社会や文明の進歩により制度の創設者の発想の限界を超えて起こるものと見ます。

社会不安が起こるきっかけは様々ですが、社会不安が起こる条件は類似しています。つまり権力の一極集中化です。権力の源は古くから政治力と経済力です。この二つが王朝末期に一元化すると崩壊を早めます。二つが一元化した権力は外見上は頗る強力で、揺るぎないように思われがちですが、見方を変えれば持てるごく少数派と持たざる大多数派の二極分離の社会構造を形成している事になります。典型的なのはブルボン王朝末期で、革命の嵐に火が付くと意外なほど脆く倒壊しています。

逆に政治力と経済力が分散した社会は、外見上弱そうに見えても安定しています。典型的なのは江戸幕府で、幕府を始めとする諸藩は江戸幕藩体制が始まって幾許もなく、財政難に見舞われることになります。この財政難は一部の例外を除いて江戸幕府崩壊まで慢性的に続いています。一方で経済力は商人の手にしっかり握られる事になります。そんな体制で200年以上の安定を築く事になります。明治維新は一種の革命ですが、あれも江戸幕府の圧政に耐えかねて起こった庶民の暴動ではなく、外圧にヒステリック反応した純政治的現象である事は特筆しても良いでしょう。外圧さえなければ、江戸幕府は後100年は軽く続いていたとも考えます。

現在の日本はどうでしょうか。戦後の日本は世界一うまく運営された社会主義国と揶揄されるぐらいの水平社会を築きました。「一億総中流」の言葉をなんの抵抗もなく受け入れていたと言えます。総中流の意識であるが故に成功者は賛美され、目標とされました。「いつかはオレもああなる」「ああなりたい」と素直に思いましたし、自分がダメなら子供に夢を託した時代でもありました。成功者といえども感覚として手の届く範囲のものであり、中流に留まる自分と、上流としての成功者の間には垣根があるわけではなく、ちょっとした人生の運不運の差であるぐらいと認識していたと考えます。

ところが平成大不況からの脱却に苦慮した為政者は新自由主義という劇薬に手を出す事になります。功罪の評価は一概に断定できませんが、水平社会を構成していた規制を撤廃し、荒々しい競争原理を持ち込んだのです。資本主義の本質は一人勝ちを追及する社会です。どんな企業の経営者であっても、経営の目指すところは規模拡大により業界No.1になることであり、できればシュア100%の独占企業になることです。勝つものは果てしなく富み、負けるものは果てしなく転落する社会です。

差引勘定は微妙ですが、業界の各企業が規制によりソコソコ商売した利益の総和と、自由競争で巨大企業が一人勝ちして獲得した利益では、一人勝ちしたほうが高いと考えるのが新自由主義の発想のような気がします。もちろん現在の商売は国内だけではなく海外との商売も非常に重要で、最大の貿易国であるアメリカが新自由主義で巨大企業に体力をつけさせる政策をしているのなら、それに対抗する企業を作る目的があるにせよです。

業界を一人勝ち企業が支配する構造になれば、業界全体のマクロ統計は向上します。ただし潤うのは少数の勝ち組企業だけで、その他の企業は経営に苦闘する事になります。勝ち組の恩恵を受ける人は少なく、負け組の悲哀を感じる人は大多数の構造です。こういう現象が国中に蔓延し始めているのが格差社会です。

勝ち組のニュアンスはかつての水平社会時代の成功者とは趣が違います。既に意識として手の届かない存在と化している様な気がします。別の社会の人間であると認識しているという事です。つまり新自由主義による格差社会は、ごく少数の持てる者と、大多数の持たざるものの階層社会を実質的にも意識の上でも築いているのです。

社会の二分化は社会安定の上で極めて危険な徴候です。夢も希望もない持たざるものは、もてる者への反発、嫉妬をひたすら深めます。かつての水平社会での成功者には賛美と憧れがありましたが、格差社会の勝ち組には嫉妬と反感として噴出する言う事です。この噴出方向が政府に向けられると革命となります。社会は多数派のものだからです。それゆえに為政者は不満のはけ口としての犠牲者を仕立て上げます。犠牲者は国策により誘導された側面がありますから、情け容赦なくトコトン叩かれます。批判という領域を超えて問答無用の社会的リンチの様相を呈することになります。誰が叩かれるかには極めて恣意的な側面があるのは言うまでもありません。恣意的でありますが、一旦始まれば社会挙げての熱中するようなものになります。それも時が経つほどバッシングはヒートアップしていくのも言うまでもありません。

長い寄り道でしたが、為政者は政治力を持っています。この為政者が一生懸命手を握ろうとしているのは勝ち組です。勝ち組には経済力があります。政治力と経済力が少数の手に一極集中する現象が日本で起こりつつあるのです。先ほどのバッシングの対象者は、巧みに温存すべき勝ち組企業を外します。叩くのは社会的認識で勝ち組であろうと思われている、真の勝ち組でないものたちです。医者然り、教師然り、公務員然りです。こういう連中は負け組から嫉妬の目で見られており、なおかつ社会的リンチを加えても反撃がまずあり得ない安全なバッシング対象であるからです。

小泉政治格差社会を構築し、政治力と経済力の二大権力の複合体の権力構成に成功しつつあります。一見無敵の強力体制です。現実にも具体的には負け組の声はどこにも届きません。社会の不満は哀れな犠牲者を仕立て上げ、それを集中的に叩く事によって巧みにガス抜きをしています。その手法は小泉首相の在任期間はボロが表面化しませんでした。

ただしガス抜き手法がどこまで通用するかですが、必ず限界が来ます。少々のガス抜きではマグマの様に蠢動する社会不安は解消されないからです。歴史は教えます。そういう事態になったときには為政者はより巨大なガス抜きを考えます。たとえば戦争。外征により国民の政治的不満を逸らす手法は数限りなく繰り返されています。古来は外征の勝利による戦利品の分配で国民の不満を解消できたからです。

外征は現在社会では利益を産みにくい物となっています。出費ばかりで得る物が少ないからです。とくに日本ではいくら韓国や中国ともめても武力に訴えての全面対決のような事態は想定し難いものとなっています。それでも敢えてやるかどうかは、想定に枠外になりますので置いておいて、やらないとしたらどうなるかです。やがて持たざる多数派の憤懣は持てる少数派全体に向けられる事になります。勝ち組、負け組の権力闘争です。

この権力闘争の安全弁として選挙があります。武器を持っての闘争ではなく、投票による戦いです。日本ではまだこの機能が健在です。いかに権力者といえども選挙をコントロールすることはできません。これだけは選挙民が自由の意思の元に権利を行使し、結果は公正に反映されます。そうであれば選挙で政界の権力地図が塗り替えられたら、社会不安は収まるでしょうか。

実はここにも大きな不安を感じています。ごく皮相的に考えて政権交代があるとすれば民主党政権です。民主党は混成軍ですが、中枢にいるのは自民党出身者であり、自民党の分家みたいなところがあります。民主党が政権を握っても、看板が違うだけの現路線を踏襲しないという保証はありません。もしそうなれば社会不安からの憤懣はガス抜きされない事になります。選挙で解消しないときにはどうなるか。選挙によらない社会変革運動になります。革命路線の登場です。

いずれにしても社会の二大権力である政治力と経済力は一元化してはならないものなんです。一元化すれば一時的には絶大な権力を握れる事になりますが、その直後に絶大に見える権力でさえ吹き飛ばしてしまう反動が必ず来ます。これは歴史が証明するとおりです。また政治力と経済力を一元化した権力は緊急避難的に必要になることはあるかもしれませんが、それはあくまでも緊急避難であり、さらにそれを行使できる人間は稀な指導力を持つ人間であり、必要な権力を使えば速やかに権力の分散を図る必要があります。

それが分かっている指導者が出るうちは社会は健全であり、目の前の権力にしか見えなくなり、それを握り離さなくなる人物が登場すればその社会は寿命が来ていると思います。今の日本社会の寿命はどうなんでしょうか。