民信無くば立たず

誠に申し訳ないと陳謝させて頂いて、今日もネタ切れで政治の話にさせて頂きます。あれこれネタを漁ったのですが、どうしても形にならず、休載にするよりマシ程度の埋め草と御理解下さい。タイトルにしたのは論語・顔淵扁にまつわる言葉です。白文と読み下しを書いておくと、

子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立

(子貢、政を問う。子曰く、食を足らしめ、兵を足らしめ、民をして信あらしめよ。子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯の三者に於いて何をか先にせん。曰く、兵を去れ。曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於いて何をか先にせん。曰く、食を去れ。古より皆死あり、民信なくんば立たず。)

政治の要諦を子貢の問に対して孔子が答えたもので、次の3か条を孔子は挙げています。

  1. 十分な食糧
  2. 十分な軍備
  3. 国民からの信用
時代背景が春秋時代なので、軍備については現在なら安全保障とか平和ぐらいに解釈しても良いと思います。この3つが必要としたのに対し子貢は「あえてその中で必要なものは」の問いを重ねています。これに対し孔子は国民からの信用としています。たとえ国民が他国の軍馬に踏みにじられ、餓死しようとも、国を成立させるにために最も必要なものは「信」としています。

「信」は信用と考えても、信頼と考えても良いと思います。国民の為政者への信用・信頼が国を成立させる最も大事な事であるとしています。逆に言えば食糧保障や安全保障があっても、為政者への信が失われている状態は亡国への道としていると考えても良いと思います。

今の日本では安全保障(細かな議論は置きます)はあり、食糧も十分にあります。そうなれば為政者は信を国民から得ることが重要課題になります。もっとも信と言っても、絶大なる信用を得るのは現在の平和な日本ではかえって難しいとは思います。細かな失言、細かな判断ミスに対して容赦ない批判を浴びせかけられる政治状況の中で孔子の求める信を得るのは容易でないだろうとは思います。


それでもウソはいけません。もちろん政治家はウソをつきますし首相だってウソをつきます。私の覚えている限りでは、終戦後を担った大総理である吉田茂は、党内の政敵である畑山一郎鳩山一郎の台頭を押さえ込むために、何度も甘言を弄して騙しています。吉田・鳩山の抗争は吉田側に政治指南役として松野鶴平がおり、鳩山側には稀代の策士とされる三木武吉がおり、騙し騙されの政争劇を激しく展開しています。

鳩山一郎政権の後継者を争った総裁選挙では、最有力候補者である岸信介に対し、石橋湛山が2位3位連合の奇策で逆転勝利を収めています。もちろんそれほどの奇策を行うためには、空手形を乱発しまくる必要があり、首相にはなったものの乱発した空手形のツケを整理しきれず、wikipediaからですが、

しかしながら前述のような総裁選であったため岸支持派とのしこりが残り、更に石橋支持派内部においても閣僚や党役員ポストの空手形乱発が行われ足並みが乱れ、組閣が難航したため、石橋自身が一時的にほぼ全ての閣僚の臨時代理・事務取扱を兼務して発足している(一人内閣)。

どれだけのウソが飛びまわったか考えるだけで空恐ろしいほどです。

日本最長政権を記録した佐藤内閣の後継を巡って争われた角福戦争も壮絶だったとされます。後継最有力者とされた福田赳夫に対し田中角栄が猛烈な運動を展開し、乱れ飛ぶ札束合戦の末に田中内閣が成立しています。この角福戦争は、ロッキード事件田中角栄が失脚した後も延々と繰り広げられ、田中政権の後を継いだ福田内閣大平正芳をバックアップして総裁選挙でひっくり返したり、その大平内閣を不信任で解散総選挙に追い込んだりです。


これらの政治家のウソは総理の座を巡る権力闘争で行われたものですが、あくまでも政治家が政治家を騙したものです。騙された方は、気付いた瞬間に天を仰ぎ、自分のバカさ加減を悔やんだでしょうが、ウソの影響は政治家内に留めています。権力闘争にウソはつきものであり、そのウソをどれだけ見抜けるかが政治家の力量と考えたからだと思っています。

騙され煮え湯を飲まされた側は臥薪嘗胆を誓ってさらなる権力闘争に励んだのは当然ですが、自分は騙されたとはおそらく一言も公言しなかったと記憶しています。そんなウソに騙される程度の政治家では、とうてい首相の器ではないと見なされる事を怖れたからだと考えています。また政治では「勝てば官軍」であり、負けた方がいくら「騙された」と訴えようとも「ひかれ者の小唄」状態の惨めさしかなかったからだと思います。


あくまでも個人的な感想ですが、政治家、とくに首相の座を巡る権力闘争のウソは政治家内に留めるものだと考えています。政治家のウソに騙されるのは、騙された政治家が悪いのであり、自分が騙されたと公言するのは、それだけ能力が低い証拠としかならないと思います。また騙す方も、その影響は政治家内に留める工夫が求められると思います。

政治家が政治家を騙すのは政治ですが、国民を騙してはいけません。政治家同士ではどんなウソをつきあっても政治の世界ですが、これを国民にまで広げては決してならないと私は考えます。騙されても「騙されていない」と強弁するのが政治家であり、騙した方も「騙していない」と強弁するのが政治と思っています。国民の前では首相はウソをついてはいけないのです。

国民まで巻き込んでのウソの末の権力奪取では、もはやいかなる信も残りません。首相はウソつきであるとのレッテルは、何があっても貼らしてはならないと考えます。


そう考えると、今回の不信任決議のドタバタ騒ぎのレベルがいかに低かったかがわかる気がします。騙した方の手法も最低ですし、騙された方の対応もまた最低です。憎かろうが、評価が低かろうが、勝った方は首相であり、首相には日本の命運が託されています。どんなに無残に騙し騙されようとも、その舞台裏の暴露合戦に展開してはならないはずです。

首相の座を巡る権力闘争の最低限の紳士淑女ルールは、勝者である首相という地位を守ると言う事です。首相の座を巡るなんでもありの権力闘争と、勝負の結果は分けて対応するのが最低限のルールであったと思っています。今回の政争の醜さ、程度の低さは、公人としての首相の座と、個人としての首相本人の怨念を完全に混同している点ではないかと思っています。


関係者、とくに与党の有力者には頭を冷やしてもらいたいものです。首相の座は終着点ではなく、首相になって何をやるかが問われる座です。与党議員は、首相の仕事の評価で次の総選挙の審判を受けるのです。そこさえ分かれば、自ずと今やらなければならない仕事がハッキリするはずです。国民の最低限の信を失った為政者は、孔子の時代から失格の烙印を押されます。