モデルチェンジの感想

 次回作からしばらくバイクとツーリングの話になるのですが、モデルにしていたバイク、モンキー125がモデルチェンジをしてしまいました。バイクにしたらえらい早いモデルチェンジで、そっちに驚きました。ホンダもあれこれ戦略があるのでしょうが、こっちにしたら困ったもんだです。

 モデルチェンジの感想ですが、私に言わせれば四速から五速に変わったぐらいです。それはそれで歓迎で、どうせなら六速にしてもよかったぐらいと思っていますが、悪い改良点ではありません。

 個人的には125ccはどうしても非力ですから、もう少し馬力が増えて欲しかったのですが、エンジンの性能アップは誤差の範囲ぐらいみたいです。やっぱり六甲山を登るのはキツイだろうなぐらいの感想です。

 エラそうに書いてますが、新型は言うまでもなく旧型も見た事あるのがせいぜいなので、その辺は忖度してください。

 デザインも形は間違い探しぐらいのものですが、カラーリングはペケです。なにを考えているかは不明ですが、日本販売の分からバナナイエローを廃盤にしてしまいました。欲しかったのにです。

 それよりなにより黒の部分が増えて、全体がえらい地味になっています。良い様に言えば精悍さが増したでしょうが、そういうバイクならグロムがあるじゃないかです。あれは可愛くてナンボが値打ちだったのにと地団駄を踏む思いです。

 やっとこさ販売になったので購入するかどうかの話になりますが、とりあえず待ちです。微妙に仕様が変わっていますから、先代のサードパーティ品との適合情報が不明だからです。こればっかりは待たないと不明です。

 実は待っていると購入を決断しても手に入るまでの時間がドンドン伸びそうな気配もあるのですが、さてどうするかを悩み中です。コロナの影響は経営にもかなり影を落としていますから言い出しにくいのが確実にあります。

 ここも考えようで、コロナの自粛、自粛はさすがにウンザリ気分があります。出歩いたり、外食が大好きって程じゃありませんが、出不精で動かないのと、動けないのでは差は歴然とあります。

 だから、思い切って買ってしまうのもありかと勝手に思っています。なにかワクワクするような事がないと、気持ちが沈んでやりきれなくなってますからね。

オシラサマ

 遠野物語は柳田国男の代表作であり、日本の民俗学の黎明期の作品です。そういう作品があることを知っている人は多いと思いますが、恥ずかしながら私は読んだことがありませんでした。理由は色々ありますが、とにかく読んだことがなかったのです。

 ですが東北に旅行に行く設定の作品を書くに当たり、遠野を訪ねさせることにした関係で初めて拾い読みしました。なかなか興味深いものでした。

 素朴な感想として関西とは宗教観が違うです。遠野物語のような奇譚は全国にありますが、どうしても仏教的な説話としてまとめられてしまっているのが多いと考えています。シンプルには因果応報でしょうか。しかし遠野物語はかなり違う感触です。

 遠野物語にはいくもの神が登場しますが、代表的なものの一つにオシラサマがあります。青空文庫かから引用しますが、

昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、ついに馬と夫婦になれり。或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父はこれを悪みて斧をもって後より馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり。

 馬と夫婦になった体位はどうだったのだろうなんてツッコミは置いとくとして、娘は夫である馬を父親に惨殺されています。それであれば娘は父親を恨みそうなものです。遠野物語では話はここで切れていますが、佐々木喜善はこの後の話を聴耳草紙に残しています。

 爺様婆様は家で娘のことを案じて毎日毎夜泣いて居た。すると或夜娘が娘が夢に見えて、父も母も決して泣いてくれるな、オレは生まれやうが悪くて仕方がないので、あゝした態になつたのだから、どうかオレのことはあきらめてクナさい。其代り春三月の十六日の朝問、夜明けに土間の臼の中を見てケテがんせ。臼の中に不思議な馬形の形をした蟲が、ずっぱり(多數)湧いて居るから、それを葦毛を殺した桑の木から葉を採って来て飼って置くと、其蟲が絹をこしらへますから、お前たちはそれを賈つて生活してケテがんせ。それはトトコ(蠶)と謂う蟲で世の寶物だと言つた。さう聞いて両親は夢から覚めた。

(中略)

 これが今の蠶の始まりと謂う。さうして馬と娘は今のオシラ様と謂う神様になった。それだからオシラ様は馬頭と姫頭との二體がある。

 コピペが出来ないので手打ちですが、夫である馬を殺され、馬の首と天に昇った娘は、今度は両親に蚕を教えに夢枕に立っています。これって恩返し系の話にはなりますが、娘は人として生まれながら馬を愛してしまった親不孝を詫びる代わりの話と理解すれば良いのでしょうか。

 自分を親不孝者とするのは当時の倫理観からなんとか理解できますが、馬の存在がなんとなく宙に浮いています。そう、馬は神だったのかです。人を愛するぐらいですから普通の馬ではないでしょうが、こういう時って天の神とか、仏様が二人を憐れんでみたいなエピソードが入りそうなものです。

 ところが娘と馬は問答無用で天に昇ります。そして理由不明で神になります。そこに神なり仏の絶対者が存在しません。読みながら思ったのですが、仏教説話の原型はこうだったのかもしれません。私が無いことに違和感を感じた神や仏は後付けではないだろうかです。

 そんな感想を抱かせてくれたのが遠野物語です。

将棋の話

 先に断りしておきますが将棋はヘボも良いところで、ルールを知っているプラスアルファぐらいでしかありません。そんなドが付きそうな素人の感想です。

 少し遡りますが将棋界に黒船が襲来します。皆様よくご存じのAIです。ついにトッププロでも刃が立たなくなってしまったのです。この後の将棋界は人の最強を決める方向にシフトしたと見てよいでしょう。将棋の前にチェスも囲碁もAIの軍門に下っていましたから、これは上手く対応できたと思っています。

 ですがやはりAIは黒船だったと思っています。棋士たちにある目標を与えてしまったと考えています。トッププロでも勝てないのなら、そのAIの将棋を覚えれば天下を取れるぐらいです。

 AIの強みは膨大な棋譜を覚えている点ですが、棋譜を覚えただけでは将棋を指せません。局面に応じたアルゴリズムが必要になります。これを教師モデルというそうですが、AIの能力は教師を越えません。越えている様に見えるのは、参照に出来るデータ量が膨大なのと計算が早い点のはずです。

 AI将棋の特徴は何十手であっても詰みが見えれば絶対に間違わない点と、従来の将棋常識を考慮しない点で良いかと思います。つまり従来の将棋では非常識、その手はないとされていたのを次々と発掘した点と考えています。

 おそらく棋士たちは、そういう手が考え出されるAIのアルゴリズムの研究に没頭したのではないかと見ています。同じ思考過程をたどれば、そういう手に至るぐらいです。

 言うのは簡単ですが、これを実現するためには莫大な研究時間、桁外れの記憶量が必要です。ですがそれを乗り越えてAIに近付けた者が覇を競う時代に入った気がしています。ROM専に過ぎませんが、AIが指す手に近い棋士の方が勝率が高くなっていると見えます。

 どうしても藤井三冠に触れざるを得ないのですが、やはりAIの申し子的な面はあると感じます。ですがAI技術を身に付けた棋士は他にもいます。これも誤解を恐れずに言えば、AI的思考能力を身に着けた者が現在のトッププロとして君臨しているはずです。

 藤井三冠がそれでも驚異的な成績を収めているのは、AIの将棋を踏まえた上でさらなる思考を加えている点の気がします。相手がAI的な手を指すのはわかっていますから、それを超える手を繰り出せるぐらいでしょうか。

 藤井三冠の将棋はYoutubeでもあれこれ分析され、AI越えだとか、神の一手と取り上げられていますが、個人的にはピントが外れている気がしてなりません。藤井三冠の凄味はそういう手が指せる状況に持っていける戦略と戦術が本質の気がしてならないのです。

 藤井三冠が語られる時に藤井曲線が上げられますが、あれは中盤から終盤にかけてのAI的最善手の応酬の中で、相手をほんの少しづつ上回る手の積み重ねに見えるのです。一手の評価は互角であっても、じわじわと相手を巨大な嵌め手に落とし込んでいるぐらいです。そこにこそ本当の強さがある気がします。

 渡辺名人が棋聖戦で敗れた後に、解説をされた動画があります。

 謙遜もあるとは思いますが、飛車切りに出た渡辺名人は既に負けていたの解説は驚かされました。さすがの藤井三冠もそこまで読み切れなかったようです。

 さらに局面が進んだ時点で、今度は渡辺名人に勝機があったとなっています。今度は渡辺名人が読み切れずに見逃しています。トッププロの将棋とはそこまでと感嘆したのですが、渡辺名人に言わせると、飛車を切った時点でかなりの優勢だったはずなのに、勝機はいくら調べても、それぐらいしかなかったとされています。

 持ち時間が切迫する中で唯一の勝機を見出せるかと言われたら難しすぎるとしています。勝負の機微と言えばそれまでですが、渡辺名人は違う感想を述べています。これは棋聖戦第1局、第2局も踏まえてのものですが、勝機を見出すのが難しすぎるぐらいで良いかと思います。

 どんな将棋であっても勝負の岐路があるはずですが、藤井三冠と戦った感想として、あそこでとか、あの時に的なものを探し出すのが難しく、それこそ構想をガラッとかえて指し直すぐらいでないと勝つのは容易ではないとしておられます。

 これってAIが台頭した時にプロ棋士が勝てなくなった将棋と似ている気がします。そんなに悪い手を指していないはずなのに、気が付くとどう足掻いても挽回が不可能な状態に追い込まれているぐらいです。

 渡辺名人や豊島竜王は名実ともに棋界のトップを争う棋士で、AI研究も深いはずです。ひょっとしたら、かつてトッププロを蹴散らした時のAIより強いぐらいかもしれません。それぐらいAIに近い将棋を指せる実力者でも藤井三冠に分が悪くなっています。

 そうなると藤井三冠はAIレベルを踏まえた上で、さらに上の領域に足を踏み入れてる可能性があります。そうなるとどうなるかですが、将棋のトッププロもそこまで追いかける必要がありますし、当然のように追いかけます。

 そのたどり着いた果てはなんだろうです。大昔の将棋漫画に完全定跡を追求する話がありました。そう先手が必ず勝つ定跡です。それに対し、あれこれ戦術をもって棋士たちが挑みますが、ついに誰も勝てないことがわかります。

 漫画の説明としては、相手がどう指しても、必ず必勝形に持ち込んでしまう壮大な嵌め手みたいな説明をしていましたが、未来の将棋はそこに収束してしまうのかもしれません。

 こんな予想が外れるかどうかまで、辛うじて生きているかどうかの年代に入っているのがチト寂しいです。

ある結婚報道

 結婚は本人同士の意志さえあれば結婚できます。ですが結婚に際して親と喧嘩したい人は少ないはずです。出来れば親兄弟姉妹、親戚にも認められて祝福されながら結婚したいはずです。

 私も娘の親ですから「たぶん」そのうち娘が結婚相手を連れて来るかと思います。連れて来ずに勝手に結婚するとか、結婚自体をしないとかもありますが、そんな事を言いだしたらキリがないので連れてくるとします。

 これも妙なステップではなく、結婚に際して親への挨拶と了解は普通に結婚を目指すなら必ずあるもので、親としては相手の値踏みをやるわけです。色んな評価や見方はありますが、親として一番気になるのは、

    結婚して食っていけるか
 結婚とは新家庭を築くわけですから、生活できるだけの収入があるかどうかです。この辺をどのラインに設定するかは人によって異なりますが、申し訳ありませんがフリーターとか言われると良い顔をしにくくなります。ましてや無職とかになると門前払いにしかねません。

 これ以外にもまだ学生とかであれば難色を示します。将来有望であっても、まだ職にも就いていないからです。いくら将来有望でも、本当に有望かどうかは実際に職に就いてみないとわかりません。一人前とは、就いた職で安定した収入を得たものになるからです。結婚したいなら、ちゃんと稼いで見ろぐらいでしょうか。

 それと相手の家庭も気になります。これも気になり方は様々でしょうが、最低ラインとして相手の実家がちゃんと食べて行けているかはあります。大きな借金を背負って青息吐息とか、どうやって食べているか謎過ぎるとかになると難色を示します。ましてや犯罪に関与している可能性とか、筋の悪い訴訟トラブルを抱えていたら門前払いになります。

 古臭いと言われるかもしれませんが、結婚は新たな人生の門出です。そのスタート条件を少しでも良くしてあげたいと言うのは親心です。もうちょっと本音を言えば、こっちだってエエ歳になっていますから、結婚後のトラブル、とくに金銭問題に巻き込まれるのは歓迎できません。

 そういう親の反対を押し切るなり、駆け落ちまでの選択はありますが、そこまでやれば結婚後の関係は無くなります。法的に勘当とか絶縁はできないにしろ、感情問題がこじれ切っていますから顔も見ない関係とか、実家の敷居を跨がせない関係ぐらいになります。

 もちろんいくら条件を整えても離婚する時はしますし、スタートが悪条件でも幸せな結婚に結果としてなる時もあるでしょうが、親の立場としてリスキー過ぎる相手は避けたいと思うものです。

 願わくば娘がリスキーな相手を選ばないことを願っていますが、こればっかりは蓋を開けてみないとわかりません。娘が誰を愛しその恋に盲目状態になるかなんて、親ではコントロールのしようもありません。個人的な理想は、

 これをやってみたいのが夢です。さすがにオールドは避けたいですから、ここ一番の贅沢でマッカランぐらいにはしたいものです。とは言え、娘を見ていると、

    籍は入れた、式は挙げない
 こんな事後報告を喰らいそうです。他ならいきなり子どもを連れて家に来るとか。親って最後は子に甘いところがありますから、そうなったら、そうなったで認めてしまう気がします。願わくば、あまり波風が立たないものになりますように。

免許の更新

 周期的に来るのですが、この時に合わせて眼鏡を作り直すのが恒例です。視力検査に不安がありますからね。それでもって眼鏡屋に行きました。某大手チェーンですが、

    あらへんやん!
 神戸の元町商店街にあった支店ですが、いくら探しても見つかりません。スマホで確認すると6月に閉店になっていました。チェーン店ですから営業成績が悪ければドライに閉めるのでしょうが、さて困ったです。ですが三宮支店にデータを引き継いだとなっています。

 店を変えようか5秒ほど考えたのですが、元町から三宮なら近いので行くことにした次第です。これがまぁ、どこにあるのかはわかりやすいのですが、そこにどうやって行くのかが少々、いや知らなければ真っすぐには到着しないところでした。

 視力の方は老眼が進んだぐらいで免許の更新に差支えないぐらいで、老眼部分を修正したレンズを発注して終わりです。定番のどんなレンズにするかはありましたが、ひたすら前回と同じぐらいで押し切らせて頂きました。


 視力の不安がなくなったので免許の更新に臨みました。更新手続き自体はさしたるエピソードはないのですが、徒然にこの先の手続きを読んでいました。

 70歳以上になると高齢者講習が絡んで来ます。まだ先と言えば先ですが、果てしもない先ではなく、手の届く実感として出てきているからです。妙な誤解を招くと困るので補足しておきますが、まだ10年以上はありますが、この歳になって10年は早いですからね。

 さて高齢者講習となると、具体的には免許の更新の前に自動車学校で講習を受ける必要が出てくるのです。 そういう制度も必要なのは理解しますが、正直なところ面倒そうです。これが75歳以上になると認知症検査も入って来ます。

 ここで気になったというか、考え込んでしまったのは、高齢になると免許返納もありますが、返納ではなく原付や小特を残す選択もあるとなっています。ココロはクルマは無理でもそれぐらいです。この辺は地域の交通事情もあるぐらいでしょうか。地方の公共輸送機関はプアですからね。

 そうなっているのも理解は出来るのですが、自動二輪はどうなるのだろうです。つうのも、諸般の事情によりクルマの運転から遠ざかっています。下手すりゃ、このままクルマの運転は無しになりかねそうなところがあります。

 高齢者講習でもクルマの運転能力の有無が問われるで良さそうです。これは確実に落ちてますから、その時に自動二輪だけ残すはあるのだろうかです。

 もっともですが、今でさえバイクの運転は止められそうなところがあります。これが70歳を越えたらなおさらなんてものではないでしょう。どっちにしても自然消滅でフェードアウトになるぐらいも十分予想されます。

 それとあくまでもこれから無事故無違反で過ごしてそれなりに元気で生きていたとしてですが、70代の最初の免許更新は74歳になります。そこまで行ったら・・・その時に考えたらエエか。その頃に世の中まで言わなくても、免許制度がどう変わっているかなんか予想も付きませんからね。