オシラサマ

 遠野物語は柳田国男の代表作であり、日本の民俗学の黎明期の作品です。そういう作品があることを知っている人は多いと思いますが、恥ずかしながら私は読んだことがありませんでした。理由は色々ありますが、とにかく読んだことがなかったのです。

 ですが東北に旅行に行く設定の作品を書くに当たり、遠野を訪ねさせることにした関係で初めて拾い読みしました。なかなか興味深いものでした。

 素朴な感想として関西とは宗教観が違うです。遠野物語のような奇譚は全国にありますが、どうしても仏教的な説話としてまとめられてしまっているのが多いと考えています。シンプルには因果応報でしょうか。しかし遠野物語はかなり違う感触です。

 遠野物語にはいくもの神が登場しますが、代表的なものの一つにオシラサマがあります。青空文庫かから引用しますが、

昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、ついに馬と夫婦になれり。或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父はこれを悪みて斧をもって後より馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり。

 馬と夫婦になった体位はどうだったのだろうなんてツッコミは置いとくとして、娘は夫である馬を父親に惨殺されています。それであれば娘は父親を恨みそうなものです。遠野物語では話はここで切れていますが、佐々木喜善はこの後の話を聴耳草紙に残しています。

 爺様婆様は家で娘のことを案じて毎日毎夜泣いて居た。すると或夜娘が娘が夢に見えて、父も母も決して泣いてくれるな、オレは生まれやうが悪くて仕方がないので、あゝした態になつたのだから、どうかオレのことはあきらめてクナさい。其代り春三月の十六日の朝問、夜明けに土間の臼の中を見てケテがんせ。臼の中に不思議な馬形の形をした蟲が、ずっぱり(多數)湧いて居るから、それを葦毛を殺した桑の木から葉を採って来て飼って置くと、其蟲が絹をこしらへますから、お前たちはそれを賈つて生活してケテがんせ。それはトトコ(蠶)と謂う蟲で世の寶物だと言つた。さう聞いて両親は夢から覚めた。

(中略)

 これが今の蠶の始まりと謂う。さうして馬と娘は今のオシラ様と謂う神様になった。それだからオシラ様は馬頭と姫頭との二體がある。

 コピペが出来ないので手打ちですが、夫である馬を殺され、馬の首と天に昇った娘は、今度は両親に蚕を教えに夢枕に立っています。これって恩返し系の話にはなりますが、娘は人として生まれながら馬を愛してしまった親不孝を詫びる代わりの話と理解すれば良いのでしょうか。

 自分を親不孝者とするのは当時の倫理観からなんとか理解できますが、馬の存在がなんとなく宙に浮いています。そう、馬は神だったのかです。人を愛するぐらいですから普通の馬ではないでしょうが、こういう時って天の神とか、仏様が二人を憐れんでみたいなエピソードが入りそうなものです。

 ところが娘と馬は問答無用で天に昇ります。そして理由不明で神になります。そこに神なり仏の絶対者が存在しません。読みながら思ったのですが、仏教説話の原型はこうだったのかもしれません。私が無いことに違和感を感じた神や仏は後付けではないだろうかです。

 そんな感想を抱かせてくれたのが遠野物語です。