国道一六一号を南下していくのだけど、あの山を越えるのか。道は良いのだけど、このダラダラした登りにモンキーは極めて鋭敏に反応するんだよね。この道路状況とのダイレクト感は絶対に大型では味わえないはずだ。
「単に非力なだけや」
うるさいわ。まあそうとも言うけどね。だいぶ登ったところで右が国道一六一号で、左が国道八号ってなってるけど、
「国道八号は塩津に下る塩津街道や」
じゃあ国道一六一号は、
「山中越とも七里半越とも言うけど、北陸道の本道としてエエやろ。この辺は疋田やねんけど、愛発関があったとこやとされてるねん」
愛発を『あらち』と読むのは難読過ぎると思ったけど他に荒地と当てたのもあるそうで、縁起が悪いから変えたのかもって。愛発関は古代では鈴鹿関や不破関と並んで三関と呼ばれたそうだけど、未だに位置が不明なのか。
疋田から海津大崎の方に下りになったのだけど、北陸道の本道って他にも可能性はあるの。だってなんだか口を濁してじゃない。
「オレもわからんとこが多すぎるんやが」
敦賀は神功皇后の頃から記紀に出て来るぐらい古くから栄えていたで良さそうなんだ。コータローの妄想では、
「妄想やのうて仮説や」
幻の丹波王国みたいに敦賀にも大和王権と並立するような王権があったはずだって。その王権は丹波王国が宮津の海上交易で栄えていたように、敦賀の海上交易で栄えていたのだろうって。敦賀湾を見たからそれはなんとなく想像できる。
これが大和王権の支配下になったのだけど、都からの交通路には変遷がありそうなんだって。どうも最初に成立したのが、
「湖西を北上して今津から熊川の方を越えて、三方五湖の方に出て、そこから東に向かうルートやなかったかとされとるねん」
なんだ、なんだ、その大回りルートは。
「そういうけど、信長はこのルートから金ヶ崎の退き口を戦ってるで」
信長が浅井の裏切りで苦戦したやつか。だけどやはり大回り過ぎるとなって今の山中越に、
「そういう説もあるねんけど、山中越のもうちょっと西側の白谷越が次やったとする説もあるねん」
これは現在でも林道としてあるそうだ。で、どっちだったの?
「オレがわかるかい。そやけど白谷越やったら愛発関がどこかいよいよ謎にならんか」
そうなると愛発関の発見がその頃のルートの特定になるかもだな。さっきの塩津街道は、
「名前の通りでエエやろ。敦賀の塩を運んどってんやろ」
なんてエエ加減な。それじゃ、千草のモヤモヤがスッキリしないじゃないの。これは千草の夫をやらせてあげてるコータローの勉強不足が諸悪の根源だ。
「諸悪の根源は言い過ぎやろ」
黙りなさい。昨夜だって千草の体を散々弄びやがったし、コータローどす黒い性欲のすべてを千草の中で炸裂させられたんだぞ。そこまでの仕打ちを幼馴染にしておきながら、この体たらくはなんだよ。
「もっとって言うたやないか」
そんなものは都合よく千草の記憶から消えたに決まってるだろうが。そんな夫婦の睦言みたいな話は置いといて、若狭経由の道は遠すぎるからまず塩津への道が出来たんじゃないかって。
「塩は貴重品やったからな」
奈良にも近江にも海が無いものね。塩津まで運んで後は琵琶湖の水運ってやつだな。だけどどうせ運ぶなら海津の方が便利だになったんじゃないかって。でもさぁ、目くそ鼻くそぐらいの差じゃないの。
「アホ言うな。人力やぞ。海津大崎を回るだけでも一苦労や」
敦賀からの荷物だけど、琵琶湖沿岸にも配られたとは思うけど、京都が都になってからは大津に運ばれていたと考えるのか。確かにそうなりそうだ。そうなると塩津に運ばれたのが湖東からさらに東に、海津に運ばれたのが湖西から京都にって感じぐらいかな。じゃあ白谷越は、
「あってんやろか」
あれだけ千草の体を弄んでおきながら、
「下りて来たで」
ずっと下りだったんだけど、信号が出て来たし、民家も見えて来た。それにあれって、
「琵琶湖や」
どうして先にそれを言う。千草に言わせろよな。この代償は高くつくぞ。今晩は根こそぎ一滴の残らず搾り取ってやる。覚悟しておけ。あれっ、いつの間にか国道一六一号から国道三〇三号になってるな。
山道が終わって開けた街になって来たからこの辺が海津なんだろうな。昔の人は敦賀から荷物を背負って歩いていたと思うとビックラだ。それでもそんなに混んでるって感じはなかったけど。
「そらそうやろ。クルマとかやったら北陸自動車道やろ」
それもそうか。みんなモンキーのために高い通行料を払ってくれてるんだ。
「それ払う分ぐらい速いからや」
どう思おうが思想信条の自由じゃ。それと見逃してしまったけど、琵琶湖の湖畔だからここは滋賀県よね。まさかモンキーで滋賀県に轍が刻める日が来るなんて思わなかったよ。道は滋賀県に入ってからも快調だけど、
「なんか寂しいとこやな」
海津も昔は湊で栄えたのだろうけど、今となったら滋賀県の北のハズレみたいなところになってるのかなぁ。
「さっきマキノ高原はこっちやってあったやろ。あれが白谷越の道になるはずや」
もし白谷越が本道だった時代があったとしたら、塩津も海津も成立する以前の気がするな。とにかく直線距離で敦賀に行くことだけが目的の時代に作られた気がするもの。
「千草の意見は合理的やと思うんやけど、ある学者は山中越が先にあって、新道として白谷越が出来たとしてるんや」
そんなに通りやすい道の?
「山中越より二百メートルぐらい高いそうや」
それ高すぎる。もっともだけど、お役所仕事って時に机上の案を現地も見たことが無い人が建てて、強行する事がしばしばあるから、後世の人が見たらミステリーになることがあると思うのよ。
「それあるかもな。あいつら机上で計画建てよるし、決めたらゴリ押ししても現場に丸投げしよる」
今だってそういうことろがあるよね。
「神戸かってあるやん」
あそこか。神戸って昔は昔は新開地が繁華街の中心地として栄えていたのよね。それが戦後になって東に中心地が移って行き、今は三宮だ。その分、西の方が寂れてしまったのだけど、
「新長田はやり過ぎやろ」
千草もそう思う。東と西でバランスを取るためぐらいの理由で、大規模再開発事業をしたのだけど、
「あんなバカでかいもんが埋まるはずないやんか」
正直なところね。計画時から疑問視されてて、結果もそうとしか言いようがない。
「後始末は税金や」
北陸道にもそんな歴史があったのかも。