とにかく早朝なんてレベルじゃないツーリングだったから、神戸まで戻っても、やっとこさコメダが開店してくれるレベルなんだよ。モーニングを頂きながら、今日走った道は有馬街道だよね。
「まだ寝とったんか。あんなとこに道が出来たんは明治以降や」
そんなキツイ切り返しをしなくても良いでしょうが。でも寝惚けてたかも。神戸が栄えるキッカケは外国への開港だけど、同時に外国人居留地が出来たのよね。
「ハゲタカ商人の集団やけど、あいつらが六甲山を遊び場って見たものな」
日本初のゴルフ場が出来たり、別荘とか保養所があれだけ作られたのもそれからだもの。外国人居留地が無くなってからも六甲山の観光開発は続けられて今に至るぐらいの流れのはずだ。だったら有馬街道はどこだったの。
「生瀬から船坂通って有馬温泉やったはずや。今でもそのルートは残っとるからな」
さすが歴史オタクだ。
「歴史オタクやない、単なる歴史好きや」
コータローでもオタクって言われるのは嫌なんだ。
「ちゃうわい。オレはオタクほど詳しないからや」
そっちのこだわりかよ。有馬温泉の始まりって神代の時代まで遡るし、奈良に都があった頃から天皇が湯治に来た記録が残ってるぐらい。天皇が湯治に来るぐらいだから、臣下だって居たはずで、いわゆる王侯貴族の御用達温泉みたいなものだから、古くから街道はあったはずよね。
「それでエエと思うんやが、オレは有馬温泉が見つかる前から有馬街道はあったんやと思うてるねん」
えっ、えっ、有馬温泉を見つけたのは、
「開湯伝説からして神話の世界やんか。大国主命と少彦名命が見つけたとはなっとるけど、出雲勢力が有馬まで勢力を伸ばしとったかは疑問やもん」
そのレベルの古い話か。コータローが言うには古代の有馬街道は有馬温泉に行く街道をそう呼んでいたはずとしてるけど、
「あれも有馬街道と呼んでたかは疑問や。有馬温泉は湯山とも呼ばれとって湯山街道としてるのもあるねん」
湯山街道も読むときは湯の山街道と呼んでた可能性だってあるのか。今の湯の山街道は三木から有馬温泉に向かう街道を指すけど、どっちも湯山街道もしくは湯の山街道って呼んでたかもね。でもさ、湯の山街道の方が新しいでしょ。
「それがな、トンデモなく古いんや」
神功皇后の時代には既にあったって言うの! 神功皇后レベルになると存在年代さえ議論が出て来る、半分ぐらいは神話の人物じゃないの。
「とにかく応神天皇のお袋さんやからな」
この神功皇后の有名な事績に三韓征伐がある。そんな時代に本当に半島まで軍勢を率いて攻め込んだかの議論まであるけど、とにかく根拠は古事記とか日本書紀になるのよね。そんな時代の人だけど有馬街道とか湯の山街道との関りは?
「話をシンプルにするとやな・・・」
ちっともシンプルじゃないじゃないの。千草が理解した範囲で言うと、三韓征伐をするために船を武庫川の河口の港に集めたそう。その数が八百艘だったから八百崎と呼ばれ、これがなまって魚崎になったとか。
この時に神託を受けて軍船を赤く塗れって事になったんだって。赤く塗ると言ってもホームセンターでペンキを買えた時代じゃないから、赤色の染料から採取しないとならないのが古代かな。
「そのために丹生山に水銀の採取に行った話が播磨風土記に残されとる」
丹生山は水銀が取れるから名付けられたらしいけど、ここにあった明要寺も古いなんてものじゃなく、仏教伝来の前に出来たとされるぐらい。だけど、
「明要寺が出来たんも神功皇后のずっと後や。もっとも聖明王の子が始めとなっとるから、欽明天皇の頃のこっちゃろ」
丹生山で水銀を採取した神功皇后は西に向かったのだけど、
「地元にも泊まっとるで。神功皇后が泊ったんが君が峰で、引き連れていた軍団が泊ったんが宿原や」
そうだったのか。神功皇后はそこから明石に行ったの?
「ちゃうと思う。加古川を下ってんやろ。加古の水門の話が残ってるからな。その頃には武庫川の港から軍船も回って来とってんやろ」
つまりって程の話じゃないけど、神功皇后は西宮から丹生山に行き、さらに千草たちの地元も通った事になるのか。だからその頃には後世の有馬街道も湯の山街道もあったって話になるよね。
「丹生山で水銀が採れる話は既に知られとったはずやねん。だから西宮から神功皇后は行ったはずやんか。ついでに言うたら、水銀採ってる連中かって、これを売ってこそ商売やん」
商売として売り込み先は当時の都になって来るのか。売るためには輸送路が必要だから必要な道も切り開いていたぐらいは言えそうだ。
「それとやけど、摂津から播磨に行くのは大変やってん」
そんなものJRなり山陽電車に乗れば、
「古代は垂水のあたりに海が迫っていて通れんかってん。そやから須磨から北に上がって多井畑厄神の方から塩屋に行ってたんや」
離宮公園の坂を登って越えてたのか。あれだって高倉山のあたりを削り倒して昔よりかなり低くなってるよね。それだけ大変だから、生瀬から有馬街道、湯の山街道を通る道が古代からあっても不思議ないのかも。そうだそうだ、有馬温泉の話は、
「ああそれか。理由は単純や。神功皇后が有馬で温泉に入った話が残ってへんねん。あれだけ神功皇后伝説があるのに変やろ」
コータローの解釈が正しければ神功皇后は有馬温泉を通ったはず。地形的に避けて通るのは不自然過ぎる。それにだよ、
「ああそうや。丹生山での水銀採取かって一朝一夕やないはずやから、有馬に温泉があったら入りに行かん方が不自然や」
もうちょっと言えば神功皇后は古代のスーパースターみたいなものだから、あちこちに神功皇后の所縁のものが転がってる。なのに有馬温泉にそれがないのは、
「その頃はなかったか、あっても入浴するもんやなかった可能性はある」
もっともだけど、神功皇后が丹生山経路の道を通った話も後世のあやかり伝説の可能性もあるとはしてた。だって軍船を赤く塗る水銀が必要だとしても神功皇后が自ら行く必要はないじゃない。
「まあそうや。残されてるのは伝承だけや。そやけどな、いくら伝承やっても通れる道を神功皇后に通らさへんか」
そう考えるのか。少なくとも伝承が出来た頃には宝塚から三木に行ける道があったからこそ、そういう伝承が出来たはずだものね。こういうのが古代ロマンって言うのだろうけど、いくらなんでも古すぎだ。
「それがおもろいねんやんか」
ディープ過ぎるぞ。