ツーリング日和17(第30話)夢の話

 クレーマーのお蔭でぶち壊しになりそうだったけど、なんとか気を取り直してディナーだ。うん、晩飯じゃなくてディナーだよ。もっともここでこういうフレンチの店の最初の難関がやってくる。

 アリスだってフレンチの最低限のテーブルマナーぐらいは知っている。健一だって覚えて来てるはず。それも知らなきゃ、こんな店に来るはずないもの。だけど黙って運ばれた来た料理を食べていれば済まないのがこの格式の店だ。

 フレンチだからワインを飲むのはわかるのだけど、どんなワインを飲むのか選ばないといけないんだ。これは和食でビールやワインを飲むのと同じじゃないのよね。極端な話、店にあるどのビールを飲み、どの日本酒を飲んでも大差はないはずだ。

 だけどフレンチでのワイン選びはグルメのこだわりになるそうなんだ。自分の好み、その日のメニューに合わせて選ぶそうだけど、どんなワインを選ぶのかが楽しみになり、その相談の専門家までいるんだよ。そうソムリエってやつ。

 ワイン選びはさらなる難題もある。こういうレストランのワインは高いのも多いんだよ。コース料理より高いワインがゴロゴロしてるって話だもの。それどころか何十万円とか、百万円すら軽く超えるものだってあると言うじゃない。ホイホイ選んでたら破産するじゃない。

 それをワインと言っても赤と白とせいぜいロゼがあるぐらいを辛うじて知っている人間に決めさせるって、イジメみたいなものじゃないの。そういう点で言えば、越後屋社長の言葉も盗人にも三分の理ぐらいあって、それが出来る客がこういうレストランに來るべきだはありそうな気がするぐらい。そしたら閻魔大王ならぬソムリエが来やがった。

「先ほどは御迷惑をおかけして本当に申し訳ございませんせした。これから精いっぱい勤めさせて頂きます。本日のワインですが・・・」

 コトリさんたちが今日のワインを選んでくれてるとはなんてラッキーな。

「これもあんな事がなければ・・・」

 今日のメニューに合うワインを、アリスたちがソムリエと相談の上で決めたかのように自然に誘導する使命を受けてたんだって。どうやって誘導するかにあれこれ工夫を考えていたそうだけど、こんな事になってしまったから素直に出すように言われたそう。

「メニューも今夜の二人のためのスペシャリテになります」

 なんだそれ、健一も聞き直していたけど、予約していたメニューとは違うそう。これもサプライズだったようで、想定していないメニューが出て来るのを見て驚く様子を楽しむ予定だったそうなんだ。そうなった方が良かったのか悪かったのかは微妙だ。

『カンパ~イ』

 まず食前酒としてさっきのお詫びのシャンパンを頂きながら、

「マグロ、アワビ、キャビアと彩野菜のタルトレットでございます。バルサミコ風味のドレッシングでお楽しみ下さい」

 こんな感じでメニューが進む。どっかの映画のワンシーンみたいだ。でも不思議過ぎる感覚だ。こんなレストランでフレンチを食べてるのもあるけど、どうしても解けない謎がある。アリスみたいなハズレ女にどうして健一が惚れたかだよ。

 そんなもの惚れた弱味って言われればそれまでだけど、それにしてもはどうしてはあるもの。これだってアリスがウルトラ美人ならまだわかる。そりゃ、アリスだって丸っきりのブスではないはず。つうか、それぐらいのプライドが無いと生きていけないじゃないの。

 ここまで来てもアリスには引け目が残ってる。嫁になるって主婦としての機能を今でも期待されてるところがあるじゃない。そりゃ、昔みたいにイコールじゃないし、家事分担は当然の前提だとしても、アリスはあまりにも無能すぎる。

「アリスを見てわかったんだよ。本当のプロとはどんなものかをね」

 なにがわかったって言うのよ、

「前にプロになる条件の話をしたけど、あれはボクが間違ってた。まずプロになれるのはウサギだ。カメはどれだけ努力してもウサギには勝てない」

 そういう世界だけど、

「プロで成功するのは努力するウサギだ。怠けるウサギはプロにはなれても消え去るだけだ」

 そういうところはあるけど、

「この努力するとはどういう事かにボクは無知すぎた」

 どういうこと?

「努力の桁がボクのチンケな想像を越えすぎてた」

 そうかな。

「プロになれるのはウサギだが、自分がウサギかカメかを知るには努力と精進を重ねるしかない。そう、自分の才能の極限まで絞り尽くした時にウサギなのかカメなのかが初めてわかる。アリスぐらい努力した者のみが自分の才能の有無を知ることができると言うことだ」

 そんなことないよ。プロならあれぐらい誰でもやってるよ。

「そうだよ誰でも当たり前のようにやってるはずだ。そう出来る者のみがプロになれ、そこで成功を掴める世界だ。アリスの姿を見て真のプロとはこういうものだと思い知らされた」

 健一が言うには努力できるのも才能かもしれないって。持って生まれた才能と努力する才能が合わさった者だけに成功のチャンスが訪れるんだろうって。いやいや、アリスはそんなに努力してないよ。

「そりゃ、そう思うはずだ。努力を苦労して重ねているうちは大したことがない。本当に努力するとは、それが努力しているとさえと感じないはずだ」

 健一にはアリスはどう見えたって言うの。

「そこには美し過ぎるシナリオの鬼がいた。良く全身全霊を傾けるって言うけど、あれこそがそうだ。魂が震えたもの」

 そういうけど汚部屋の女王だよ。

「この世界で成功する難しさは良く知っているつもりだよ」

 健一もイラストレーターでは芽が出なかったものね。

「成功するのも難しいなんてものじゃないが、その座を維持するのも並大抵のものじゃないだろう」

 チャンスを掴んで表舞台に躍り出ても、そこだって保証された座じゃない。なんとか引きずり降ろして取って代わろうとするものがウヨウヨしている世界だもの。アリスだってウヨウヨしながらずっとチャンスを窺っていたもの。

 それとだけど、トップグループには定員があると良く表現される。これは需要と供給の関係にもなるだろうけど、トップの座に座れる人数は決まってるとして良い。アリスが座れば誰かがその座から追い出されるって事になるんだよ。

 誰だって上を目指すけど、上に行くほど限られた座の椅子取り競争もまた激烈なのがこの世界だ。アリスだって一発屋として、たちまち消え去る事もあるのもこの世界だもの。

「アリスの部屋を見て思ったんだ。アリスが成功を続けるためには、これを支えてやる人間が必要だってね」

 ギャフン。だからあの惨状を見ても動じなかったのか。でも変わってるよ。普通は引くどころか、あそこから裸足で逃げ出したって不思議無いものね。

「宮本武蔵は五輪書で三年を鍛とし、十年を錬としている。今風に言えば基礎技術の習得に三年、そこからの応用技術の修練に十年としても良いと思う。この言葉って今でも通用すると思わないか」

 寿司職人がシャリ炊き三年、あわせ五年、握り一生と言われたり、うなぎ職人が裂き三年、串打ち三年、焼き一生と言われてるようなものだよな。寿司職人やうなぎ職人だけでなくプロとして認められる技術になるには、なんでも十年ぐらいの経験年数は必要とするって話に通じるのはわかる。

「だけどな、武蔵の言葉には裏があると思う。そこまではどんな人間でも鍛錬を重ねれば到達可能な範囲としてる気がする。そこから先は天才の道になる。さらに言えば十三年の鍛錬を出来た人間のみが天才の道を歩ける可能性が初めて出てくるぐらいだ。それが出来ているのがアリスだ」

 この世に難関とされる分野はある。わかりやすいもので言えば理系なら医師国家試験、文系なら司法試験かな。

「東大合格なんかもそうかな」

 どれも難関ではあるけど、鍛錬を重ねれば合格できる人は多いと思う。もちろん並大抵の努力じゃないだろうけど、

「ドラゴン桜の世界だな」

 ここも言い切れば凡才でも努力する才能に恵まれれば合格は夢じゃないぐらいだ。だけどイラストレーターやシナリオライターの世界はそうじゃない。あえてたとえれば医師免許や司法試験合格、東大合格がスタート時点だ。

 そう、ようやくプロとして認められる程度で、やっと食べられるか食べられないかにしかならないんだよ。食えるプロ、さらに成功したプロになるには、そこから激しい競争に勝ち残った一握りの人間のみ。そんな人間がすべてを握る弱肉強食の世界だ。

 だから人には夢を追う愚直さも必要とは思うけど、見切りも大事だと思うんだ。だって分野によっては死ぬまで努力を重ねても実を結ばない事だってあるもの。人が本当に向いてる才能なんて自分でもわからない。それが見つけられた人は幸せだと思うもの。

 健一の今の職業は合ってると思うし、誰にだって胸を張れるものだ。健一がイラストレーターの夢を断念したのは間違った選択とは思わない。

「もちろん今の職業に誇りをもってる」

 そこからニヤッと笑って、

「最初に目指した夢はどうしても残るみたいなんだ。今でも夢に見ることがあるぐらい」

 まさかの再挑戦とか、

「無いよ。人生は何度でもやり直しは利くと人は言うけど、それはウソだ。せいぜい三十歳までだな。だってだよ、三十歳から十年もかかったら四十歳になってしまう。どんな天才も歳には勝てないよ」

 本音としてはそうなるな。人ってね、歳には勝てないのよ。言い換えれば旬の時期ってものがある。努力が実を結ぶ時期だって旬がある。二十代の十年と、三十代の十年は同じじゃない。努力が報われる時期だって、活躍できる時期だって限りがあるはず。

 十代から二十代でチャレンジして挫折した時に再挑戦できるのは、もう一度ぐらいじゃないかな。チャンレジに失敗して再挑戦って気軽に言う人もいるけど、一つのチャレンジに失敗して費やした時間は取り戻せないのが人生だ。

「アリスの言う通りかもしれない。人が夢を追いかけるのって難しいよな」

 誰だって一度ぐらいは華やかな商売に憧れたことはあったはずなんだ。たとえばアイドルの世界。でもね、アイドルになるには男ならイケメン、女なら美人じゃなくちゃスタートラインさえ遠いんだよね。これこそ生まれ持った天分になるから努力ではどうしようもない。

 人生論を語るには早いと思ってるけど、人がやらないと行けない事は、社会人として暮らしていけることだと思ってる。いつまでも夢を追い続けることが良いとも言えないはず。と言うかさ、夢を現実のものにした人間なんて、この世にどれぐらい居るかって話になるじゃない。健一は立派だよ。